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【短編小説】この美しいニセモノの世界で
幻の月が、ボクの仮初の身体を照らす。
作り物の桜は月の光を反射し、鮮やかなサクラピンクの花びらを粉雪のように舞い踊らせていた。
幻想的とも、風雅とでも言えそうな美しい世界の中、ボクの心は別のことに囚われていた。
楽しいこと、ではない。むしろにがくて苦しくて、直視なんかしたくないものだ。
直視したくないのに、目の前の現実はボクの思考を支配し続ける。ボクは抵抗することもできず、現実から吹き込む湿り気を帯びた冷たい風に、心の熱を奪われ続けていた。
現実から逃げるために、この寒さから逃れるために、静かで、柔らかな美しさに包まれた仮初の世界へ逃げ込んだ。
だけど心は冷たいまま、ただ、凍えることしかできない。
この冷たさの原因を、ボクは知っている。だけど、ボクにはどうすることもできない。
正しい答えなんてどこにもなくて、ボクにできることは何もない。
だけど、それでもと、思ってしまう。
意味のない、ただの自己満足だけど。
いたずらにあの人を傷つけるだけの、最低の行為、かもしれないけど。
やりたいことが、ひとつだけ、ある。
「だってボクは、あの人に、たくさんのものをもらったから」
右の手のひらを見る。
作り物でまがい物なニセモノの手に、ニセモノの花びらが舞い降り、手のひらをすり抜けた。
この世界は美しい。だけど、本物はどこにもない。
全てがニセモノの世界。それでもーー。
「ダイフクさんと過ごした日々は、確かに、本物だったから」
ボクは右手を握りしめる。
そして、かすかに残る胸の熱に突き動かされるように、あの日からの記憶を掘り起こしたーー。
〇 〇 〇 〇 〇
その日もボクは、今日と同じ月を見ていた。
仕事で深夜近くに帰宅したボクは、一刻も早くこの現実世界から逃れるために、服も着替えずにVRアプリ『VRChat』を起動した。
数年前に無料公開されたこのソフトは、頭部に大きな視覚デバイスを被り、両手にコントローラーを装着して遊ぶ、最新のバーチャル・リアリティを体験できるゲームだ。
自分の分身となる『アバター』と視覚を共有しつつ、ログインをしているフレンドとワールドと呼ばれる様々なフィールドでゲームをしたり景色を眺めたりと、誰かと一緒に遊ぶことを、まだ見ぬ誰かと出会うことを想定して作られたソーシャル・ゲームである。
だけどボクは、ここでフレンドと遊ぶようなことはしていない。そもそもフレンドを作っていなかった。
ボクにとってのこの世界は、誰の目を気にすることなく、自由に、自分の好きなものを好きなだけ摂取できる理想郷であって、友達を作るための場ではない。
「他人なんて怖くて、できるだけ近づきたくないから、ね」
何を考えているのかわからなくて、正しさも間違いも人によって異なるという難解な仕様は、誰かと親しくなることを難しいものにしている。
少なくともボクにとって、そう思うくらいには誰かを怒らせてばかりの、二十数年だった。
だから、ボクはひとりが好きだ。ボクがひとりでいるほうが仕事は上手くまわり、誰にも迷惑をかけることがない。
それはこの世界でも同じだ。ボクはひとりで世界を歩き、美しい世界を独り占めして過ごしていた。そこに、素敵な場所を占有する罪悪感も、ひとりぼっちの寂しさもない。
ただ、ひとりだからこそ得られる静かな自由と、嫌なことを忘れさせてくれる特別な時間、そして、時折感じる、胸を締め付ける不思議な感覚だけがあった。
その日は、仕事で嫌なことがあったから、落ち込んだ自分を慰めるために、いつものワールドでひとり、月を見上げていた。
ここは特にお気に入りだ。静かで、キレイで、ほどよく暗い。気持ちを落ち着けるには、とても良い場所だ。
月と桜を眺めていれば、嫌なことは胸の奥深くに沈み、またいつもの自分に戻れる。
いつもそんなことをしていたから、自分以外の誰かがこのワールドに入ってくることなんてなかったから、ボクは、今日も自分の感情と空に浮かぶ満月だけに気を取られてしまい、人が入ってきたことに、声をかけられるまで気づけなかった。
「こんばんわ。良い夜だね」
「ひぅあ!?」
聞こえるはずのない他人の声に、全身が飛び上がるほど驚いた。ついでに変な声も出た。
いつのまにか目の前に見知らぬ人物がいて、ボクに向かって手を振っていた。
ボクは両手を胸のあたりまで持ち上げた姿勢のまま首を左右に動かし、目の前の異常事態に困惑しながらも、必死で取り繕おうとした。
(ど、どどどうして!?フレンドじゃなくても入れる設定のまま、ワールドを開けちゃった?何やってんだよボクのバカ!ああ早くしゃべらないと変な人だって思われちゃう何て話しかければいいのどどどどうしよう!?)
