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なぜ胸に鎧ができたのか~鎧を溶かすためにやるべきことと

以前私に「あなたは既に死んでいる」と言った医師は(2022年2月6日公開記事「去年の夏に死んでいて、今は死後の世界を生きているようなもの」を参照)、私の胸の鎧について、「この鎧はあなたの心の鎧でもある」とも言っていた。実際、鎧はハートを包むように広がっているし、私自身、医師にこう言われるずっと前からこう思っていた。何の驚きもない。病はその人の生き方を表すというが、自分の人生を振り返ると、この医師の言葉に違和感はない。

心を開きたくて、正直になりたくてなれなかった相手がどれだけいるだろう。仲良くしているようで、どこかに薄い壁があるのが私の基本的な人との付き合い方で、それは私が本当の自分を鎧で隠していたからだ。誰しも都合の悪いことは隠したいものだとは思うが、私は「ダメ人間」を標榜しつつも、どこか優等生の顔を捨てきれず、綺麗事を言うことが多かった。

朝日新聞に書いたエッセイや今ここでこうして書いていることさえ、ぶっちゃけ書いているように見せて、巧妙に外向きの顔を作っている気さえする。もちろん、嘘ということはない。本当の気持ちを書いているつもりだ。しかし、そういう深層心理の奥の奥が自分でもよくわからない。それを克服し、素直な自分で世の中に向き合い、本当にやりたいこと、やるべきことをやることが病にも良い影響を与えるとその医師は言う。
その意見に医学的エビデンスがあるかと言われると、現在の医学では証拠を示すことはできないが、直感的に私もそう思う。しかし、そうは思えど、それを実現することは最も難しい。人は自分がどうありたいかが最もわからない。

本当は何をやりたいと思っている?
何が最も辛い?
言いたくていえないことは何?
今一番会いたい人は誰?
もし死ぬとしたら何を残したい・・・?
外向きの世間体ではなく、本当に本当に腹の底で思っているのはどういうことなのか。

YouTubeを始めると言っていながら、それもなかなか始められない。
お金を稼ぐ心配などしたくないのだけど、その心配は常に心を離れず、「やりたいこと」と言っても、お金になりそうなことだけがやりたいことの候補に上がり、「お金になりそうでないこと」は後回しになってしまう。自分の心を改めて覗き込むと、結局は「お金になる」がすべてに優先していることに気付かされる。

お金の心配をしないために、自己破産して生活保護を受ければいいといろんな人に言われたが、そうなると自由診療の治療は受けられないと思う自分がまだいる。自己破産すると銀行に抵当権を設定されている自宅もなくなり、親が住む家も私が帰る場所もなくなることを憂う。これまでの心配と変わらない不安はいまだに襲ってくる(以前に比べればだいぶ不安は小さくはなったが)。

しかし、前述の医師の言葉を思えば、私は「既に死んでいるようなもの」なのだ。もはや自由診療の治療だの、住む家だのを心配する必要はないのかもしれない。何もかも手放し、すべてを天に任せるくらいの心持ちになって初めて道が開けるのかもしれない。「死の覚悟」というやつである。
しかし、そうした思いさえも、何もかも手放すことで命拾いできるかもしれないという欲による小賢しい考えであって、本当の意味での覚悟ができていないとも思う。このままの流れで死ぬかもしれないという可能性を受け入れられていないのだ。やはりまだ生きたいから、どうしても自分の生き方や心のあり方さえテクニカルにコントロールしようとしてしまう。それは奇跡を自分でコントロールして起こそうというに等しい愚かな行為だ。

末期がんから生還した人の多くは生き方を変えたという。
しかし、彼らは「がんを治すために」生き方を変えようとしたのではなく、もう治療の手がないと医師に見放された絶望から、意図せずにそれまでの全てを手放し、ただただあるがままに、残りの日々を輝くものにしようとしただけである。まさに「死の覚悟」をしたわけだ。しかし、後に続く私はそうした彼らの体験談や、末期がんを克服した人々の事例を集めた本を何冊も読み、そこから逆算して、生き方を変えればがんは治るかもしれないという考えに至ったわけで、そこには「自分の意図」が介入し、生き延びたいという欲いっぱい、死の覚悟などできていない。そういう状態で意図的に生き方を変えたつもりになったところで、奇跡は起こらないのではないか・・・。

しかし、意図的であったとしても、これまでの歪んだ生き方を自分の素直な心に沿った生き方に軌道修正できれば、細胞の一つ一つが喜んで、あるべき状態になり、がんが消えるのではないかということも期待する。
そりゃあどうしたって期待してしまうさ。

では、私にとって、どうすることが生き方を変えることなのだろうか?
とりあえず、今、どうしたいのか?

もっと、あっけらかんとしていたい。お金の心配したくない。大好きな人たちと海や山に遊びに行きたい。ドライブ行きたい。ハワイに行きたい。青空の下、海風の中でぼーっとしていたい・・・etc.

