【SS】間違った自分からの、逃走(失敗)
俺こと尾張田猛は、大学の夏季休暇を利用して、栃木県にある鬼怒川温泉を満喫していた。
昨日はチェックインを済ませた後に古い温泉街を巡り、温泉と豪華な夕食を楽しんだ。今は旅館の客室にある謎のスペースに備え付けられた椅子に座り、昇る朝日を眺めながら、コーヒーを味わっている。
「これこそ、最高の休日だよなぁ」
急に思い立って実行した旅行だったが、正解だったと思う。
青々と木々が茂る山々と、ホテルのすぐそばを眺める鬼怒川が客室の窓越しから一望できるというシチュエーションは、都会では絶対に味わえないぜいたくだ。
今までは、自然豊かな場所がぜいたくだなんて思いもしなかった。
東京は毎日が楽しくて、飽きることも眠ることもない、夢のような場所だ。
けれど今回、空いていたからという理由でこの旅館に泊まり、考えを改めた。
確かに、自然には都会と違う魅力がある。興奮させるのではなく、心を落ち着けてくれる、そんな魅力が。
「こんなに落ち着いたのは、いつぶりだっけなぁ」
ここに来る前はとても焦っていたし、逃げていた。
毎日楽しかったし、刺激的だった。けど、どこか急かされていたような気もする。
ここには、急かすもの全てが存在しない、楽園だ。荒れた心すら癒やし、力を与えてくれる。
今なら、なんでもできそうだ。
遊びすぎて落としまくってしまった単位も、大きなミスをやらかしてバックれたバイトも、この大自然に比べれば小さな問題で、なんとかなる気がしてくる。
それに、彼女だってーー。
コンコン。
思考を遮るように、ノックの音が響く。
なんだろう、朝食の時間か?
「はーい」
俺は何も考えずに扉を開け、
「おはよう、浮気者」
「どうも、裏切り者の猛さん」
閉めた。鍵も掛けた。
「な、なんで、なんであいつらがここに、周松奏と乙須芙庭がここにいるんだ?」
扉がドンドンと力強く叩かれる。しかもふたり分。
「おらぁ猛!さっさと説明しなさい!逃げるんじゃないわよ!出てこい!」
「私とこの人!どっちが本命だったんですか!?本当のことを教えてください!さっさと吐かんかいワレェ!」
「つーか何浮気がバレたからって逃げてるの!開けろ!あーけーろー!」
「開けたら殴るじゃねぇかお前ら」
「「当然(ですわ)!」」
お、おかしい。浮気がバレたからここに、見ず知らずの土地まで逃げてきたのに、どうしてここがバレたんだ?
「あんたが!のんきにインスタに旅行写真あげてるからよっ!バーカバーカ!」
そう言えば、そうだった。
俺は過去の自分の愚かさを呪いながら急ぎ玄関から離れる。
そして部屋の中で隠れられる場所を探し、唯一鍵のかかるバスルームへと入り、内側から鍵をかけた。
「あっ」
入ってから、飲みかけのコーヒーを持ったままだったことに気づく。ここで飲むのは心理的に嫌だが、置きに戻るのは、もっと怖いなぁ。
相変わらず扉は叩かれ、ドアノブはガチャガチャと回される音が断続的に響いてくる。
この旅館は古い。扉も相当年季が入っていた。たぶん、このままだとふたりの侵入を許してしまうだろう。
そして当然のことだが、客室に正面扉以外の出入り口は、ない。
この後、俺は殴られるのだろうか。それともお説教?
いずれにせよ、楽しくない時間になることは確定している。
俺はバスタブに腰を下ろすと、廊下から聞こえてくる怒号や悲鳴、ミシミシと音を立てる扉の音を聞きながら、最後の平穏を味わうように、飲みかけのコーヒーに口をつけるのであった。