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誕生日と死の覚悟


もう昨日になってしまったが、2022年7月12日は私の誕生日だった。
55歳。いつのまにかこんな年齢になっている。
一方で、以前「あなたは既に死んでいるようなもの」と言っていた医師には
「死の覚悟」をしたほうがいいと言われてる。
そんな55歳の夏である。

「死の覚悟」なんて、さらっと言うことではないが、その必要性もわかる。

実家に帰る準備をすると言いながら、なかなか片付けが進まなかったり、ただ食べては寝て、パソコンを見て、こうして何か書いてというこれまでと変わらない生活をしていると、たしかに、死の覚悟をして、未練なく身の回りのものを片付けてスッキリしたほうがいいと思える。
切腹するわけじゃないんだから、「死の覚悟をすること」イコール「すぐ死ぬ」と言うことでもないし、、。
それに、花咲乳がんの上、体の中に鎧ができるなどという大変なことになっているにも関わらず、日々、普通にご飯を食べ、こうして文章を書いていると、自分が一体、今どのへんにいるのかがわからなくなる。
でも、覚悟はしておくべきなのだろう。

「死ぬ覚悟」とはどういうことだろう。

遺書を書く、持ち物を処分する、会いたい人に会いにゆく、などなど思いつくが、今こうして生きていられると、そういうことをすることが死を引き寄せてしまうのではないかと思ってしまう。そして、つい昨日と同じ日常を続け、だらだらと日々は過ぎていく。本当に死が近づいた時には、上記のどれもやれてなくて後悔するかもしれない。

身の回りを整理して身軽になったほうが、これからの人生やりやすいのはわかっている。しかし、まだ死をリアルにイメージできないでいるから動けない。このところ体も動きづらいから、なお動けない。怖いわけではない。いや、怖いと思いたくないから無意識に同じ日常をだらだら続けてしまうのかもしれない。

本棚を見れば、まだ読んでいない本を開いて理解したいと思う。テレビをつければ、安倍元総理銃撃などショッキングな事件が起こっていて、その背景や容疑者の動機、政界と宗教の関係などに思いを巡らせ、ずっとそれを考えている。死の覚悟をしている暇などないのだ。

しかし、そうして、現世の事象に夢中になればなるほど、胸の鎧の圧迫は強まり、体は動きづらくなってくる。左の手でパソコンを打つことが、かなり左胸の鎧の神経を逆撫でし、キーを押せば押すほど、胸の鎧の存在感が大きくなってくるようだ。毎日、瞑想三昧なんて考えていたのに、それをやるはずの時間に、旧統一教会と政治の関係についてググったりしている。本当に病を治したいのかと自分で問うてしまう。

「死を覚悟しなさい」という医師は、死を覚悟して、自分のやるべきことを一生懸命やりなさいと言う。死を覚悟していたら、お金ももういらなくなるわけだから、本当にやるべきことがやれるだろうと、そうすることが病を良い方向に導くかもしれないとも。ある意味、奇跡の領域を目指すということだ。

でも、自分がやるべきこととは何なのだろう。
身体が動きづらい今、やれることは考えを発信していくことくらいだが、では私は何を発信したいのか。本当に心の底から叫びたいことは何なのか。あらためて考えると、よくわからなくなる。今まで、ブログやフェイスブックなどに書いてきたことは、世の中で起こる出来事への反射みたいなものだ。何かの出来事を通して自分の考えを書く。それはそれで叫びでもあるのだが、書きながら、もっと奥にあるものは何だろうと考えている自分がいる。

やりたいことといえば、実家のシャッター商店街の活性化とか火鉢カフェを作るとかもずっと言ってきた。ギターもピアノもマスターしたかった。バンドでボーカルもやりたかった。でも、「死の覚悟」をすると言うことは、数多あるこの世でやりたいことを精査して、どうしてもこれだけはやっておきたいということをを見つけるということだ。あれもこれもというのはまだまだ時間のある人がやること。

じゃあ、おまえのやりたいこと、やるべきこととは何なのだ・・・。

身体が動きづらくなったせいで、ギターやピアノはかなり厳しい。カフェも商店街活性化も構想しかできないか。とにかく、書いたり、しゃべったりして思いの丈を発信していくことには違いなさそうだ。
では、一番発信したいのは何なのか?

