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こわれる・くずれる(文字とイメージ・05)

 体を壊す、体調を崩す。

 昨夜は寝入る前に、この二つのフレーズを転がしていました。

 こわす、壊す、壊れる、くずす、崩す、崩れる
 破壊、崩壊、崩壊感覚、環境破壊

 こういうのは寝入り際に転がすものではないと思い、他の言葉転がしに移りました。

 目覚めた頭で、あらためて転がしてみます。


見える「壊れる」、見えない「壊れる」


 こわれる。こわす。

 見えるものだけでなく、目でとらえられないものも壊れると言います。おなかを壊す。でも、おなかが壊れるとは言わないようです。

 私はよく「心が壊れる」という言い方をしますが、「心を壊す」もいつかつかってみたいです。

「気持ちが壊れる」や「気持ちを壊す」はぴんと来ません。「魂が壊れる」と「魂を壊す」はなかなか言えている気がします。つかってみたいです。

壊れる、崩れる


「こわれる」と「くずれる」は似ています。

「こわれる」は高めの音で派手に壊れて、「くずれる」は低い音を響かせて地道に、そして着実に崩れるイメージがありますが、個人的な印象でしょう。

 山崩れと雪崩、環境破壊と価格破壊を例に取ると、「崩れる」は自然っぽく、「壊れる」は人工っぽい気もします。

 環境問題とか異常気象のように、責任を回避したいヒト――人ではなくヒトです――の思惑が見え見えの婉曲表現よりも、環境破壊とか、気象破壊(こうは普通は言いませんが)とずばりと言ったほうが、いさぎよいと思います。

 破壊もたしかに派手で怖いのですが、崩壊には自立的な崩れの不気味さを感じます。そうなったら、もうおしまいみたいな感じ。

 環境問題 < 環境破壊 < 環境崩壊
 異常気象 < 気象破壊 < 気象崩壊

 本能の壊れたヒトの手を離れて、この星が自主的に崩れていくような――。

 崩壊だと、破壊のように最後の最後は欠片や破片が飛び散るのではなく、崩れて塵(ちり)や煙となって消えていく感じがします。

 崩壊は「こわい」とか「おそろしい」というより、「あわれ」で「かなしい」のです。

崩れ


「崩れる」というと幸田文の『崩れ』を思いだします。そのものずばりの「山の崩れ」を老いた作家がわざわざ見に行った記録です。

 なぜ? なぜ、そこまでして? 不可解な衝動に満ちた不思議な魅力のある作品でよく読みかえします。

「崩壊」と「崩れ」がつづいて出てくる段落を引用します。

 崩壊を頭にいただいた谷水なのである。崩れから生まれた流れなのである。山の憂愁に加えて、また一つ、この川の生い立ちが心にしみ、なにかは知らずにいたましいのやら、いとおしいのやら、ふり返りふり返りする思いで下山の車に乗った。
(幸田文『崩れ』講談社文庫・p.11)

 細かいことですが、「なにかは知らずにいたましいのやら、いとおしいのやら」の部分のひらがなの連続がこころよいです。

 痛ましいでも傷ましいでもなく、いたましい、愛おしいではなく、いとおしい、なのですが、「いたましいのやら、いとおしいのやら」とひらがなで表記されることで、口から出た音がまるで文字に立ち現れているように感じられます。