声をかけてくれた人は、ボクからの返事がないことを、マイクの調子が悪いからだと思ったのだろう。「おーい」と声をかけつつ、ボクの目の前で手をひらひらと動かしていた。
は、はやく、早く何か言わなくちゃ!
コントローラーを持つ手のひらが汗でべたつく。心臓の音がうるさいくらいドキドキしていて、息も苦しい気がする。
で、でも。このまま黙っているのは、もっと怖い!
「こ、こんばんわ!」
ボクへの何度目かの声掛けに応えるように絞りだした声は、お尻が変に上がって、変な発音になっていた。
「はい、こんばんわ。マイクの調子でもおかしかった?」
「い、いえ。大丈夫、です……」
恥ずかしさで手が震える。目に熱いものがこみあげてくる。やらかしたぁ。恥ずかしい。このまま逃げてしまいたい。
唯一の救いは、今のボクの情けない顔が相手に見られていないことだ。コントローラーを触らなければ表情は変わらない。だから今、ボクのアバターはすまし顔のまま固まっているはずだ。いや、焦った時に色んなボタンを押したから、百面相をしていたかもしれない。
だけどその人は、ボクの変な動きなんて気にしていないそぶりで、話を続けてくれた。
「ここ、良い場所だね。静かで落ち着いていて、とてもキレイだ」
分かっていてスルーしてくれたんだろうか。それとも本当に気づかなかった?
どちらだとしても、今のボクには関係がない。大切なことは、聞かれたことに答えること。それ以外に気を回す余裕なんてない。だからボクは、つっかえるようにしながらも、返す言葉を絞りだす。
「は、はい。そうなんです。ぼ、ボクのお気に入りの、場所です」
会話を返せたことにほっと胸を撫でおろす。
ボクの返事をうなづきながら聞いたその人は、ボクから少しだけ離れると、ワールドのあちこちを興味深げに見渡した。
そこでようやく、ボクの意識はその人のアバターに向いた。
ピンク色の髪をツインテールにした、女性型のアバターだ。
身長は私と同じ130cmくらいで、白いジャケットに黒いノースリーブのワイシャツ、下にはチェーンのついた白のホットパンツに黒ブーツと、カッコよさを意識したようなファッションだった。
詳しくはないけど、ボクの使っている黒髪ロングヘアーで制服姿の女性アバターと比べると、かなり凝ったアバターだと思う。
声は女性だけど、本当の性別はどっちなんだろう?ボイチェンを使っている男性がいることをSNSで見たことがある。まあ、ボクには関係のないことだ。中身がどっちだったとしても、緊張することに変わりはない。
「君はいつも、ここにいるのかい?」
ワールドをひと通り眺め終えたのか、その人はルビーのように紅い瞳をボクへ向け、そう尋ねてきた。
「は、はい。気分が落ち込んだ時は、よく来ます」
そっかー、と頷いたその人は、ボクから目を離し、空に浮かぶ月を見た。
ボクとその人との間に、沈黙が流れる。
(この時間、苦手だなぁ)
その人からしてみれば、会話よりも風景を眺めることを優先しただけかもしれない。けれどボクは、会話に失敗したような気持ちになってしまうのだ。
気の利いた返事ができなかったような気がして、だからと言って何て話しかけて良いのかわからない。怖い、沈黙。
どうすれば良いのかがわからず、困り果てたボクは、月を眺めるその人を見つめながら、相変わらず腕を中途半端に持ち上げた状態で固まったまま、周囲をきょろきょろと見回した。
思考は身体よりもせわしなく動くけど、どうでも良い質問ばかり浮かんで、全く役に立たない。ただ、黙っていることしかできない。
自分への嫌悪のような恥ずかしさのような、よくわからない感情で喉が締め付けられる。
どのくらいたっただろう。自分の感覚では数十分だが、たぶん、数分も経っていないと思う。
その人は再び、視線をボクへと移した。
紅い瞳が、月を見ていた時のように、輝いていた。
「ねぇ、良ければ、君のおすすめのワールドに連れて行ってくれない?」
「へぇぁい!?ど、どうして?」
「こんなに素敵なワールドを知ってるなら、ほかにも素敵な場所を知っているかなって」
「で、でもーー」
「あ、もしかして用事があった?それなら無理強いはしないけど」
この提案は、お誘いなのだろうか。それとも、お世辞?
