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複製としての楽曲(複製について・01)

「複製について」という連載を始めます。とはいうものの、自分にとって不案内な分野やジャンルについてお話しすることが続くだろうと予想しています。

 ですので、あくまでも素人の私の印象と意見として、文字どおりご笑覧いただければ幸いです。

 今回の「楽曲」についても私は疎いです。私は重度の中途難聴者なので、現在は音楽を聞いて楽しむことがほとんどありません。

 補聴器はしていますが万能ではないし(聞こえる音域にムラがあってよく聞こえないのです)、補聴器の音は機械のつくった音ですから、ときには、うるさくも不快にも感じられます。

 ただし、YouTube は大好きでよく見ます。字幕を頼りに見るのです。

 楽曲の動画は昔聞いたものしか楽しめません。記憶のある曲だと頭の中で鳴ってくれるのです。その音声の記憶をたどりながらの「視聴」ということになります。


オリジナル


 現在、楽曲は複製で鑑賞するのが一般的だと思います。楽曲の場合には、何がオリジナルなのかは知りません。いろいろな考え方があるのだろうと想像しています。

 オリジナルとはライブなのでしょうか? 生の演奏だと、いつの演奏なのでしょうか? ひょっとして、音源と呼ばれている複製がオリジナルと見なされることもありそうです。

 もしかすると、楽曲のオリジナルは楽譜なのかという気もしてきましたが、まさかそれはありえないだろうと思います。そもそも、すべての楽曲が五線譜にかかれる形で作曲されるとは考えにくいです。

 かといって、どんなふうに作曲されているのかは知りません。私の記事は万事がこんなふうになります。連想と想像の産物なのです。

 そんなわけですから、素人は素人なりに、話を進めるしかありません。ここでは、とりあえず楽曲のオリジナルとは生の演奏である、としておきます。

見えなくて、次々と消えていく音声


 楽曲を成り立たせているのは音声です。そうだとすれば、話し言葉と同様に、発せられたとたんに次々と消えていきます。

 そうした特徴をもった楽曲の鑑賞には、再生という課題が付きまとうだろうと想像します。誰もが、生の演奏に立ち会えるわけではないからです。

 楽曲の再生は、実演によるものと再生機器によるものと大別できると思いますが、どちらの場合もその環境や装備やその時々の条件によって左右される気がします。

 音声というのはきわめて不安定なのです。不安定というのは、文字どおり一定しないという意味です。環境や条件に左右されやすいとも言えます。

 絵画や小説と比較すると、音声の不安定さは、たちまち消えるということに集約されそうです。発せられたとたんに次々と消えていくものをどう扱えばいいのでしょうか?

すっと入ってきて、記憶される音声


 音声を相手にすることは、消えていくものとの「追いかけっこ」であり、消えていくものとの「かくれんぼ」でもある気がします。

 音声が相手の「かくれんぼ」では、鬼は自分一人で、相手がどんどん出てきてどんどん姿を消していくことになります。その相手を見つけしだい記憶にとどめなければなりません。

 とはいえ、比喩は比喩でしかありません。「追いかけっこ」や、「かくれんぼ」にたとえたところで、相手(対象)は見えないし見つからないのです。

 見えない音声の話なのに、視覚に傾いた比喩は不適切だと言えそうですが、感覚としてはそんな感じです。必死で追いかけ、必死で記憶にとどめるのです。

 ところが、音楽はすっと入ってくることがあります。自分にとって不快なものなら別ですが、快ければ意識して追いかけなくても、なぜか自分の中に入っていて、なぜか記憶されていることが珍しくありません。

 あとで述べますが、これはとても有り難いことです。音楽の不思議さでもあります。

絵画、小説、楽曲


 絵画なら、破壊しないかぎりは物として残っています。絵画については、次回の記事に書くつもりですが、有名な絵画であるほど、複製として鑑賞されている現実があります。

 小説だと活字で読むのが一般的ですから、小説は複製として読むのが基本的であると言えるでしょう。小説のオリジナルというのもイメージしにくいです。この点については別の記事で書く予定でいます。

