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夢路
夜が呼ぶ、夜を呼ぶ
闇、夜、黄泉。
そこでは個人が多数の他者とつらなる。他者は多者でもある。
そこでは個人と故人のあいだの差はきわめて薄いのではないでしょうか。個人と多者のあいだの隔たりも淡い気がします。
闇に包まれた夜は、昼間とは異なる思考が起こる時と場でもあります。
「やみ」と「よる」が「やおよろず」の「ひゃっきやぎょう」の「ようかい」を呼び起こすのです。
それは言の葉となって立ちあらわれます。言の葉がイメージを呼びさますのです。
*
よぶ、呼ぶ、喚ぶ
呼んでみましょう。
よる、夜
よる、寄る・凭る・頼る、縒る・撚る・依る・因る・由る・依る、選る・択る、揺る
やみ、闇
病み、よみ、黄泉、黄昏(たそがれ)
くらい、昏い、暗い、冥い
やむ、止む、已む、罷む、病む
よむ、よる、やむ、やみ
よむ、訓む
よむを訓む。
読み下す、訓み下す。
読む、詠む、歌う、詠う、唄う、謡う、謳う
唱える、称(とな)える
称(とな)える、称(たた)える、讃える、頌える
*
語る、騙る
言う、謂う
論じる、論(あげつら)う、ことわり、理、断り、事割り、言割り
*
よむは、読むと詠むと訓むをへて、夢路をたどり、黄泉、闇、山へとつながっていくようです。私にとってはそうです。
よむ、よる、やむ、やみをいくら訓んで下しても、降すことはできないようです。
闇、夜、黄泉、夢。
夢の言葉、言葉の夢
言葉の中の言葉、言語の中の言語――。
よ、よる、夜、ヤ。やみ、闇、アン。闇夜、暗夜。暗、くらむ、暗む。眩む。暗い。昏い。闇い。冥い。冥界。
音と形と意味で――声と文字と内容で――つなげる、しりとりです。韻や連係や連想でもあります。
こんなことができるのは、言語の中に言語があり、言葉の中に言葉がある――やまとことばとからことばのことです――からに他なりません。
きっと、これは言葉の夢であり、夢の言葉なのです。
言葉が夢を見ている、夢が言葉をつむいでいる、としか思えません。
*
二つの言葉が触れあうとき、そして絡むとき、そこには必ず食う食われる、傷つき傷つける、擦れる擦られる、変える変えられる、分ける分けられる、うつるうつされるがあると思います。
二つが出会って触れあれば、その出会いと触れ合いによって、どちらも無傷ではいられないのです。
当てる当てられる、くだすくだされるもです。
そこには必ず変容が生まれます。どちらも、その場においては(全体ではなく部分が)変わるのです。変容をこうむるというべきでしょう。
和語の音と漢語の文字と音も、それぞれが局部的に変わったのです。
*
夢。
向こうから渡ってきた字をもちいて下そうとしても、もともとここにあった音を降すことはできない。そもそも降すべきものでもない。そんな気がします。
でも、変わったのです。二つの出会いによってどちらもが局部的に傷つき、全体から見ればこちらの音だけが傷を負うかたちで――向こうの文字と音は向こうではびくともしなかった――、ここにあった音もまた変わったわけです。
あててくだしてかわった。
*
漢字を和語に当てて、分けて分かるのではなく、いったん漢字を忘れて和語の音を音として「よむ」。ただ、ひたすら「よむ」。いわば和文の素読。
それがいいのかもしれません。でも、当てて分けて分かってしまった――分けて変わってしまった――いまとなっては、それはできそうもありません。
和語に出会いたいと思うことがあります。漢字を忘れた大和言葉のことです。当てる当てられるが起こった前の言葉のことです。
夢でしかありません。
後戻りなどできるわけがありません。
夢を見るしかないようです。夢路・寝目路・イメージをたどるしかないようです。
*
二つの言語、外国語と母語、古い母語と今の母語、漢文と日本語、言葉の中にある言葉、言語の中にある言語――。
異なる言葉のあいだに生きる。それは異なる言葉の境をこえた夢の言葉に身を置くような気がします。
夢の言葉、言葉の夢。
※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。