『翔べ! 鉄平』 1
熱い風が木々の茂みの上を翔けて行く。
熊野神社境内の裏手、鎮守の杜の山の斜面には大きなイチョウの木があり、子供たちが集まると、たいていはその木の周辺が遊びの中心になる。だからそのイチョウの根元や周りの斜面は緑の草も生えないほど忙しい遊び場になっていた。
緑の深くなる夏の雑木林の中は、そのイチョウを中心にそこだけが大きな空洞のようになっており、取り巻く木々はその空間に枝葉を伸ばすことを控えている。蝉の声が木々にこだまして杜に充満しても、それに負けじと子供たちの歓声が響く。歓声は蝉の声に溶けて混ざり、深い杜の緑の隙間から染み出て、飛び出て空へと広がって、麓の町々に降り注ぐ。
その大きなイチョウの太い枝は、世代を超えて子供たちが長い年月に幾度も幾度も登っていて、靴の泥がこびり付いて乾き、手垢で擦れてテカテカと光っている。
烏山鉄平(からすやま・てっぺい)はそんな枝の上から、集まった友達を見下ろして叫んだ。 「おいら、今度こそ空を飛ぶぞ!」
はためく風呂敷の端を腰の半ズボンの裾に挟み込み、もう一端を背中に廻して両手で掴む。そして両手を大きく広げて風呂敷をピンと引っ張りあげると、太い枝の上に立つ姿はムササビのようである。
「トォ!」
木の上から落下する勢いで風が風呂敷の中に詰まり、幾分落下の速度が弱まった気分になる。思っていたよりもだいぶ前方に滑空しているように感じる。しかしそれは枝から飛び出してすぐの一秒にも満たない間で、着地するときにはすでに風呂敷はズボンから抜けて肩ではためいていた。
結局傾斜した地面に足が着くとすぐにバランスを崩して倒れ、そのまま斜面を転げ落ちた。そうやって膝や肘を擦りむくのは日常茶飯事であった。イチョウの根元に集まっていた子供たちは転がる鉄平を見下ろして笑う。
『バーカ、バーカ、鉄平バーカ。何度打っても、鉄の頭は割れねぇぞ』
と、子供たちは歌と笑い声を残して境内のほうへ消えていった。
「鉄っちゃん、飛べるわけないよ。鳥じゃないンだから」
鉄平の同級生の畑中風子(はたけなか・ふうこ)が斜面を降りてきて、這い上がろうとする鉄平に笑いながら言った。
「この前より遠くまで飛んだだろ。ムササビは鳥じゃないけど、飛べるンだぞ。遠くまで飛べるぞ」
ムササビは山から山へ、木から木へ、屋根から屋根へと飛び継いで遠くまで飛んでいく。
「義経さまじゃあるまいし。天狗に教えてもらうしか、方法はないじゃない」
天狗を探すかのように顔を上げると杜の木々の間から空が小さく見えた。その空を、鈍いプロペラの音を響かせた飛行機が、館山の海軍基地へ向かって飛んで行く。
「でも、飛行機に乗れば、空を飛べるよ」
風子もその小さな空を見上げて言った。鉄平は体に纏わり着いた落ち葉を払いながら、風子の言葉でその小さな空を翔け抜けた飛行機を追った。
「おいら、バカだから、兵学校なんて行けねぇ」
「そうだよ。木から落ちて頭打ってばっかいるから」
「落ちたんじゃねぇ。研究中なンだ。飛ぶンだ!」
亀田啓二(かめだ・けいじ)が澄ました呆れ顔でゆっくりと斜面を降りてきた。鉄平にとっては頭がよく冷静で大人びすぎていて、憎らしくもあるが何故か反抗もできず頼ってしまう、いわばライバルといった友達だっ
た。
「人間が飛行機に乗らずに飛べるわけがなかろう。飛べないから飛行機を発明したンだ」
「わかっとる」
鉄平は啓二があまりにも当たり前のことを言うので少し頭にきて詰まらなそうに答えた。空を翔る飛行機自体も、なぜ飛べるのか不思議であったが、実際に飛んでいるのを見てしまうと納得してしまう。
「僕は、飛行機乗りになる」
斜面上手から腰に両手を当てて木々の間の向こう見える空を見上げながら誇り高く言う啓二を風子が見上げた。その上をもう一機飛行機が飛び去った。
「啓ちゃんなら、なれるよ。兵学校に行けるよ」
風子が啓二を励ますように言うので、それを聞こえない振りして
鉄平は斜面に座りなおし、空は見ずに木々の間に見えるその手前の
幹や枝を漠然と眺めまわした。
「おいら、馬鹿だから」
鉄平は自虐的な気持ちで呟いた。
鉄平は誰も見ない夢を見る。それがまた無鉄砲な馬鹿に見えてしまう。啓二は現実を直視して今やらなければならないことを確りとやる。だから勉強も良くできる。ただ啓二はどんなに成績を褒められようと、なぜか鉄平に嫉妬を感じていた。それは風子がなぜかいつも鉄平の馬鹿な行動を庇うためだったのかもしれない
風子は風子で、啓二の考えや行動を見て、それに同調しながら鉄平を諭したりする。理想は啓二だが、鉄平は夢を見すぎていた。
鉄平たちの住む町は横須賀から山に入って峠を越えた山間部の町にあったが、神社やお寺が多くその寺町として広がった地域で、町を囲む低山の南の峠を越えればすぐに海に出られる事もあり、人口は比較的多い町であった。
鉄平は大正十二年、一九二三年生まれの豆腐屋の三男であった。長男の金平(きんぺい)とは九つ年が離れ、次男の銀(ぎん)平(ぺい)とは六つ違いであった。上の二人の兄弟とは多少歳が離れていたためか、鉄平は家ではいつも子ども扱いされ、近所に住む祖父母の下で過ごすことが多かった。また両親は放任という訳ではなかったが、あまり鉄平に煩く言うことはしなかった。