人付き合いが苦手で、仮想世界でもほとんど交流をしてこなかったボクには、投げかけられた言葉の真意がまるでわからない。
それにボクは、望んでひとりでいる身だ。本来なら遠慮するべき場面だというのは、よくわかっている。
だけどーー
「えっと、その...…」
その日はいつもよりも疲れていて、何時もの静寂が寂しく感じてしまった。もしかしたら、久しぶりの交流がうれしくて、自分が必要とされた気がして、少し舞い上がっていたのかもしれない。
だから、思わず、
「ぼ、ボクで良ければ……」
そんな、普段なら言わないことを、言ってしまった。
ボクの言葉を聞いたその人は口角を上げると、ボクへ手を伸ばす。
「ありがとう。私はダイフク、よろしくね」
「あっ、えっと、イザヨイ、です」
これが、ボクをひとりの夜から連れ出してくれたダイフクさんとの、出会いである。
〇 〇 〇 〇 〇
「ダイフクさん、こんばんわ」
「おっ、イザヨイさんこんばんわ」
その日から、ボクはダイフクさんと遊ぶようになった。
遊ぶ、といっても実際にゲームで遊べるワールドに行くことは、それほど多くない。
普段はダイフクさんが滞在しているワールドにお邪魔して、お互いにおすすめのワールドを案内するか、他愛もない話をするだけ。
そして時折、VRChat内で大規模なイベントが開催された日は、一緒に観光へと向かう。
今までと違うことと言えば、ひとりじゃないこと。
今日も清々しいほどの青空が広がるワールドで、ダイフクさんと一緒に過ごしていた。
昔の自分が見たら驚くだろうか。だけど、ダイフクさんのそばは、それだけ心地が良い場所だった。
それに、ダイフクさん経由ではあるが、新しい友達も増えた。
今日もその人は、ボクとダイフクさんのじゃれ合いを眺めながら、のんびりとした口調で話しかけてくれた。
「イザヨイちゃんって、ほんとダイフクにべったりだよね〜」
「ん?ニコミは羨ましい?」
「いや全く」
「ご、ご迷惑でしたか?」
「まさか。いつでも遊びに来ていいよ」
「オレにも懐いていいんだよ〜」
「べ、別に避けてるわけではないのですが、その」
「あ~。まぁ俺ってばイベントに行ってること多いからね〜。人の多いインスタンスは苦手?」
「し、知らない人がいっぱいだと、少し。で、でも!がんばりますっ」
「……ダイフク、この健気っ子ちょーだ~い?」
「絶対に渡さないよ?」
金色に輝くポニーテールに、左足だけ太ももが丸見えになるまで丈を詰めたジーンズ。そして変な言葉が書かれたTシャツを着ている、お姉さんアバターなニコミさんは、ダイフクさんと長い付き合いらしい。
今も、男性の声でダイフクさんと軽口を叩いている。
その仲の良さに、自分がモヤッとした感情を抱えてしまうあたり、だいぶダイフクさんに依存しているみたいだ。
そういえば、ダイフクさんがボクのことをニコミさんに紹介する時、友人と言ってくれたことがうれしくて、つい、頬が緩んでしまったっけ。
……なんか、人間としての強度が下がったような気になってしまう。
「ん?どうしたのイザヨイさん。変な顔してるけど」
「あ~、オレの美貌に嫉妬しちゃった~」
「いえ違います」
「あ~ん、素で否定された」
「あっ!きれいじゃないって訳ではなくてっ」
「わかってるって〜。いや〜いい反応するね〜ホント」
アメジストのように紫色に輝く瞳を細めて笑いかけるニコミさんに振り回されながら、ボクは自分の両手を頰に当てた。
今、考えていたことを話すのは、少し、いやとても、子供っぽくて嫌だなぁ。
ボクは話題をそらすために、SNSで見かけた話題について、ふたりに聞いてみることにした。
「そ、そういえば最近、気になることがあって!タイムラインに流れてきたんですが、『お砂糖』ってなんですか?」
「「あ~〜」」
ふたりとも、苦々しい反応をしている。「知ってしまったかぁ」という顔だ。
え、どうしよう。話題を間違えたかな?
