ネタバレ全開!Y&A特撮フカボリLabo 1
◆この記事の説明◆
このLaboは私の好きな特撮ドラマの、主にドラマ部分を実験のように掘り下げていこう、というものです。
作品の解釈にそもそも「正解」はないと思っているので、こういう考え方をする人もいるな、くらいに捉えてもらえれば幸いです。
また、視聴済みの方を対象としているので、タイトルにもある通り未視聴の方から見れば、ネタバレ全開の内容となりますので、その点はご承知の上、読み進めていただけますよう、お願いいたします。
『仮面ライダー響鬼』(1)
初回はYou Tubeの配信が終わったばかりのこの作品で行こうと思う。
この作品、前半と後半で作風が違う。中でも後半が嫌い、という人も多い。
私も今回のYou Tubeで3周目だが、1周目が正しくその感想だった。
何しろ醸し出す雰囲気がまるで違う。
というより、私にとっては前半があまりに良すぎたのだ。
ライダーをバッタや昆虫モチーフにせず、“鬼”にした、思い切った設定の転換とスタイリッシュなデザイン。
ライダー変身者の年齢設定を10代終盤~20代前半の青年ではなく、30代の大人の男性に持ってきたところ。そこに憧れる、少年の成長を描いたジュブナイルの要素が巧みに絡み合う話作りが斬新でよかった。
舞台も、撮影費はかかるだろうが山や海などが主で、大体決まった街並みと、爆薬を仕掛けてもよい特定の山ではない場所特有の、画像の迫力があった。
OPもインストゥルメンタルのみ、キャストやスタッフも毛筆で表記、と、隅から隅まで、いい意味でのこだわりと新しい挑戦があった。
が、脚本家の大石真司氏ときだつよし氏が29話をもって製作を降りてしまった。ということで、それ以降は井上敏樹氏に変わる。
この人も決して悪い脚本家ではない。それどころか優れた脚本家さんだ。『アギト』の時は、「敵の強さに怯える仮面ライダー」を初めて目の当たりにし、そこを取り上げたセンスに痺れた。最近でも『ドンブラザース』への評価の高さはご存じの人も多いだろう。
――のだが、いかんせん、『響鬼』の持っていた世界観と違いすぎたので、ついて行けなかった。というのが1周目の私の感想だった。
後半ではこの人の作品特有の、クセのある新キャラ・桐谷京介を登場させ、これが当時(私も含め)、視聴者の反感を買った。
もしもこの人が初めからメインライターだったら、クセツヨのキャラを出してくる手法そのものがよくあることだ。なので、視聴者にも受け入れられたかも知れないが、爽やかで清いイメージのあった29話までに比べ、後半、クセツヨに“えぐみ”のような味わいが出てしまって、前半のイメージでついてきた視聴者の心が離れたのも無理はなかったのでは、と思う。
また、前半の舞台は緑の濃い自然の中だったため、森の深さ、山の高さが迫力を持って迫ってくるような圧倒的な世界観が魅力だった。もちろん後半でもアウトドアなロケは行われていたのだが、前半に感じた映像の凄みは正直、薄くなった印象は拭えなかった。
OPも歌付きのものに変わり、映像の毛筆も単純な横書きのゴシック体になってしまったので、見ていた私はその、つるん、とした画面に寂しさを感じてしまった。
1周目の後は、脚本家の大石真司氏、きだつよし氏が29話をもって、制作者を降りてしまったという所だけ聞いたので、「そりゃ無責任だなぁ。むしろ、後を引き継いだ井上さんすげぇ。立派だよ」が感想だった。
その後、最初は『変身忍者 嵐』のアップデート版として出された企画を、バンダイが「ぜひとも仮面ライダーでやりたい」と熱烈アピールして、路線を変更させた、という話を聞いた。
そうなると話が違ってくる。
本来の企画を捻じ曲げて、仮面ライダーに持ってきたのに、視聴率が上がらない、となると方向転換をしてくれ、というスポンサー側の身勝手さを感じた。
そりゃあ言われた方は怒るよ。だったらはじめから『嵐』をやらせてやればよかったのに…。(こういう考えを抱えやすいので、TTFCさんには手を出し辛かったりする)
