彼の鳴らすブオーンという音に紛らせて「いいこともあると思うよ」とできるだけ優しく言ってあげた。
腹は立てないのがいいに決まっているが人間そうもいかない。
そもそも人と関わるから腹が立つ。一人で引きこもるのが一番。
そうすれば誰にも腹を立てる必要がない。
ジムのロッカールームのヘアドライヤーがある鏡の前。
俺の前に先客がいた。
恐らく東アジアの大陸出身であろう60がらみの背の小さいおっさん。
素っ裸でドライヤーを使って全身を乾かしていた。
抗議の咳ばらいをしてから俺もドライヤーを手に取る。
三つあるうちのドライヤーの一番左をおっさんが使っていたので俺は一番右を使う。
俺の考える「普通」の神経であれば、本人一人だけなら自由に振舞うが、他人がいるなら多少遠慮するのが人ではなかろうかと考えてしまう。しかしこのおっさんはその考えには該当しない。
見ないようにしてはいるが、広くもないし、鏡にも映るから完全に視覚から消せもしない。全身の至る所を何往復もしながら、言ってみれば丁寧に乾かしている。まるで、というかむしろ「どうしてここには全身ドライヤーがないんだよ」と言っているようにも見えるほどだ。
こんなときスタッフが来て注意してくれるといいのだがその姿はない。直接文句を言うと面倒になった場合にほんとに面倒でいやだ。
せめてもの抵抗に「おい、やめろ。おい、やめろ。」とドライヤーのブオーンという音に紛れて日本語で言い続ける。
と、鏡の中のおっさんの頭ががくんと落ちる。俺は反射的にそっちに顔を向ける。するとおっさん、のぞき込みながら局部を引っ張って裏側まで風を当てだしたではないか。
「おいっ」と大きめの声が出てしまった。やりすぎだ。
俺の声も大きすぎたかもしれないが、おっさんもそれはやりすぎだ。みんなそのドライヤーを使うのだ。おっさんの私物ではない。
が、このおっさん、全くの知らんぷりなのだ。
聞こえていないはずはないのに、全く無視してドライヤーの風を当て続けている。
そしてこちらに背中を向けたかと思うと片方の手で尻を開いて穴まで風を当て始めたではないか。それももうドライヤーの口が皮膚に触れそうな勢いだ。
オーマイガッだ。オーマイガッ以外の何物でもない。
コンタクトレンズを入れてなくてよかった。
こうなればこっちの負けだ。目を背けるしか方法がない。
敗者の俺はドライヤーの風を最強にして、さっきよりもっと悪い言葉を日本語で放ち続けたのだった(髪が長くなるとこういうときに困る。このあとその足で美容室に向かったことは言うまでもない)。
さてその直後…
ク〇おやじは去って行き、つかのまの平穏な時間が流れ始めた。
腹は立てないのがいいに決まっているが、こんなときイラつかない人間もいないだろう。できれば一発蹴りたい感情に駆られても気持ちは汲んでもらえるはずだ。もちろんそんなことはしないけど。
乾かし終えた髪を整え、荷物をバッグに仕舞っていたところに、ハイハイ俺結構イケちゃってます的な、これもまあさっきのおっさんと同じところ出身かもしれない系の若者が鏡の前にやってきた。
そして全くの躊躇なく、おっさんの肛門にタッチしていたであろうドライヤーを手に取り、スイッチを入れて自慢であろうその髪を乾かし始めた。
知らぬが仏。
誰が考えた言葉だろう。見事な表現だ。
俺は彼に何とも言ってあげられなかった。
ただ、彼の鳴らすドライヤーのブオーンという音に紛らせて「いいこともあると思うよ」とできるだけ優しく言ってあげた。
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