 私は幸田文のひらがなのつかい方が好きで、参考にしています。

山の音


 山が崩れるのは目に見えるし、崩れるときの音はさぞかし、すさまじいだろうと想像します。

 川端康成の『山の音』に出てくる山の音は、現実のものかどうかが曖昧に描かれているだけに、かえって不気味であり、別の意味での「崩れ」を感じさせます。

 八月の十日前だが、虫が鳴いている。
 木の葉から木の葉へ夜露の落ちるらしい音も聞こえる。
 そうして、ふと信吾に山の音が聞こえた。
 風はない。月は満月に近く明るいが、しめっぽい夜気で、小山の上を描く木々の輪郭はぼやけている。しかし風に動いてはいない。
 信吾のいる廊下のしだの葉も動いていない。
 鎌倉かまくらのいわゆるやとの奥で、波が聞こえる夜もあるから、信吾は海の音かと疑ったが、やはり山の音だった。
 遠い風の音に似ているが、地鳴りとでもいう深い底力があった。自分の頭のなかに聞こえるようでもあるので、信吾は耳鳴りかと思って、頭を振ってみた。
 音はやんだ。
 音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒けがした。
(川端康成「山の音 二」(『山の音』新潮文庫)所収・p.10)

 この部分を読んでいると、音が「聞こえる」というよりも「響いてくる」気がしてなりません。波動のイメージが強いのです。

「虫が鳴いている。」は客観的な描写に読めますが、「落ちるらしい音も聞こえる」、「山の音が聞こえた」、「海の音かと疑ったが、やはり山の音だった」、「自分の頭のなかに聞こえるようでもあるので」は、信吾の印象として読めそうです。

 一方、「風」、「月」、「木々の輪郭」、「風に動いてはいない」「しだの葉も動いていない」というふうに、視覚的な現象である明暗、目に見える事物のようす、視覚的にとらえられる動きは客観的に描かれています。

     *

 聴覚的なイメージだけが主観的な思いとも取れる形で書かれているのです。『山の音』では冒頭から音が老いと狂いの予兆のようにしてくり返し出てきます。

 視覚的な像にくらべて、音声はたちまち消えるだけに他人と共有しにくいのです。本人だけに聞こえているとか、聞こえた気がするという場合がよくあります。

「音はやんだ。」は、やや客観描写よりの記述に感じられますが、その直後の「音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。」に私はぞくっとしないではいられません。

 この部分の字面をご覧ください。一字違いの反復が、その前にある「頭を振ってみた。」に呼応しています。

 音はやんだ。
 音がやんだ後で、信吾ははじめて恐怖におそわれた。死期を告知されたのではないかと寒けがした。

 頭を振る動作が、振れと揺れと震れを誘発しているのです。

 振る、振れる、震れる

 ぶれているのです。

 揺れ、震え、ぶれ

 そもそも音は震えです。そこが視覚と大きく異なります。

 その「ゆれ、ぶれ」がほぼ同じ語句の反復という形であらわれています。キャリアを積んだ作家がフレーズをくり返すさいには何らかの理由があるはずです。

     *

 意図というよりも理由です。書き手は無意識に、その理由は知らないまま、言葉を編んでしまうことがあります。それが才能なのだろうと思います。理由はちゃんとあるのです。

 ここは、「音はやんだ。」という客観的な描写による断定で一件落着に見せておいて、「音がやんだ後で」という具合に、その断定をそのまま肯定しながら、今度は「信吾ははじめて恐怖におそわれた。」といきなり信吾の内面の描写に移っています。

 意識の流れ(思い)と客観描写が交錯して書かれ、何度読んでもため息が出ます。好きな文体です。

 上の続きは、以下のように締めくくられます。

 風の音か、海の音か、耳鳴りかと、信吾は冷静に考えたつもりだったが、そんな音などしなかったのではないかと思われた。しかし確かに山の音は聞こえていた。
 魔が通りかかって山を鳴らして行ったかのようであった。
(p.10)

 振る、振れる、震れる

 ここに「狂れる」を付け加えたくなります。

「魔が通りかかって山を鳴らして行った」というフレーズは、私のなかに次のような連想を起こします。

 やま、やみ、よみ、よる
 山の音、闇の音、黄泉の音、夜の音

     *

 山の音が聞こえそうな気配がしてきたので――私は四方を山に囲まれた土地に住んでいます――、自分の中で何かが壊れたり崩れたりしないうちに(もう手遅れだったりして)、この辺で終わりたいと思います。

 私は暗示に弱いのです。特に自己暗示に。これがいちばん恐ろしかったりします。

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