と、そこまで文句を言っているくせに、私が『響鬼』に感じ、惹かれずにはいられなかった最大の魅力は、「大人と子どもの明確な関係性」にあった。
自らを“鬼”と呼ぶ大人たちは、体を張って自分たちの世界を脅かす魔化魍と闘う。自分たちの背後にいる人々に恐れを感じさせないほどに、それは徹底的した防戦ぶりだ。
だからこそ、そういう大人たちにガッチリ守られている子どもは、自分たちが危ういところにいることなどつゆ知らず(いや、知った後でも)、ごく普通の平和な日常を過ごすことができる。
結果、『響鬼』の話においても、明日夢が「明日、魔化魍が襲ってくるかも」という怖れに苛まれることはない。高校でブラバンに入ろうかどうしようか、を本気で悩むし、気になる女の子・もっちーも含めた集団デートにうっかり寝坊で遅刻したりする。いい意味で、吞気で幸せな日々を過ごすことができている。
———この明確な線引き。“子どもを幸せにできる大人”という、大人にとってもこうありたいと思うような、理想の大人の姿がそこには具現化されていた。
これを裏付けるエピソードはいくつか挙げることができる。
響鬼にただただ憧れ、「高校合格報告」を口実に、戦いの場にまで潜りこんでしまう明日夢。だが、彼が紛れ込んだキャンプで待機していた威吹鬼は、そんな彼を厳しく責め立てたりはしない。むしろ威吹鬼は、響鬼に惹かれ、何がしか関りを持ちたくて必死に追いかけてきてしまった明日夢の気持ちを汲むかのように、ただ静かに彼を受け入れ、弟子のあきらを含めた3人で響鬼の帰りを待つのだ。
これは普通の大人でもなかなかできるものではない。むしろ同席していたあきらのように、露骨に不機嫌な態度とキツい言葉で詰ったり、「何でこんな危ない所に来たんだ!」と声を荒げるくらいはしてもおかしくない。
けれど威吹鬼はそれをしないのだ。
そして無事、戦いから帰還した響鬼もまた、明日夢を責めることはない。だが、なぜあきらがそこまで怒ったかを静かな言葉で説き、導き、気付かせる(そう、明日夢は鈍感だが、人への気遣いが無い子ではないのだ)。
すったもんだの交代劇の末『響鬼』の後半を引き継いだ、井上脚本でも作品の意図を組もうとした彼なりの解釈で、そんな理想の大人たちが描かれる。
その象徴が後半に爆誕した桐谷京介。
自分のプライドのためなら平気で人を傷つけ、嘘もつく。人を貶めることで「自分はコイツよりも上の人間だ」と思おうとするかのように。人を傷つけるより、自分のプライドが大事、と感じられる描写が多い人物。彼は明日夢とは全く違ったタイプの弱さを持った少年だと思う。
その結果、当然、視聴者から彼は蛇蝎のごとく嫌われた。話中でも、最初こそちやほや騒がれても、あっという間にクラスの大半から相手にされなくなる。
やんちゃをして人に迷惑をかけるヤンキーな子を見捨てずに導く先生や大人の話は今や、履いて捨てるほどありふれたものになって来た。が、はっきり言って京介はそういう子たちとは全くベクトルが違うはみ出し方をしている。要は、ヤンキー以上に誰もが助けたがらないくらいの人間的お馬鹿さんの要素を多分に持っている。
けれど響鬼は明日夢と共に、京介の手も離さず、弟子として彼を育て続ける。
それは京介の「父を超えたい」「人を助けたい」という気持ちが決して嘘ではないと、見抜いたからなんじゃないかと思う。
響鬼はひたすら淡々と辛抱強く京介に接し、まるで樹の中から仏像を彫り出す作業のように、彼の中の「人を助けたい」という心を彫り出してゆく。
結果、京介は最終回でたった1度、状況も説明せずに切られた明日夢からの電話にただならぬものを感じ、子どもを背負ったまま土手を這い上がり切れないでいた明日夢のもとに駆けつけ、手を差し伸べるまでに成長することができたんじゃないかな、と思う(その後の魔化魍戦で、無様にのされたとしても)。
これができる響鬼が、憧れの大人でなくて何だというのだろう。