 絵画と小説とくらべると、楽曲の場合には、その複製は無形で、とりとめがないものだというイメージがあります。

 一方、絵画と小説の複製は、物(物質・物体・オブジェ)としての形があり、つまり有形であり、ハードなイメージです。

 レコードやCDはかたいじゃないかと言われそうですが、私にとってそれらは複製ではなく器であって、中の楽曲がかたい物だというイメージはありません。

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 楽曲が「とりとめがない」というのは、物としての固さや硬さや堅さとは遠いというイメージです。「かたさ・かたい」は「かたち」に通じます。目に見える形がないのです。

 また、演奏は、現象であり、出来事(incident)、場合によっては偶発的な事件(accident)でもあるという感じもします。

 素人が勝手なことを言って申し訳ありません。

 楽曲の複製はデータ(情報)であり、オリジナルとしての演奏はイベントであると言えば、イメージしやすいかもしれません。

 そのため、楽曲は、データ(情報)としての販売・拡散・流通と親和性があり、それがネット配信という形で実現しているのかな、という印象も受けます。

再生装置と媒体


 考えれば考えるほど、楽曲のオリジナルと複製は困難に満ちているという印象が深まります。音声は片っ端から消えていくからです。

 そのため、楽曲の複製の鑑賞では再生装置(機械)が不可欠なのではないでしょうか? 

 当然のことながら、鑑賞のさいにはその度に電力も消費するでしょう。絵画や小説のように、印刷物としての複製が存在できそうもないからです。

 楽曲の複製としては、古くはレコード、それから磁気テープ、それからデジタル化されたデータというふうにイメージしています。

 デジタル化されたデータというのは、CDとか、MDとか、レーザーディスクとかなのでしょうが、私は詳しくありません。その仕組みすら知りません。言葉で知っているだけなのです。

 とにかく言えるのは、楽曲の複製を鑑賞するためには、再生装置と再生する媒体がどうしても必要なのだろうということです。もしそうだとすれば、これは大変です。絵画や小説と比較して鑑賞に手間が掛かるという意味です。

楽曲だけに可能なこと


 一方で、楽曲にしかできない「再生」と「複製」があるとも感じています。

 頭です。頭というか心というか意識というか、よくわからないのですけど、頭にしておきます。

 頭の中でかなりの臨場感(リアリティ)をもって「再生」(これを再生と言えるかはともかく、あくまでも私の個人的なイメージとしての話です)できる。これは絵画や小説にはない特徴ではないかと思います。

 現に今私の頭の中ではある楽曲が鳴っています。流れているのです。すごくリアルです。

 小説ではこんなことはありえません。暗唱している小説なんて私にはありません。俳句や短歌ならありますけど。

 また、隅から隅まで細部を、そこそこでもいいから、記憶している絵もありません。

 そもそも、物の姿や形や風景を、絵や像として思い浮かべたり思い描くのは意外と難しいものです。

 ぼんやりとした像として定着させることすらできません。私には不可能に思えます。

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 そう考えると、楽曲はすごいと感心しないではいられません。

 始まりと途中と終わりがあるものとして、つまり連続したものとして、一曲が頭の中で流れているのですから。

 頭の中で、音声が忠実に再生なり再現できているかは知りませんし、わかりません。でも、個人にとって楽曲や音楽はそうしたものなのではないでしょうか?  

 音声は見えないものである以上、パーソナルな体験としてある気がします。絵画や小説のように目に見える形でみんなと確認し合ったり共有できないのです。

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 私は新しい楽曲を聞き取れないし、聞き覚えることはできなくなっていますが、それでも昔覚えた曲が頭の中を流れます。歌であれば、口をついてあれよあれよと出てくるのです。

 それだけで幸せです。これ以上の贅沢は望みません。

 音楽は不思議なものです。見えないし、ここにはないにしても、リアルなものとして頭の中にあるし流れているのですから。

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