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今日は旧暦の元日。初投稿してリスタート!

【書けなかった年末年始】

一月ももう20日すぎ。前回の投稿が大晦日だったから、20日以上が過ぎてしまった。
今年は喪中になってしまったため、新年の挨拶は控えていたとはいえ、15日の松の内をも大きく過ぎてしまった。ずっと投稿がなかったことで、私の体調を心配してメッセージをくださる方もあった。
みなさま、ご心配かけてしまい本当に申し訳ありませんでした。

今日は旧暦の元日。旧正月なので、タイミングもいい。
今日からまた、新たなnoteを書き始めたいと思う。

というわけで、今回は、なぜこんなに長くnoteを更新することができなかったのかを入り口に、このところの私の状況と今年の抱負を書きたいと思う。

昨年末、父の急逝を受けて、父について思うことを文章に書きたいと思い、地元では葬儀などが行われている頃、私は東京で1人、父について思うところを少しずつ書き始めていた。しかし、自分の人生の在り方に大きな影響を与えているであろう父についての文章はそうそう簡単にまとめられるものでもなく、思いつくままに書いたものはまだまだ断片的で、人に読んでもらえるものではない。じゃあ別の新年らしいテーマでと思っていたが、思いのほか、年明けの私は脱力していて、何を書いて良いものかよくわからなくなっていた。

父が亡くなったことは書くモチベーションを高めるものになっていたはずだが、実は、奥深いところでダメージとなっていたのだろうか。なんだか私はすべてのテーマを失ってしまったかのように、書く気が起こらず、テレビドラマやバラエティを見るばかりしていた。ちょうど年末年始は「孤独のグルメ」の一気放送をやっていて、これまであまり見たことのなかったその番組を見ては、松重豊の食べ過ぎを心配しつつ、自分も焼肉やジンギスカンなど、カロリー高そうな肉食に心惹かれていた。そして、食べに行って煙に巻かれたいが、今はそれができない自分の身体を残念に思っていた。

年明けすぐは、地元の町おこし計画をあらためて企画書化しようという意気込みが湧き上がった。しかし、すぐにそれはしぼみ、眠気に襲われて書けない日々が始まった。昼夜区別なく、文章を書いていると眠気が襲ってくる。いや、文章を書いてなくても睡魔は襲ってきた。夜の睡眠時間は短く、朝も6時には目を覚ましている。あまり体に良いことではないが、昼にうとうとすることで睡眠を確保していることは疑いない。

さらに、鎮痛剤の副作用で昼間も頻繁に眠気が襲ってきているのも明らかだ。
夕食後は特に眠くなる。まあ、朝6時には起きてるのだから、夕食後最も眠くなるのは不思議でもなんでもない。
文章は一度書き始めるとそのままいけることもあるのだが、年が明けてからは書き始める前にうとうとしてしまい、そのままになる日々が続いた。締切のようなものがあれば、それまでには書けるのだろうが、自発的な文章はなかなか進まなかった。こうして書いている途中にも、何度も寝落ちしそうになる。

薬の副作用という物理的な理由もあるが、父が亡くなった穴は思いの外大きかったのだろう。葬儀にも出られなかった私は、亡くなった父に向かい合わなかったのをいいことに、まだどこかで父が亡くなったことを受け入れていないのではないか。そんなz思いがふと頭をもたげる。私は睡魔に襲われ、眠りの世界に逃げることで、現実をうやむやにしようとしているのではないか、、、。

葬儀にも出られなかったのに、こんなに冷静に淡々としていられることに自分自身で驚いていたが、それは現実を受け入れたくないための心の反応で、今は何も考えたくないのだろうか。母からは、父の葬儀を撮影したビデオをDVDに焼いたものが送られてきたが(葬儀を執り行ってくれた黒住教の所長さんがDVDに焼いてくれたようだ)、まだ見られないでいる。

そんなふうに、年明けからの日々はただ眠かった。実際にはほぼ鎮痛剤のせいだ。今、鎮痛剤なしで日々過ごすことは結構厳しい。私にとっては眠いということがデフォルトだ。そんな日常的になった眠気を吹き飛ばすには、外からの非日常的な力が必要だ。しかし、今の私はほぼ毎日、自分の部屋に1人こもっている。会話も少ない。外に出て行こうにも、首が曲がって、顔が真っ直ぐ前を向けないため、前方左右の確認がしづらく、車椅子での外出は怖くて、天気が良くてもなかなか出かけられない。1階のマンションに中にあるポストくらいまでは毎日郵便物を確認に降りなきゃと思うのだが、それも億劫になっている。外に出るのは危険も伴うが、郵便物の確認くらいはやらないと、かえって身体が固まってしまう。

こんな私が覚醒するには、どうすればいいのだろう。向こうから人にやってきてもらい、話しかけてもらうしかないだろうか。それとも、一旦頓挫しているzoomやYoutubeを使って、自分から外に働きかけるべきだろうか。

【書きたいこととは何か】

年末に考えていた書きたいこと、これまで温めていたことは、もちろん今も書きたいことに変わりはないが、年が明けた今、何か流動的になり、一段、次元が変わりつつあるような気がしている。それが具体的にどういう変化かまだよくわからないが、これまで縛られていた自分の枠がなくなってしまったようで、その枠に沿ってこれまで温めてきた全てのことは、その枠が曖昧になったいま、中身も曖昧になり、これまで考えていた通りにアウトプットして良いものかどうか迷いが出てきてしまっている。全てが少しずつズレているような気がする。今一度、全てを考え直してみなければいけないという思いにかられる。
私は目の前に広がるいまだ開拓されていない原野を前に呆然としている人になったような気がしている。

