「翔べ! 鉄平」 18
1940年、ドイツのオランダへの侵攻以来、オランダ王室はイギリスに亡命していたが、オランダ領東インドのオランダ軍はイギリスとアメリカへの原油の供給を続けていた。
そのオランダ領東インドの、ランゴアンという小さな町はセレベス島北部に突き出た半島の北部山間地に位置する。すぐ北にトンダノ湖があり、その北西にはメナドという港町が控えている。
オランダ軍はそのランゴアンでロイヤル・ダッチ・シェル社が原油を採掘製油する基地の防備に当たっていた。
基地は小さな草地の滑走路を抱え、そこは第四一旅団のバンデンベルグ大尉の指揮の下、機銃を備えた装甲車を配備していた。
特に前年の12月にオランダ政府が日本に対して戦争状態にあることを表明して以来、原油に貧窮する日本軍が攻めてくることを予想して、ラデュマ中尉を中心として上陸地点に想定される北西のメナドの防備を主力で固めていたのである。
「こちらM1(マイク・ワン)。配置、完了しました」
ラデュマ中尉は本部に無線で連絡をした。ただその表情は無線では伝わらない。
「こちらQ1(クィーン・ワン)、どうだ? 何か補強するところはあるか?」
バンデンベルグ大尉は中尉の言葉に不安を感じ聞いてみた。
「あ…現地人が多すぎですね。煩くて、よく眠れません」
よく眠る、とは無線が傍受されていることを想定した言葉で、指揮が高いという意味である。
「眠らなければ眠らせろ! やれ!」
やれ、とは強硬手段を用いることである。
「了解」
表情は伝わらなくても、言葉の響きは電波の波に乗る。すでにオランダ軍全体に厭戦気分が広がっていた。
この防備を受け持つ部隊は、総勢千五百人ほどであったが、純粋なオランダ兵と呼べるのは二百人ほどで、歩兵の多くはヨーロッパで雇われた外人や、植民地であるオランダ領で徴兵した現地兵たちで構成されていた。
内陸の山間部に位置するランゴアンの周囲は、密林地帯に阻まれ迅速に進むことができない。その北側の幹線道路が通じるメナドに上陸、もしくはランゴアンに一番近い東沿岸部の部落ケマに上陸するしかない。
またもしメナドを攻略せずにランゴンを落とせたとしても石油の輸送がままならなくなる。
1月11日、午前三時。日本海軍が海上からケマに奇襲上陸をした。ケマの防備を固めていたオランダ軍のラデュマ中尉は迅速な日本軍の上陸をすぐに許してしまった。
「ふん、撤退だ!」
ラデュマ中尉の口から、当然のように冷静な言葉が出てきた。
ケマ守備隊はトンダノ湖北側のアジェルマヒディへ向かって撤退し編成をしなおすことにした。
続いて午前四時には日本軍はメナドに上陸した。こちらもオランダ側は多数の脱走兵が出たためにすぐに町を明け渡し、トンダノ湖の西に位置するトモホンの町へと撤退した。
このメナド、ケマに配置されていたオランダ軍の多くは、現地で徴兵された人たちであったため、オランダの抑圧に苦しみ士気は低かった。そのうえ強制的に戦うよう、中には鎖などで繋がれていた兵隊たちもいたのである。
そこへ日本軍の上陸が始まると、戦うどころか鎖を切らずにそのまま連なって逃亡を始めた。オランダ軍の中で少ない指揮官は彼らの逃亡を抑えるどころか、追うことさえもできなかったのである。
そうした状況の中、日本軍はむしろ上陸が余りにも簡単に出来てしまったことに戸惑った。メナドに上陸した日本軍部隊はメナド制圧に兵の一部を残し撤退するオランダ軍を追撃した。そしてケマに上陸した日本軍部隊もそのまま主力としてオランダ軍を西へと追撃して行く。
オランダ軍のランゴアン守備隊は日本軍の上陸を許してしまったと聞くや、その町に陣を敷くバンデンベルグ大尉は主力の機銃を備えた装甲車を二班に分け、ランゴアンとその直ぐ北のカカスの村に配置した。
「今、機甲隊を送る! このままじゃ、二方向から挟み撃ちだ! ランゴアンとカカスを抜けさせるな!」
バンデンベルグ大尉の声が各方面の無線に響いた。
日本軍の追撃は続き、オランダ軍はトンダノ湖東岸のアジェルマヒディと西のトモホンまで撤退した。
ところが午前9時、突然日本軍の追撃が止まった。両軍はアジェルマヒディとトモホンで対峙し消極的な交戦を繰り返す。
日本軍は何を警戒しているのか一向に進軍しない。そしてついに十五時にはアジェルマヒディで応戦するラデュマ中尉の中隊の弾薬は底を尽いてしまった。
連絡を受けたバンデンベルグ大尉は東からの追撃が主力と睨み、カカスの村からランゴアンのウェイリング中尉を無線で呼び出した。
「こちらQ1。R1(ロメオ・ワン)! R1!」
ウェイリング中尉は無線の大尉の声が大きすぎて音が割れるので受信機のボリュームを下げた。
「こちらR1」
