「翔べ! 鉄平」  20

 数週間後、小隊全員が休暇を貰った。
 近くまた作戦に駆り出されるのであろうと誰もが予想した。

 町に出ると、男はみな同じ国民服を着、女はもんぺをはいて歩いている。みながみな一色に染まって黙って何処か解らない所へ向かって流れていくようである。そんな町では兵隊の姿ばかりが際立って見える。

 実家に帰ると、両親が二人で豆腐を作っていた。金平は大豆の買い付けに遠くまで出かけるようになっており留守で、銀平は満州に派兵されていたのだった。

 鉄平は啓二に言われたとおり、実家に顔を出すと同時に、風子にも会いに行くつもりだった。

「鉄平!」

 母親が出かけようとする鉄平を呼び止めた。

「畑中さんとこ、行くンだろ。これ持ってお行き。」

 丼に入れた豆腐が一丁と、紙袋に入ったスモモだった。スモモは母親の実家から送られてきたもので、熟れた甘く酸っぱい香りが漂っていた。

 畑中商店は薄暗く、棚に並べてある商品も少なかった。『心太』の幟が力なく垂れ下がっている。鉄平が店に入ると誰もいなかった。

「こんにちは」

 と呼ぶと奥からもんぺ姿の風子が出てきた。

「鉄ちゃん!」

「やぁ、久しぶりだね。店に誰もいなかったよ。あ、これ、豆腐とスモモ。母ちゃんから」

「あ! ありがとう。おばさんによろしく言っておいて」

 風子は駅の裏にある縫製工場に働きに出ているということであった。両親が切り盛りする店には駄菓子を買いに来る子供ぐらいで、その数も減り、店は立ち行かなくなってきていたのである。風子の妹と弟も働きに出ているという。

「今日は仕事、お休みの日なンだ。今、お客さん少ないンだよ。開店休業ってところ。売るもの無いから、仕方なく開けておくンだけど、風通しが良いンだよ。ねぇ、心太食べていく?」

「いや、止めとくよ」

 長引く戦争で経済は逼迫していた。風子はそんな暗く静かな店にいることが気詰まりで、店を出て熊野神社へ行ってみようと言い出した。鉄平もそのあとを追った。

 境内の石段の脇には桜が咲いていた。その桜の花びらが緩やかな風に乗って石段に舞い降りる。散った花びらは冷たい石を華やかに飾り、甘い桜の香りが漂ってくる。境内を子供たちが翔けて行く。子供の頃に遊んだ雑木林は全く変わりないが、子供の数は心なしか少なくなったように感じた。

 あのイチョウの木も変わらずに子供たちの中心に立っていたが、枝の高さが低くなったように感じる。鉄平と風子はそのイチョウの木の根元で幹を見上げた。

 鉄平にあの頃の気持ちが蘇ってきた。するとムササビのように空を飛んでいる自分が誇らしく思えてくる。イチョウの木の枝から子供が飛び降りた。

「キャァ!」

 突然風子が声をあげて斜面で尻餅をついた。小さな窪地で足を踏み外したのだった。鉄平が笑って風子に手を差し出すと、風子がその手をとる。

 風子の手は細くしなやかだったが少し荒れ、鉄平の手はだいぶ硬くなっていた。

 いつの頃からだろうか、手を繋がなくなって、手を繋いでいたことも忘れていた。子供の頃の手の大きさは忘れてしまって、今握っている手の大きさが、昔のままの大きさに感じた。

 再び歩き始めても、そのまま離れたくない。手を放さない。

「ねぇ、啓ちゃんに聞いたよ。鉄ちゃん、精鋭部隊なンだって」

 という風子の言葉には、昔空を見ながら飛行機の話をした時ほど楽しそうではなかった。

「あ、ああ」

 海軍が空挺作戦を成功させた後、陸軍もパレンバンに降下し成功を収めると、そのニュースが日本中で報じられ、国中で沸き返り、すでにパラシュート部隊は国民の知るところとなっていた。

 鉄平は啓二が精鋭部隊と語っていたのだと思った。ただ以前のように啓二に対する嫉妬や羨みどころか優越感さえ沸いてこない。小学校のころよりももっともっと以前の、小さな社会性も知らなかった幼い頃のように、手を繋いで三人で回っているような、調和の取れた関係を感じた。