それは本当の意味で「死を覚悟」しないと見えてこないのかもしれない。
それって「遺書」ってことだろうか・・・。

このnoteを始める直前、作家の橋本治ががんで亡くなった。
橋本は亡くなる前にwebちくまでのエッセイの中で「人はなぜ癌になるか」がちっとも解明されてないと書いていた。治療法ばかりが研究され、なぜ癌になるかが解明されないのか、原因がわからなくては治し方もわからないんじゃないかと。私もずっとそういう疑問を持っていて、橋本治が死ぬ前に抱いた疑問の続きを考えたいと思い、だからこのnoteを始めた。

しかし、一方で、私はがんのことばかりを書きたいわけじゃないとも思ってきた。闘病という言葉は嫌いだから闘病記を書く気はない。がんのことばかり考えているから病人のままなのだという考えも浮かぶ。それに世の中にはがん以外にもさまざまな問題が転がっていて、解決を待っている。

でも、がんと共にあるこの18年間、「なぜ自分はがんになったのか」「どうしたらがんが治るのか」を考える中で、私は自分の人生のあり方を振り返り、人間がより健康に健やかに生きられる方法を考え、でもそれが実践できずに悩み、そういう体験の中から得た知見を通して、世の中で起こっているさまざまな出来事を見つめてきた。
がんになることがなかったら私の中に宿らなかった思想もあるだろう。

そう考えたら、自分ががんを通してこれまでに考えたこと、実践したことを書くことが、がんについてだけでなく、世の中全般を語ることになるのではないかと思えてきた。

なぜ私はこういう治療を選んだのか、自分はなぜがんになったと思うか、あくまで主観的なもので、万人に当てはまるものではないのは重々承知。参考にしてほしいなどとは思っていない。むしろして欲しくないかもしれない。でも、がんになって、こんなバカなことを考えた人もいたよって記録にはなるだろうし、読んだ人が自分なりの考え方を持つに至るきっかけくらいにはなるかもしれない。反面教師という意味でも。

そもそも、橋本治が残した「人はなぜ癌になるか」を考えたくて始めたnoteだ。当初は細胞のメカニズムを学んだり、体の仕組みを考えるところから始めようかと思っていたが、この複雑怪奇な人間の体の仕組みを思うと、私の俄勉強で一部分を理解したとしても、それが体全体を理解したことにはならないだろうと思い当たり、その方向性はなんとなく消えてった。
しかし、最新科学の知見やがん治療を行っている医師たちの研究と臨床から得られた発見はとても興味深く、がん患者の希望にも繋がるし、時々は自分が得たそういう知識についても書いてみようと思う。もちろん、まだ検証段階という前提で。

これまでに食養生もやった、サウナであっためたり、カラオケで歌いまくったり、がんを治そうと、お金のかからないいろんなことをやった。そして、人生が悩みの時期に入ると、それもやれなくなり、がんは成長してしまった。そういう自分の過去の日々から、がんってなんなんだということを振り返ってみる。

そこには現代の食の問題や、社会の閉塞感、ジェンダーの問題、仕事のあり方、親子関係、その他の人間関係など、一見、がんとは関わりなく見える問題が絡んでいる。少なくとも自分ではそう思っている。
社会の常識や周囲の視線にしばられてストレスを感じたり、女性としての自信がなかったり、男優先社会に無意識な無邪気な男たちに憤ったり、お金がないと悩んだり、そんなことも病に関係しているだろう。

ある時には、私の妄想が暴走して、ちょっとスピ入ってると思われるかもしれない。でも、人の頭の中身ってそういうもんだよってことを、このnoteに書き写していけたらいいんじゃないかと思う。

時には子どもの頃のことを振り返るかもしれない。
そういう人生の走馬灯を眺めながら、私はなぜがんになったのかを考え、それが消えるのはどういう時なのかに思いを馳せる。もしかしたら、それが「死を覚悟する」ことになるかもしれない。

書いたものはできれば冊子にまとめたい。
まさに「遺書」である。
私がこの先、長く生き延びたとしたら、それは生まれ変われた時で、その「遺書」は生まれ変わる前の私の「遺書」になるはずだ。

近いうちに冊子のプランを考えて、予約販売できたらと思う。
資金はないので、1冊1000円くらいで、200冊以上予約が入ったら発行するというクラウドファンディングみたいな形にしようか。人からもらう仕事は責任持ってできるか不安もあるので、これからは自分の発信がメインの仕事。

本気でそうせねばと思う、55歳の誕生日。
バカボンのパパは♪41歳の春だから~って歌ってたけど、
それよりも15歳近くも年上になってしまったのだな私。
どこまで自分をさらけ出して書けるものか?
♪55歳の夏だけど、冷たい眼で見ないで~

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