バルーンアートの修業
今から9年近く前、2011年の初冬に僕のバルーンアートの師匠である風船芸人松下笑一さんに弟子入りをした。
弟子にしてくださいという仰々しい言い方ではなく、バルーンアートを教えてください、という言い方だった。
でもその時点で僕は弟子入りという思いを持っていたし、相応の覚悟も持っていたつもりであった。
20代後半にして、30歳で芸人を辞めようと考えていたあの頃。
ただ漠然と辞めようと思っていたわけではない。
自分の才能の限界に気づくほど、大きな舞台も経験していなかった。
ただ、芸人として大成するために、何を努力していいのか、どう努力していいのかが分かっていなかったことは事実だ。
あれだけ夢中になっていた漫才も、結局のところどう努力していいのかがいまいち掴めていなかったような気がする。
そういう点においては才能がなかったのかもしれない。
ただ今振り返ると、もっと努力のしようはあったし、才能という言葉を履き違えていたと思う。
才能とは詰まるところ、自分の全てを注力して、何もかもを投げうっても惜しくない、むしろ楽しくて仕方のないものがあることを言うのではないかと思う。
人より上手くできたり、といったことではなく、あくまで自分自身の問題。
遺伝やら教育やらに文句を言っても仕方がない。
それらに文句を言う時点で、その分野において才能がなかったと腹を括るしかないのだ。
そういう意味では僕はお笑いに対して才能があるのかもしれない。
人より面白いことを言えなかったり、思い切りスベッたりしても、それでもお笑いを辞めるという選択肢を避けることが出来た。
売れている売れていないとか、いろんな基準があったとしても、自分の人生においてそんなものは自分で決めればいいだけだ。
どんなに売れていても満足していない人もいるし、大して売れていなくても自分を言い聞かせるように満足している人もいる。
それもその人の人生だ。
人を否定しようが、自分を否定しようが何も生まれない。
自分を肯定したときにしか、自分の人生は進まないし、才能にも気づけない。
バルーンアートの修業は、横浜中華街近くにあるカラオケボックスでスタートした。
笑一さんのお仕事終わりにカラオケボックスに二人で入り、風船と向き合った。
風船を膨らませるところから始め、最初は口を結ぶのにえらく時間がかかった。
元来、器用とは対極にいたような自分に細かい作業は辛すぎた。
家庭科の授業でも針に糸が通らなくて授業の大半を費やしたこともある。
バルーンを初めて1時間ほどで、自分には才能が無いんじゃないかなって思い始めた。
大した根性無しである。
笑一さんはそんな僕に対して懇切丁寧に指導してくださった。
風船の口を結ぶのに毎回5分以上かかる。
芸人の大先輩を延々と待たせていることで、汗が止まらない。
それでも笑一さんはその日一切僕を叱ることはなかった。
笑一さんに怒られたのはバルーンのことではなかった。
言葉遣いを初めとする礼儀作法、身なりや清潔感など、芸人としての振る舞いに対して注意されることがほとんどだった。
それも自身に対して無礼だ、なんて怒り方は一度もなく、他の先輩や師匠方に対して、僕が芸人としてこの業界で生きていく上で必要な作法を教えてくださった。
ある時営業先で、しゃがんで仕事の準備をしていると、背後から笑一さんに怒鳴られた。
「お前は先輩にケツ見せて作業するのか!」
どういうことかと言うと、僕は太っているので、しゃがむと、シャツとパンツの間からお尻の割れ目が「こんにちは」してしまうのだ。
太っている人あるあるである。
確かにそんな汚いもの、先輩でなくても見せるべきではない。
都度身なりに注意するとか、しゃがむ方向を考えるとか、根本的に痩せるとか、いろんな解決方法はあったのだが、当時の僕がとった解決方法は「オーバーオールを履く」という何とも言えない解決方法だった。
その後僕はオーバーオールで半年ほど過ごすことになる。
半年後に、しっかりベルトを締めればいいじゃないかとようやく気付き、オーバーオール生活を終了した。
笑一さんは当時から、今でも、僕のことを積極的に弟子とは言わない。
教え子とか生徒さんと呼ぶ。
吉本興業にいる大勢の師匠方とお仕事をする機会も多いからだろう。
自分が弟子をとるなんておこがましいという謙虚な姿勢だと推察する。
今でこそ僕もバルーンを人に教える機会が増えてきたが、弟子をとるなんて発想は一切ない。
吉本興業にはあまりにも偉大な師匠方が多く、芸に何十年も自身の人生を懸けていらっしゃる方が多い。
そんな環境や世界の端に身を置く自分としては、10年や20年そこらで何かを極めるといったことに違和感しか感じないし、狭い世界の小さな山の頂上に登って満足しているだけにしか思えない。
人間の人生が非効率なように、芸もまた非効率なものだし、効率的に過ごしたいという発想そのものが、簡単言えば面白くないのだ。
非効率こそ面白みの淵源であると思う。
ともあれ、僕は笑一さんのことを師匠と呼ぶ。
周りにもちゃんだいは笑一さんの弟子と思われている。
それだけでいいし、師匠と弟子の関係性というのは、そもそも周りに理解を求めるようなことでもない。