でも、こんな体が動きづらい状態では無理かも・・とか、旅に出るお金もないしとか、みんな忙しいしとか、現実的な問題が頭をよぎる。そう考えるのは当然のことだ。しかし、事態ここに至っては普通の考え方をしていてはダメなんだろうなあとも思う。けど、崖っぷちにある今は普通の考えをしてる場合じゃないだろうというのも、ある意味ヒロイックな妄想で、がんという病の呪いに取り憑かれていると言えるかもしれない。

話が堂々巡りだ。
こうしてメビウスの輪をぐるぐる歩き続けていても、何も解決しない。

やはり、現実的な問題として、思い切ったことをやった方がチャンスが生まれる可能性が高くなるとは思う。
この先、この体で人から請け負う仕事は難しくなってくるだろう。だとしたら、自宅でパソコンだけでできるブログやnote、Youtubeならバズらないとも限らないし、やりたいことのためのクラウドファンディングだってやれるかもしれない。

これまで生活のために、手っ取り早くお金になる仕事をやってきた。こんな今の私に仕事を回してくれる仲間はありがたいし、今やっている仕事は、これからの日本を支えていくであろう若者たちを取材するものだから、やっていて楽しいし、気持ちのいい仕事だ。しかし、どうしても今の私がやらなければいけないことかと言われれば、そういうわけでもない。
今の私でないとやれないこと、私がやるべきことは他にもあって、具体的にやりたいと思っていることもある。しかし、それをやって生活できるのか、お金にするにしても時間がかかると思うから、なかなかそちらに行けないでいる。

しかし、ここまできて、そんなことで行動をセーブしている場合ではない。このままでは頭の中のアイディアも、自分の中の熱意も不完全燃焼のまま、一部の人にしか知られることもなく、終わってしまうかもしれないのだ。

世の中の多くの人は、現実的な生活を前に多くのことを諦める。私も今、その瀬戸際にある。老人になる前に、まだまだ気力のあるうちに、死を意識する病という試練を与えられ、もう時間はないのだと、運命に背中を押されているのかもしれないのだ。

さて、ここまで語った私の次の一手はどうすべきか。

こうしてパソコンを打ちながらも、だんだん、鎧が食い込む痛みを感じ始めている。指の使いすぎだ。それでもまだ、書くことならできる。そんな現在の私が書くべきこと。そして、発信すべきことはなんなのか。自分の体が喜び、細胞を再生させ、体を蘇らせるきっかけとなるものは何なのか?

パソコンを叩きすぎて、痛みが出たりすると、「無理をするな」という天の声も聞こえ始める。
しかし、それは本当に「無理」なのか?
私は天の声に向かって、「ヘルプミー」と呼びかける。
無理を無理じゃなくする力をくださいと願う。


がん再発後の私は後悔と反省ばかりしているが

最後になってしまったが、この文章を冒頭より読み返しながら、私は自分の人生について後悔と反省ばかりしていると思った。こんな病を得てしまったのだから、後悔と反省ばかりになるのもしょうがないかもしれないが、よくよく考えてみると、私の人生、私の生き方、そんなに後悔することばかりではないはずだ。いつから私はこんなに自信を失い、自分を愛せなくなったのだろう。かつての私はもっと自分のことを信じていたような気がする。

がんの再発後、心の奥で「こんな私なんてもう死んでしまえ」という思いを抱くことが多くなった。自分が「死にたい」と思っているのだから、病が良くなるはずがない。

信仰の言葉や、心理学的カウンセリングや、スピリチャルなヒーリングでは、よく「自分で自分を愛せ」という。自分のことを愛せて初めて他人のことも愛せるという。しかし、「自分で自分を愛する」ということがどういうことか、今の私にはなかなかピンとこない。小さな子供の頃は自分のことを愛していたのかもしれないなと思うことがあるが、私はその時の気持ちをいまだ思い出せないでいる。

私ってまんざらでもないよねって再び笑える日に向けて、なるべく素直に正直に過ごしたい。そして、人を傷つけない人になりたい。人の傷つく言葉を口に出しそうな時は一拍深呼吸して、笑顔を作れる人になりたい。
というのも、今回、母が東京にやってきて、お互いの不甲斐なさに、つい批判的な冷たい言葉を発してしまうことがあり、自分の余裕のなさと人の気持ちを慮れない自分勝手さをあらためて思い知らされたからだ。もちろん、母も私が苛立つことを言うのだが、それは年寄り特有の身勝手さなのでしょうがない部分もある。そういうことも受け入れ、優しく接することができて初めて、自分にも優しくできるのかもしれない。そして、他人の優しさをちゃんと受け入れられる自分になりたい。

がんというのはそれまでの生き方を振り返らせる病だと思う。
早期なら早期なりに、末期ならもっと深い部分まで。けれど、考えすぎも禁物だ。言葉を重ねた末に、その大量の言葉たちが頭の中からすっと消え、すべてがニュートラルになった時、何か別の光が見えるのだろう。

なんだか、宗教家の修行のような話になってきたが、病に向き合うというのはそういうことなのだろうと思う。でも、それは決して苦しい修行ではなく、通り過ぎれば、あれっ?っていうようなあっけないものじゃないだろうか。

なんだか自分で自分に言い聞かせるような、独り言めいた投稿になってしまった。同じことばかり言ってるし。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

兎にも角にも、次回からはやりたいことについての建設的な投稿にしたいと思う。乞うご期待。

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