「翔べ! 鉄平」 エピローグ 27
啓二は両足を骨折していた。民家の屋根に着地すると同時に倒れこみ、転がり落ちて気を失ったのだった。
気が付くと湘南地区にある病院にいたのだった。
「啓ちゃん」
風子が見舞いに来ていた。啓二はベッドに枕を高くして窓のほうを向き、ずっと遠くの海を渡る風を見つめていた。彼は風子に気がつくと目を合わせずに窓の外の海を見つめたままで、
「ああ、ありがとう」
とだけ言った。
「早く治るといいですね」
と、看護婦が言い残して部屋を出て行った。看護婦が出て行くと風子は啓二と一緒に窓の前に立って啓二の見つめる海を一緒に眺めた。
「早く治らなくてもいいよ」
風子は独り言のように外に向かって言った。啓二は黙ってそれを聞いていた。
「もう、日本は負けるンだよ! みんな知ってるンだよ」
みんな知っていることだった。風子のその言葉に、啓二の向かい側のベッドにいた男性患者が新聞を置いて視線を向けた。
「そしたら戦争が終わるンだよ。それまで、ゆっくりと治せばいいよ」
風子の声はすこし震えていた。啓二は黙っていた。
「奥さん、そんなこと言うもンじゃねぇよ。本土決戦にでもなったら、空からアメリカの落下傘部隊が遣ってきて、男たちの金玉を引っこ抜くっていうじゃねぇか」
男は再び新聞を立てた。彼は風子を啓二の奥さんと勘違いしていただけである。
「まぁ、俺もわからないわけではないけどな」
男は新聞で顔を隠して呟いた。
「みんな知っているンだよ。知らないふりをしているンだよ。ずるいよ。負けるンだよ! もう嫌だよ。止めようよ」
風子は胸を震わせ、声を震わせ、声を出すと泣き声になった。啓二も喉が震え肩を震えさせた。
高いところに実るモモには手が届かない。何度飛び上がっても掴めない。
――ああ、あのモモは酸っぱいンだ。食べないほうがいいンだ。
そう考えて自分を、自分たちをごまかし続け、手をあげることさえせずに、澄ましている。
みんな知っている。骨も形見も残らず死亡通知をいくつも受け取り、
腕のない足のない帰還兵を見て、彼らの話を聞いて、焼夷弾から逃げられなかった人たちを見て、誰もが感じている。
しかし声を上げようとしない。
政治が悪い、軍部が悪い、自分の不幸の責任の落とし所を探し、大本営の発表は嘘だ、と誰もが知っていても、誰も黙って声をあげない。
憲兵隊が睨んでいるからと、人々は見て見ぬ振りをし、自分に火の粉がかからないよう隠れ、孤立する。孤立した人たちの最後の拠り所は、日本人の血という偶然の絆で、彼ら追い込まれた人たちは狂気の風を生む。
「落下傘部隊はそんなことしないよ。自分たちで金玉、躍らせているンだよ」
風子は泣きながら笑いながらしゃくりあげながら、癇癪をぶちまけるように叫び、窓の桟にすがりついた。啓二も声をあげて泣き出した。
憲兵が病室の様子伺いに来た。
「狂っとる」
病室の男はそう言って新聞を折り曲げて窓にすがる外を風子の背中を伺った。そして少しだけ頬をゆがめるとまた新聞を立てた。
憲兵は何事もなく立ち去った。
啓二はずっと海風に乗って輝く光を感じた。太陽の光が海に反射して、空気を、風をキラキラと輝かす。それを見ると
『もう大丈夫さ』
と言う鉄平の言葉が啓二の耳に木霊した。
つづく