僕は現に笑一さんに鍛えてもらって今の自分があると思っているし、笑一さんに出会っていなかったら、バルーンアートに出会っていなかったら、芸人を辞めていたかもしれない。
人の縁に才能があったのかもしれない。
バルーンアートがモノにならなかったら芸人を諦める。
僕の内心では、そういう悲壮感とも呼べる気持ちでの修行開始だった。
僕が青春を捧げた吹奏楽部時代。
「1日練習さぼったら3日遅れるよ」という謎の格言をみんなが信じていた。
青春時代の刷り込みとは恐ろしいもので、バルーンアートに関しても、まず1年間は毎日必ず練習しようと決めた。
向上心というよりも、1日練習さぼったら3日遅れることは実体験済みだったからだ。
学生時代はさぼりまくっていた。
練習しなさ過ぎて女の子の後輩にキレられたことも泣かれたこともある。
いやはやなんとも。
ともあれ自分の人生が芸人という職業に対して、才能があるのかどうか、それを試すための試金石としてバルーンアートが採用されたのだった。
余談だが、後年、バルーンアートの大会やイベントに参加するようになり、プロアマ含めたいろんなバルーンアーティストの方々と交流を持つようになるのだが、とにかくバルーンが大好きで!という方々があまりにも多くて驚いた。
僕のきっかけはそんなポジティブな感情ではなかったので、その時にも、あぁ僕はあまりバルーンには向いていないのかなと、お得意のネガティブを発揮したものだがそれはまた別の話。
笑一さんにバルーンアートを始めて教わったその日から僕は毎日バルーンに触り続けた。
アルバイトで疲れている日はもちろん、友人たちと朝まで遊んでいても、帰ってきてから寝落ちするまでバルーンの練習をした。
休みの日は起きてから寝るまで10時間以上バルーンに触れていることもざらだった。
とにかく1年でどれだけ上手くなれるか試してみよう。
1日でも休んだら、もうそれは才能がないってことだから諦めよう。
相変わらずの悲壮感だが、そんな心境とは裏腹にバルーンアートは楽しく、どんどんハマっていった。
ほんの少し上達したり、新しい作品を作ったとき、笑一さんは全て肯定し褒めてくれた。
「俺も負けてられないな!」が笑一さんの口癖だ。
あの時、バルーンの事でずっと怒られるようなことがあったら、今の自分はいないかもしれない。
バルーンアートを始めて1年。
笑一さんさんの紹介で、初めてお客さんの前でバルーンを作る機会に出会う。
ある地域のお祭りに、吉本芸人が出演する中に笑一さんもいたのだ。
もちろん僕の出演などないのだが、笑一さんは「他の芸人さんや社員さんに紹介するから、とにかくバルーンと衣装を持ってこい」と言ってくださった。
簡易的な衣装と、練習中のバルーンを携え、僕はお祭りに参加する。
「ギャラなんかいらないので、バルーンを作らせてほしい」と社員さんに伝えると快諾してもらえた。
僕が会場へ出ると、たくさんの子どもたちが集まってくる。
ずっと自宅で練習していた犬やらクマやらを作っていくが、練習通りにいかない。
子どもの前で緊張している自分に気づく。
風船が欲しくて並んでいる列がどんどん増えていく。
焦る。
結局5人くらいにプレゼントしたところで、手がつってしまった。
あとは痛みに耐えながら、なんとかこなすだけ。
恐らくバルーンアートをプレゼントしているなんて思えないほどの必死の形相だったに違いない。
この時、自宅で練習するのと、人前で実際に作るのとでは大きな違いがあるし、練習の時に人前で作ることを意識しなければならないことを知った。
そしてこの時に紹介してもらった社員さんが、その後しばらくの蓮華の活動を全力でサポートしてくれる方だったことも、人の縁の才能が故かもしれない。(その時のギャラも入れてくれてたんだよね)
その後、笑一さんのご紹介や、その社員さんの営業により、徐々にバルーンアートの仕事が増えてきた。
100の練習より1の現場とはよく言ったもので、現場でバルーンを作ることが何よりの血肉になっていった。
個人的には100の練習より1の現場、1の現場のための100の練習であることも付け加えておきたい。
練習しなければ、何の意味もない。
バルーンを初めて最初の1年間。
その1年間は確実の今の僕の礎になっている。
その後、バルーンの全国大会や、大きな本番前など、スポット的に必死に練習することはあっても、あの1年間の必死さに比べたらまだまだなんじゃないかと思う。
今も自分がめちゃくちゃ上手いかと言われればそうは思わないし、逆に上手くなればなるほど、他の上手い人のすごさに気づいて凹むことも多い。
技術だけは笑一さんに少しでも近づけるように練習してきたつもりが、その背中はどんどん離れていく。
今回の自粛期間。
この数年はありがたいことにお仕事がたくさんあり、僕が作る風船は全て仕事のための風船だった。
久しぶりに練習のための風船に触れてみると、今までとは違った発見も多い。
いつかまた人前でバルーンショーを披露する機会が来た時に、また新しい風船の魅力や、面白いネタを出来るようになっておきたい。
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