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「ポール・マッカートニーは死んだ」という伝説の陰謀論

1966年、ビートルズのポール・マッカートニーが交通事故で死亡し、その後彼に似た人物に差し替えられたという都市伝説が広まった。この陰謀論は1969年9月、アメリカの大学キャンパスでの報告を契機に急速に広まったと言われている。この伝説はビートルズのアルバムの細部に秘密のメッセージが隠されているとされ、多くのファンがその証拠を探し求めた。

By WCFL/Chicago Federation of Labor - Fab Four FAQ WCFL Radio/Chicago; Other side of Sound 10 SurveyUploaded to English Wikipedia by w:en:We hope (talk | contribs): 28 July 2010, 20:03 (original upload date), Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=129460802

伝説の始まり

この陰謀論は1966年の終わり頃から始まった。当初、ポール・マッカートニーが車の事故で死亡し、イギリスのMI5の協力のもと、ビートルズが彼に似た人物と入れ替えたとされた。この噂はビートルズのアルバムや歌詞、ジャケット写真に隠された手がかりから広がり、特に1969年9月以降、アメリカの大学生たちの間で急速に広まった。

初期の目撃情報と反応

1969年9月17日、アイオワ州デモインのドレイク大学の学生新聞「ドレイク・タイムズ・デルフィック」の編集者ティム・ハーパーが「ビートルズのポール・マッカートニーは死んでいるのか?」という記事を発表した。この記事には、ビートルズのアルバムに隠された手がかりとして、「ホワイト・アルバム」のトラック「レボリューション9」を逆再生すると「Turn me on, dead man(私を興奮させて、死んだ男)」と聞こえるというものが含まれていた。

噂の拡散とメディアの反応

10月10日、ビートルズの広報担当デレク・テイラーは「ポール・マッカートニーが死んだという報道について多くの問い合わせが来ている」と述べた。これに対し、ポール・マッカートニーはスコットランドの農場で家族とともに過ごしており、メディアの取材を受けてこの噂を否定した。

さらに広がる噂

10月12日、デトロイトのラジオ局WKNR-FMに電話をかけたリスナーが、この噂と手がかりについて話した。これを受けて、ミシガン大学の学生フレッド・ラボアが「マッカートニーが死んだ」という見出しの記事を「ミシガン・デイリー」に掲載した。この記事は、アビー・ロードのジャケット写真を含むビートルズのアルバムカバーに隠された手がかりを示唆していた。

メディアと公の反応

ビートルズの広報事務所はこの噂を否定し続けたが、ポール・マッカートニーが公の場に現れないことが噂の拡散を助長した。ラジオ局WMCAとWABCはこの噂を取り上げ、特にWABCのロビー・ヨンジは噂を一時間以上にわたってオンエアで議論した。

ポール・マッカートニーの反応

10月24日、BBCラジオの記者クリス・ドレイクがポール・マッカートニーにインタビューを行い、彼がまだ生きていることを確認した。このインタビューはBBCラジオ4で放送され、その後アメリカのWMCAでも放送された。ポール・マッカートニーは「この噂は馬鹿げている」と述べ、家族とともに静かな生活を送っていることを強調した。

伝説の影響とその後

1969年11月、キャピトル・レコードの販売マネージャーは、この噂がビートルズのアルバムの売り上げに大きく貢献していると報告した。特に「アビー・ロード」はアメリカで過去のアルバムを上回る売り上げを記録した。噂を題材にしたテレビスペシャル「ポール・マッカートニー:完全な物語、初めてそして最後の語り」が放送され、これにより噂はさらに広まった。

まとめ

「ポールは死んだ」という陰謀論は、ビートルズのファンやメディアに大きな影響を与えた。この噂は、アルバムカバーや歌詞に隠された手がかりを探す楽しさから始まり、多くの人々がこの都市伝説に興味を持った。ポール・マッカートニー自身も、この噂をジョークとして取り上げ、自身のアルバム「ポール・イズ・ライブ」でパロディ化した。この都市伝説は、現在でも多くの人々の間で語り継がれている。

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