睡魔に襲われ、うとうとと目を閉じると、書こうとしていたことが、閉じた瞼の向こうの黒い闇の中に言葉となって聞こえてくるが、目を開けた瞬間には忘れている。私は今、何を書こうとしていたのだろう。その繰り返しで、文章は進まない。

しかし、私に中の全てが0になったわけではない。全てが曖昧になったわけではない。
書くとっかかりはこれまで温めてきたことの中にある。地元の町おこしをやることが、これから先の私のやるべきことの一つだという思いは変わらない。そこに、魅力を感じているのは変わりない。火鉢カフェだって作りたい。ただ、それらをなぜやりたいのかという理由を語る時に、これまで、適当に耳障りのいい言葉を並べてしまうことはなかっただろうか、、、そんな思いが湧き上がる。自分の思いを的確に表せる言葉が見つからないと、つい多くの人に受けそうな適当な綺麗事を書いて済ましていなかったか、、、。もう、ここまで来たら、綺麗事などで切り抜けている場合ではない。本当にやりたいこと、本当の思いをちゃんと伝えなければ意味がない。この眠気を押しのけてでも書きたい本当のこと、どうしても伝えないといけないと思えることを、睡魔に襲われて消えそうになる言葉の中から掬い上げねばならない。うつらうつらと睡魔に襲われながら、無意識が暗闇の中に紡がれ、一瞬にして消えていく言葉の中に自分にとっての真実があるような気がする。一旦、自分も無になる。ゼロになる。
本当は私、何がやりたいんだろう。

重い病を得て悩んだ古い自分は脱ぎ捨てて、嘘のない自分に変わりたい。
病というのは、これまでの人生で自分が自分に対して重ねた嘘の被膜が積み重なったものにちがいない。そんな気がする。

今はただ、出てくるものを書いている。今は、とりあえず、そうして出てくるものを書き留めておく。

こうして書いていて、文章だけ読むと、なんだか暗い感じもするが、リアルの私は実はそうでもない。睡魔に襲われ、うとうとして、なかなかnoteがアップできなかったのは事実だが、美味しいものを食べたい欲はかなりあるし、気持ちは結構凪のようで、落ち込んではいない。こういう病気の人間にしては希望も失わず、淡々と日々過ごしている。まあ、積極的にドンドンとはいかない。
でも、身体が圧迫され、首根っこを後ろから押さえつけられるようで、薬を飲まないと結構しんどかったりもする中で、どうすれば少しずつでも鎮痛剤を減らして、副作用を減らし、自己治癒力を上げていけるかを日々、記録を取りながら考えている。半年後、夏ごろには、また外出できるくらいに、身体を動かせるようになっていたい。

これまでの経過を見ると、徐々に身体の動かなさは進んできているわけで、一見、不可逆のようにも見える。しかし、これまでは自己治癒力を高める代替治療のやり方も甘かったし、瞑想、呼吸法、足揉みなどももっとちゃんとやり、今、クリニックで処方されている体内をデトックスする水の飲み方も適当ではなく、ちゃんと処方を守り、なるべき良い睡眠を取れるようにする。それでどうなるか、、、。生活態度が崩れがちな私がどこまでやれるか。そうそう、お菓子も控えなばならない。
納豆梅干しなどの発酵食品、鮭などの魚、玄米、自然栽培の野菜の惣菜。身体が動きづらいながらも、できることは徐々にやるようにする。それがリハビリにもなる。
全くお金をかけずにというわけではない。しかし、私ができる範囲、標準治療でかかる金額の範囲内くらいはかけて、やれる治療と養生はやっていきたい。
そのためにも書かねばならない。今は書くことと話すことだけが私にできる仕事だからだ。

そして、自分の人生を振り返りながら、親孝行できなかった父への思いと、父の存在は私にとってどういうものだったかを問いながら書いてみる。そういう人生の見直しをすることで、病になった私身体も見直されていくのではないか。そんなことを思う旧正月の元日、リスタートである。

経済的には、このnoteの収入もいまだ伸びず(まあ、しばらく書いていなかったのだから当然だが)、実家の母の暮らしの心配もあり、取材にも出られないから、これまでのテレビ番組の仕事での収入も激減している。早急に方法を考えねばならない。
病気だからとか言ってる場合ではない。鎮痛剤を飲めば、こうして文章も書けるのだ。けど、無理をするということでもない。ついついサボってしまうのは私のこれまでの悪い癖。多分、うとうとするのも、気持ちを強く持てば、睡魔は退散するのだろう。鎮痛剤の副作用は事実だが、自分の弱さがそれを増幅させている部分もあるかもしれない。
うとうとしないで、文章を書こう。地元の町おこし計画の企画書化も進めよう。そういうことを考えるとき、私の頭の中には希望しかない。思いの外前向きであるし、楽しいのだから。

思いつくままの文章なので、同じようなことがダブってたり、まどろっこしかったり、ただの気持ちの吐露だったり、面白くなかったかもしれません。今年の目標はもっと面白い文章が書けること。思いを発信するだけでなく、ちゃんとエンタメとしても成立させることです。それにはかなり体力がいることも分かっていますが、なんとか頑張りたいと思います。

この前向きな気持ちを途切れさせず、今年もたくさん発信していきたいと思いますので、
皆さま今年も何卒よろしくお願いいたします。

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