『Westmead公立病院入院回顧録 ⑧』
ドリカムも昔歌っていたが、『決戦は金曜日』になった。
日本でもオーストラリアでもそうなのだろう。
近づいてく 近づいてく 決戦の金曜日
なのだ。(なのか?)
木曜に手術台にのり、翌週月曜にまた手術台にのり、
その週の金曜日に三度(←みたび、と読もう)手術台にのる。
そんなに頻繁にのっていいものかどうか分からないが、罪に問われるようなことになっても俺のせいではない。
こっちだってのりたくてのっているわけではないのだ。
ノリノリでは決してないのである。
手術リストの1番ということで、ドクターたちの気合の入りようも十分にうかがえる。うかがえるが出るとどうしても「おかガエル、うしガエル」というフレーズが頭に浮かんでしまうのはちょっと頭が病気なんだろうか。おかガエルがどんなのか知らんし、牛ガエルも決してかわいいカエルではない、グロいカエルである。困ったものだ。
前日のナースの人の念押しもこれまでよりきつめだったように思う。まあ、俺がそう感じただけかもしれない。
術前にはスペシャルシャワーを浴びねばならん、とかなんとか眉間に皺を寄せながら(←普段でも寄っていたかもしれないが覚えていない)言うので、消毒液かなんか頭から降ってくるのを浴びねばならないのかと思ったりしてしまう。夜には専門の人が毛の処理に来るっていうし、何だかもう、である。(事故だ。なんだか"毛"と言ったわけではない。)
毛に関してはどの辺をどのくらいきれいにしておけばいいか分からなかった。が、密室で剃毛職人と二人きりになった全裸のおっさんが体毛を剃り取られるという絵をイメージしたら、シュールすぎてなんだかとっても悲しい気持ちになった。だから陰部周辺くらいは自分でなんとかしておこうと思った。なんせ火曜、水曜、木曜と、日がな一日病室から一歩も出ずに何一つやることがないのだ。週6でボディコンバットに通っていた身としてはこんな生活は退屈過ぎてどうにかなりそうだった。だから自分でできることは自分でしたくなってしまう気持ちは想像していただけるだろう。前に支給してもらっていた髭用のT字の剃刀でできるだけきれいにする。おいおい甘いな、ここもちゃんと剃っとけよ、というところがもしあればそのときはやってもらえばいい。
結局その剃毛の係の人は夜になってやってきた。これが予想をまったく覆される人選?で、やってきたのは大学生くらいの若い白人のお兄さんだった。お兄さんは剃毛セットの入ったトレイを持って颯爽とやってきた。そしてこれは根本的には彼のせいではないのかもしれないが、これまた予想もできないほどの体臭の人だった。
彼が病室に入ってきてドアを閉めカーテンを引いて密閉状態になると数秒で目が痛くなるほどの臭いが空間を満たしてしまった。誰かがどうにかアドバイスしないものなのかと思いはしたが、他人の体臭のことはどの社会であってもなかなか言い難いことなのだろう。仕方がない。
病人着をまくり、パンツをちょっとずらして剃毛している箇所をお兄さんに見せると、「あ、もうやってあるじゃん」と驚く。「昼間に自分でやった」と言うと「それで十分。OKOK。」そう笑って言ってナースの人を呼び、「彼は大丈夫みたいだから俺はもう行くね」と、全く消えない物凄い臭いを部屋中に残してお兄さん本体だけとっとと去っていった。手術前に与えられた試練なのかもしれなかったが、神様は乗り越えられる試練しか与えないらしいので逆らわずに試練を受けるしかない。
その夜の夜勤のナースはがっしりした体躯のお姐さん的な白人のおじさんだった。語尾がちょっと跳ねる感じだと言えは分かりやすいのか分かりにくいのか。彼はとても甲斐甲斐しく大きな手術を控えた孤独な俺の世話を焼いてくれた。普通は付き添いの人がいて病室から病室の荷物の移動もしてくれるのだそうだが、一人きりの俺はそうもいかない。手術後はICUに入るからもうこの病室には戻ってこない。だから今病室にあるパソコンやなんか、特に現金をスムーズに移動させる手続きを一生懸命にとってくれた。もの凄くありがたかった。
あまり眠れず、まだ夜が明けきらないうちにシャワーを浴びることにした。
スペシャルシャワー、と呼ばれたものは想像していたより全然普通だった。普通過ぎて拍子抜けした。特別室のようなところに引き連れられて裸で監禁され、上下前後左右から消毒液が噴射されるわけではなかった(当たり前だ)。ただ液体(←これがスペシャルなのかもしれなかった)が既に含まれているスポンジを渡され、普段よりちゃんと磨け、ということだった。普段は濡れても破れない紙みたいなやつに手洗いのところにある洗剤をプッシュして泡立てて洗う。とにかく数人の他人に身体を晒すことになるので「臭い」とか「汚い」とか思われるのはどちらかといえば嫌である。だからまあまあ念を入れて洗う。
一応胸の写真も撮影することにした。メスが入る前の身体はメスが入ってからでは戻ってこない。覆水盆に返らず、である。こぼれたミルクを嘆いても仕方がないのだ。毛を剃ってしまった身体はぜい肉が無いとは決して言えたものではなかったがまあまあきれいだった。何時間か後にはこの身体に手術痕がつくのだと思うと何だかセンチメンタルな気持ちになった。決してセンチメートルな気持ちではない(そんなわけない)。
この入院ではいろいろなことを知った。これまで病院にはあまり関わってこなかったから知らないことだらけだったが、ほんのちょっと分かったことがあった。病院という特殊な空間だからなのだと思うが、ベッド運び専門の職人さんとか、採血だけ専門にしてやってくる人とか、誰かの毛を剃るのを仕事にしている人とか(これが専門職というわけではないと思うけど)。なんとなく看護師さんがやっているように思っていた仕事が専門職化していることを初めで知った。その他にも食事の注文を取りに来る人、モーニングティを運んでくる人、ランチや夕食を運んでくる人、掃除に来る人、本当に沢山の人達で構成されていた。ドクターやナースの人たちが本当に大変な仕事をしていることもほんの少し分かった。
こんな世界が今も各地に存在する。
『Westmead公立病院入院回顧録 ⑧』
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