「飛行場の警備は二台の装甲車を残し、他は全てアジェルマヒディに援軍として送れ。アジェルマヒディから来る日本軍が主力だ」
「飛行場は?」
「死守だ! 補給もできなくなるぞ!」
これ以上撤退する方向がなかった。無防備で孤立した砦を守ること、としか考えられなかった。
ウェイリング中尉は一抹の不安を覚えながらも隊のほとんどをカカスに送ると、二台の装甲車と現地兵を中心にした少ない兵員だけで滑走路と油田のあるランゴアンの村を守ることになった。
日本軍は、このまま進めばオランダ軍が撤退の際にランゴアンの油田施設を爆破して西へ撤退するであろうと予想していたのである。油田を爆破されては作戦の目的が失われてしまう。
そう考えてあまりにも早いオランダ軍の撤退に進軍を緩めたのであった。
日本軍の進撃が止まった理由を知らずに、オランダ軍は交戦の構えを見せながらアジェルマヒディで援軍を待ち態勢を整え、一夜を過ごした。
明けて12日、早暁、日本軍はまだ進軍を開始しない。標高が高
く密林に囲まれたランゴアンの村は湿気も高く朝は寒い。そして靄が立ち込める。しかし太陽が昇るにつれ気温が上昇し、靄が消え去り、湖とカカスやランゴアンの村々を露で濡らしてしまう。
*
フィリピンのダバオを飛び立った飛行隊は、第1001部隊、横須賀第一特別陸戦隊を乗せ、まだ夜の明けきらない海上を、編隊を組んで南下していた。45機の九六式陸上攻撃機を輸送用に改造した飛行機は、自動操縦装置や方向探知機を備えている。
「おい、猿田、楽になったな」
「へへへ、猪俣中尉。でも、機首の窓が下に無いから、降下地点はここから目視ですよ」
「ああ、陸に近づいたら一気に高度を上げる。山を越えたらすぐに水平飛行に移る。湖が見えるそうだ。湖の南岸に街がある。その町の2キロほど南西に目標地点。降下高度は標高700メートル足す300メートル。高度1000メートルを維持する。スコールの雨雲に気をつけろ」
貨物室内の一〇〇一龍宮隊の全員は黙って操縦室に目をやった。
「了解」
鉄平が猪俣の説明を受け龍宮に伝えた。
「急遽出撃が早まりましたね」
熊沢が隣の龍宮に聞いた。
「オランダさん、すぐに逃げ出したらしい」
龍宮隊ら空挺隊はじっとその話に耳を傾けていた。誰もが黙り込み、互いに目を合わせないようにしていた。
話せば、目が合えば、互いの心の隅に隠しているものが見透かされてしまいそうだったからだ。
龍宮は部隊を見回して口を開いた。
「おい、カラス、B-17って知ってるか?」
「え?」
鉄平は鉄帽で締め上げられた顔を龍宮に振り向けた。龍宮の顔も締め上げた鉄帽で縮んでいるように見えた。
「アメリカの爆撃機だ」
と犬飼が鉄平を横目で見て教えた。
「B-17は、高度三万フィート以上を飛べるそうだ」
「三万フィート?」
鉄平が聞き返すと、隊の全員が龍宮を見た。猿田も操縦席から覗
いた。
「約九千メートルだ」
「へぇ……」
鉄平は天井を見上げた。
「じゃ、滞空時間が長くなりますね」
鉄平が少しとぼけた顔で言うと隊の全員が笑った。
「ああ、300メートルじゃ空を楽しんでいる閑は無いが、そこまで高ければ、十分楽しめるだろうな」
「タービンか……」操縦席で猪俣がエンジン音に負けじと呟く。「日本もその内、開発しますよ」
「そしたら……9000千メートルから、飛んでみてぇ!」
鉄平は笑っていた。
「ハハハ、酸素ボンベをつけて飛ぶことになるな」
熊沢が笑った。
夢や希望が未来を見つめさせる。それは戦場を生き残ろうとする意志になる。
「陸が見えた。上昇する」
操縦席から猿田が叫ぶと、1001は再び緊張に包まれた。エンジン音が高くなり機体が傾く。そして水平に戻ると猿田が再び叫んだ。
「用意してください!」
1001が立ち上がった。一瞬で機内に緊張が充満する。
「降下高度三百メートル。飛び出たら時間がないぞ! 開傘索を掛けろ!」
一糸の乱れもない動きである。
「扉に向かって詰めろ!」
鉄帽に締められた顔には緊張が漲っている。
「着地後は 全てに優先して筒を回収する!」
鉄平と犬飼が列に声を掛ける。筒の中に武器が詰められているのである。
「湖です。高度はそのまま。カカスの町確認!」
後方の扉が開けられた。編隊を組む友軍機も扉を開けていた。扉から互いに手をかざして互いの意思を示す。編隊を組む輸送機の周りに戦闘機が護衛に着いて飛んでいる。
「カカス上空! 降下地点まで1000メートル!」
「5、4、3、2、1、ゴー!!!!」
オオョ! オオョ! オオョ! ……
大空に純白の花が幾つも幾つも咲き乱れる。ゆらゆら風に乗って揺れて地上に舞い降りる。
つづく
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