風子の家は、その烏山豆腐店から百メートル程離れたところで雑
貨屋を営んでいた。兄と妹、弟のいる長女であったが幼い弟は妹が面倒をみ、むしろ店の手伝いをさせられる確り者であった。
また啓二は町で一番大きな屋敷を構えていたその町の町長の次男坊だった。学校では成績が一番の良家の子息で、町の人たちに期待されていた。
そうして毬栗頭の鉄平と啓二、そしておかっぱの風子、同い年の
三人はほとんど毎日一緒に時間を共にしてきていたのであった。
鉄平は小さい頃から町を囲む山々を兄たちの後ろについて歩いては、上を見上げて自然薯やアケビを探した。ところが自然薯やアケビの蔓の葉の向こうに広がる青い空を見てしまうと、空の風を追いかけて、斜面を、崖を、どんどん登る。
「馬鹿と煙は高いところに昇る」
兄の金平や銀平はそう言ってからかった。それでも峰に出ると木に登る。
「おい、鉄平どこにいる」
と声がして下を向くと、下界の遠くに青い海が広がっている。海から吹く風は浜に上がると川を遡り、山肌を舐め、峰を越えて舞い上がる。鉄平の夢も膨らみ、広がり、舞い上がる。
山の上にある茶屋からの見晴しはよく、町の家々が小さく見える。大きな神社や寺の境内の作りが手に取るように解る。遠くの相模湾では、白く細い波が弧を描いて漂っている。そんな時、館山の海軍基地に向かう飛行機がやってくると、低地にいる時は機体の下の部分を見上げるだけなのだが、高い見晴台からだと、操縦する人たちの顔が見えそうなくらい、同じ視線になって身近に感じて見える。そうすると今すぐ飛行機に翔け寄って風防ガラスをトントンと叩いてみたくなる。
尋常小学校に入学すると、竹とんぼの羽の研究に凝った。薄く撓るほどに削った羽で、手の平を擦って回転を早めた竹とんぼは、始めは勢い良く上昇する。そこで滞空時間をできるだけ長くしたいと思い、今度は羽の削り方を何通りにも削ってみる。高く舞い上がるものや、いつも左方向へ飛んでいくものなど、羽の削り方や形によって飛び方が幾通りにも変わる。ところが回転が止まると突然もろくも落ちてしまう。
ーーもっともっと飛んでいられないかな。
そこで身近に見える羽を持った鳥をじっと観察してみる。ある日トンビが店先の厚揚げを盗もうとしていると、鉄平はじっとトンビの観察をしてしまった。その翼を畳んだ肩の太さに雄雄しさを感じ、その精悍な体の両脇にピンと突き出た翼の力強さに見入ってしまう。すると奥から出てきた母親になぜ追わないのかと怒られた。
ある日、畑のあぜ道を歩いていると、啓二が何かつまらなそうに
地面を蹴り上げた。するとタンポポの綿毛がふわりふわりと舞い上がった。舞い上がって風に乗ると、畦を超えてゆらゆらと飛び、ゆらゆらと畑を越えていく。
鉄平はタンポポの綿毛を摘み取ると、大きく息を溜めて、その白い丸い綿毛を吹いてみた。幾つもの白い産毛を頭に生やした種子がゆらゆらと舞いあがる。幾つもの種子が列を成して風に吹かれて流
れていく。
ーータンポポだって飛べるンだ。風に乗れば飛べるンだ。
「鉄ちゃん、どうしたの?」
風子は立ち止まってぼうっとタンポポの種子の流れるさまを眺めている鉄平を振り向いた。そして風子も綿毛を摘み取ると、同じように息を溜めて吹いてみた。
ある夜、使いで近所の畑中商店に行ったとき、道路の上を飛んで横切る陰を見た。それからと言うもの、その影が無性に気になり夜の山々を観察しはじめた。すると闇の中を幾つもの黒い影が飛び交っていることに心が躍った。
「夜になると、何か飛んでるんだ」
「ムササビだよ」
風子は知ったかぶって言った。鉄平はそれがムササビだと教えられても、どんな動物なのかイメージが沸かない。風子や金平、銀平に絵に描いてもらおうと頼んでも、誰もそのムササビの絵を描けなかった。母親はウサギみたいな動物だという。父親はイタチみたいだと言う。そうして想像をしてみると変てこな動物になってしまった。
そんな時啓二が自慢げにムササビを説明するので、絵を書いてみろと言うと、家に連れて行かれ、図鑑を見せてくれた。繊細な白黒線画のムササビはタヌキのように見えたが、勇ましそうな目つきで
片腕を挙げて脇の下の翼を自慢げに見せていた。
「これでバタバタとやって飛ぶのか?」
「ムササビは風に乗るンだ」
啓二がそう言うと鉄平は鳥でない動物でも空を翔ぶことが出来るのだと思った。鯨や海豚は哺乳動物でも海の中で生きている。だから空に生きる哺乳動物がいてもおかしくない、と鉄平は勝手な理論を打ち立てた。
ある夜、家の窓から庭を眺めていると、庭の木の幹に何かがくっついた。家から漏れる明かりでそれを見ることができたのである。ネズミかリスを大きくして狸のようにした動物で、それが初めて拝むムササビであった。ムササビはスルスルと木の幹をらせん状に回りながら上に登っていくと、また突然枝から飛び出して、隣の家の屋根に飛び移ったのである。そのときの姿は凧が飛んでいくように見えた。
それ以来、ムササビを真似て、シャツをはだけて木の上から跳ん
でみたりと、生身の自分が飛ぶ研究と実験を重ねてきたのである。
続く
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