「ねぇ、写真見たよ。なんか、みんな同じ目をしているね」

「え?」

 鉄平は風子が何を意味して言っているのか解らず、風子の目を伺うと、風子も鉄平を振り向いた。すると風子の顔つきは少し曇った。

「精鋭部隊って、危ないところに行くンでしょ」

「あ、ああ。まあ、戦争は何処に行っても危ないさ」

「嫌だな。鉄ちゃんが、どっかに行っちゃいそう」

 二人は互いの手の感触を確かめながら、そのことは黙って、話しを続ける。

「南の島で、ゆっくりと過ごせたらいいンだけどな」

「ねぇ、鉄ちゃん、帰ってきてよ」

 風子はモンペのポケットから赤いスモモを取り出すと鉄平に差し出し、もう一個取り出すと、その赤いスモモを見せて笑った。

「うん」

 二人はスモモをかじった。酸っぱさの方が勝る甘いスモモでも果汁がほど走り、汁を吸いながらかじる。

 戦争の現実を知ると、必ず帰ってくるという言葉に自信が持てないく。
 風に乗る時は、それまでの数々の降下で、風を計算し予想することは出来たが、戦争の行方を予想することは出来ず、自分の意思に関係なくどこかへ流されていくような気がする。戦争に負けてしまいそうな気がしてならなかった。

ーーほんとはねぇ、俺、何処かへ行ってしまいそうだ。

 鉄平は風子の手を強く握ってみた。

 戦争が怖い。でも鉄平は言葉には出さなかった。出せなかった。

 鉄平の夢は、軍隊があったからこそ実現できた。自転車屋のオヤジは志願することを否定的に思っていた。
 母親は諦めのようなため息をついていた。
 軍隊生活は人々に暗く厳しい印象を与えるが、それでも自分一人では決して実現することのできなかった夢を、暗く厳しいはずの軍隊生活の中で、辛苦を分かち合った仲間たちと共に実現できたのである。それを許してくれた人たちがたくさんいる。

 鉄平は、もうしばらく、仲間たちへの恩返しとして行動を共にすることにした。

 風子は林の出口でしゃがみこむと柔らかそうな土を手で掘り、小さな穴にスモモのタネを落とした。それを見た鉄平も、空いた手に持っていたタネを落とすと、風子が土をかけて埋めた。

「芽がでるかもね」

鉄平を仰ぎ見る風子の顔を見つめていると、それに気がついた風子も鉄平を仰ぎ見た。

     *                  

 その後、部隊はアッツ島を想定した訓練を開始した。制海権を失ったアリューシャン列島のアッツ島に取り残された部隊の救出作戦が計画されたのであった。

 輸送機が空挺部隊と物資を乗せた動力のないグライダーを引き、飛ぶ。そして島の手前でその牽引を切り、夜陰に紛れて島に静かに着陸するという作戦であった。グライダーの不時着の衝撃の交わし方や、着陸後の展開の仕方を何度も繰り返す。

 しかしその救出も間に合わず、アメリカ軍は五月に上陸作戦を展開。アッツ島の日本軍は全滅した。ただそれはアメリカ軍にとっては日本軍の目を南方諸島から逸らさせる陽動作戦でしかなかった。

 ラヂオが『玉砕』という言葉を使うと、国民はその美しさに涙し理想の人間像を作り上げ、本音を隠し、火の粉がかからないように隠れる。

 1001の活動は再び静まり返り、時間になると食堂で噂話が始まる。そんなある日、熊沢が駆け込んできた。

「今、龍宮中尉から聞いたのだが、猪俣大尉と猿田曹長の乗った輸送機が撃墜されたそうだ」

 1001の集まる一角は通夜のように静かになった。

 前年に占領し、多数の陸海の兵員を集めパプアニューギニアでの前哨戦基地としていたラバウルが、連合軍の反攻で孤立化し物資に貧窮していたのである。
 制空権を失った日本軍はそれでも空から強行着陸で物資を輸送しようという作戦を立てた。
 そこで飛び立った二人の乗る飛行機は、アメリカ軍によって撃墜されてしまったということであった。不安と試練のなかで目標に向かって共に飛んできた仲間である。1001実験から時を共に過ごしてきた仲間は、部隊が変わってもその絆は切っても切れない。猪俣の清々しい笑顔が目に浮かび、猿田が大声で数える声が聞こえてくる。

 1001は八月にサイパンの守備へと向かった。

                 つづく


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