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俺ものほほんとしていた。 甘かった。チョコレートパフェに蜂蜜かけて練乳を垂らしたのより濃いくらいに甘かった。

「この人みたいに生まれなくてよかった。」
日々の生活の中でそう思うことはあるだろうか。

とまあ、こういう風に書くと大袈裟になってしまうのだが、俺にはそう思える人物がいなくもない。

それはコナン君だ。

あんなにほぼ毎週、殺人事件に関わる人生は絶対に送りたくない。
行く場所行く場所で人が死ぬ。場合によっては何人も何人も死ぬ。
お祓いが必要なレベルすら、余裕で越えている。
俺なら完全にノイローゼになる。

周囲のみんなも医者でも葬儀屋でもないにの同じだけ死体に関わっている。にも関わらず、毎度のほほんとして笑いあっている。
揃いも揃ってその神経が恐ろしい。

俺にはそんな人間離れした神経はない。芸術家は繊細、デリケートなのだ。

話があっちに行って申し訳ないが、大学の時に書道科の飲み会で栃木出身のクラスの女子が「私、バリケードだから」と言ったのを思い出した。周囲がそれが「デリケート」の言い間違いだと気が付くのに2秒くらいかかったかもしれない。

「矢野君、私のこと好きだったよね。」と飲み会で言われたこともある。同じことを他の二人にも言っていた。どうやら彼女の中で彼女はモテモテなのだが、とても幸せな人だったのだろう。ただ正解率が低い。

「デリケート」の一言から余計なことを思い出してしまった。
とにかく、名探偵だかなんだか知らないが、毎日死体に周りをうろうろされるような人生だけは送りたくない。そんなのは嫌だ。

ただ、幸いなことにこれまでの俺の人生は探偵と一切関わりがない。
よかった。本当に良かった。

と、俺ものほほんと思っていた。
甘い、甘かった。チョコレートパフェに蜂蜜かけて練乳を垂らしたのより濃いくらいに甘かった。

チャツウッドのRSLに夕食を食べに行ったときのこと。
テーブルで注文をとるときにメンバーカードを紙幣と一緒に机上に置いた。ほんの一瞬のことだ。秒数にしても10秒もない。

「そのFって何ですか?」
俺の向かいに座るその男が目ざとく見つけた疑問を投げてよこした。

カードの左下端、名前の下にメンバー期限の最終年とその横に「F」の文字がある。

「Fだから、Feburuaryじゃない? 申し込んだのいつだか忘れたけど。」

「ボクは男女かと思ってたんですが。ほら、ボクのはMです。」男は言う。

「MならMarchだよ。」

「いえ、そんな時期に申し込んではいません。それにMayと被るから一文字では使いません。」

「いやいや、じゃあ俺が女だって言うの?そんなわけないじゃん。
俺が申し込みをしたのは2017年。3年前だよ。それから何十回ここに来たと思ってんの? 誰も気が付かなかったって、いくらなんでもそれはないよ。」

すぐ行動する派の俺は注文を取りに来たウエイトレスさんに聞いてみた。
すると「男女じゃないのかしら…」と言いつつ、聞きに行ってくれた。

唖然としていた俺に戻ってきた彼女が言った。「やっぱり男(Male)女(Female)みたいよ。」

俺、3年間、RSLで「女」だった事実確定!

いやいやいやいや、まてまてまてまて。
え、どういうこと? 何? どして?

じゃあ、今までこのカードをレジで渡してスキャンして貰ってたとき、
汚いおっさんのこの俺を見て店員のみなさんは「あ、この人実は…」と言葉を飲み込んできたという事なのか。

えー、そんなことってあるか。
3年間だぞ。ほぼ不審者だぞ。問えよ、問え。

男への変装ぶりが痛ましく思えたということだろうか。だから気を遣ってくれたのか。気の毒過ぎるだろ。いやいや、俺も十分気の毒だぞ。

俺の前に座る男の顔は勝ち誇ったようにニヤついている。
いや、実際勝ち誇っているのだろう。

ウエイトレスさんが呼んできてくれた係のおジイさんに受付まで連れていかれながら複雑な気持ちだった。

自動車免許を出して身元の確認をされる。その後そんなに時間もかからずにFのカードは捨てられ、新しいMのカードを受け取った。Fのカードは顔写真付きにも関わらず、シュレッダーにもかけられないまま、単にゴミ箱に投げ捨てられたように思えたが、俺の思い違いだと思いたい。

それにしてもこの男だ。3年もの間、何十人の人間の目に晒されても気が付かれなかった事実を、ほんの数秒で見抜いて見せた。何だ、その瞬間観察眼は? 

このことだけではない。
この男の鋭さに舌を巻くのはいつものことなのだ。

数か国語を操り、医学から歴史、文学まで知識が博く、
観察力、推理力、洞察力に優れ、武道の有段者でもあるこの男を
ヨーロッパの王国のスパイかもしれないと疑っている。
女王をいただく島国だ。

スパイがどうして俺の傍にいる?
俺の何を探っているというのだ?

確かに俺は歴史的重要人物たる要素を持っている確信がある。
なかでも最重要中の最重要要素を満たしてしまっている。
リンゴでもカバンでもポストでもカブトムシでもコアラでもない、俺は人間だ。ほら、要素としては最重要であろう。

だからと言って欧州の王国から付け狙われる理由は浮かばない。
ただ俺は馬鹿だから浮かばないが、王国の偉い人には浮かぶのかもしれないから何らかの理由は存在するに違いない。
これで俺が歴史的重要人物であることも立証されてしまった。
(まあ、想定内ではあるけれども。)

とにかく俺はスパイにも関わりたくないのだ。
特に悪いことをしているつもりはないのに、突然始末されたりしては叶わない。しかし、行いが良かろうが悪かろうが存在自体が悪いのだと言われてしまえばそれまでだ。

恐ろしい、恐ろしすぎる。

今のところは死体とも巡り合わないし、何か事件に巻き込まれた感もない。近くで爆発があったり、拘束されたりしたこともない。もしかしたら何度もあったのかもしれないが全く気が付かなかった。俺が極端に鈍感でよかった。鈍感に感謝だ。

また明日この男と会う。
明日はスカッシュをやりに行くのだ。

スカッシュコート殺人事件の犯人に仕立て上げられたり、
スカッシュコート大爆破事件で爆死したりしませんように。

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