「そうだよね〜。イザヨイさんは初心者、ではないけど交友関係狭いから、知らなくて当然か~」
「独自の文化だしね。隠語じみてるけど」
「えっと、あんまりよろしくない行為ってことですか?」
「いやいや〜そんなんじゃないよ。え〜っとねー」
ニコミさんが困ったような顔をしながら説明をしてくれる。
「お砂糖」とは、VR内での甘い関係、つまりはまぁ、恋人のような関係を指す言葉らしい。
その意味を聞いて、いくつか疑問が湧き上がった。
「VRChatで遊んでる女の子は少ないって、前に言ってなかったでしたっけ」
「何言ってるのイザヨイちゃ〜ん。中身なんて関係ないよ〜。俺たちアバターよ?性別なんて超越してるって~」
「実際、男同士でお砂糖関係になることもあるみたいだしね」
「じゃあ、普通に恋人って言わないのは?」
「VRだけ、ネットだけの関係だからね〜。恋人ではないって判定なんじゃない?」
「現実じゃ結婚していたり子育てしている人もいるからね。リアルと区別するためにできたのかも」
一瞬、浮気ではと思ったけど、すぐに考えを改めた。
だって、恋している相手は、顔も名前もわからない誰かだ。
顔はアバターで、名前もこの世界だけのもの。偽りでしかない世界の「特別」を、現実のそれと同列に語るのは、何かこう、違う気がする。
でも、偽りの世界だとしても、誰かの特別になりたいという気持ちに、共感する自分もいる。
ボクだって、ニセモノの世界に入り浸っているし、顔も名前も知らない人と友達になってもいる。友達の言葉に含まれる嘘と真実の量は分からないけど、大切な関係だと、思っている。
多分、お砂糖という関係は、今のボクの気持ちと、本質の部分では変わらないのだろう。
でもーー。
「ボクはお砂糖なんかよりも、この瞬間がずっと続けば、充分かな」
好きな人と一緒になる、それは素敵なことだと思う。だけど今のボクにとって、こうして集まってお話しをしているだけで楽しいし、これ以上に求めるものがない。
そう考えて、またボクは自分が変わってしまったことを自覚した。
望んでひとりになっていた頃が、遠い昔のように感じてしまう。
悪い気は、しない。しないけど、自分の意思の軽さに乾いた笑いが出そうだ。
「おふたりは、お砂糖についてどう思っているんですか?」
ふと、気になった。ふたりがどう思っているのか。
「いれば楽しいとは思うけど、積極的に求める気はないかな」
「右に同じく〜。というか、こういうのは人ありだからね〜。良い人がいなきゃ始まんないよ」
「おや?フられた人がなにか言ってるね」
「お、喧嘩か?デスゲームやるか~」
「勝った人が助からない奴じゃんそれ」
他愛のない話を聞いて、たまに会話に混ざって、一緒の時間を過ごす。
ここにはボクの苦手な沈黙もなければ、好きだった静寂もない。
そんな、ほどほどに賑やかで退屈しない時間が、たまらなく楽しかった。
だけど、どんなに素敵な関係でも、永遠に続く保障なんてどこにもない。
そのことを思い知ったのは、この日から少し経った後のことだ。
〇 〇 〇 〇 〇
きっかけは、ダイフクさんにお砂糖相手ができたことだった。
「お〜!相手は誰?」
「ん〜、最近できたバニーのイベントでキャストやってる人だよ。別のイベントで一緒になって、ね」
「あ~、あの人ね。そっか〜。ところで、すごいでれでれした声になってるね、気持ち悪いぞ?」
「気持ち悪い声ってなにさ」
「し、幸せな時はそういうとき、ありますよねっ!」
「えっ?イザヨイさんもそっち側なの!?」
「ちっ、違くてっ!」
最初は、ニコミさんとふたりで祝福した。
少しだけ胸が締め付けられたけど、ダイフクさんがいなくなるわけじゃないと、じゅくじゅくとした感情は飲み込むことにした。
お砂糖さんはイベント以外では人前に顔を出さないみたいで、ボクがその人と会ってお話をすることはなかった。
だけど、ダイフクさんはとても楽しそうな顔をしているから、たぶん、素敵な人なんだと思う。
まぁ、ちょっと嫉妬深いのが玉にキズだけどね。と、ダイフクさんが笑いながら言っていた。
その時はみんなで笑って流したけど、嫉妬は、ボクたちの想像以上に重いものだった。
その事実に気がついた時には、ダイフクさんはーー。
「ごめんね。あっちがインしている時にフレンドと一緒にいるとヘソ曲げちゃって。基本はお相手と一緒にいることにするよ」
少しずつーー。
「ほんっとごめん。さっきからこっちに来いって圧がすごいから行ってくる」
ボクたちからーー。
「……ごめん。しばらく遊べそうにない。ほんとごめん」
ーー離れていった。
お砂糖相手ができてひと月もする頃には、ダイフクさんの姿をVRChatで見かけることが、なくなった。
ログインはしている。だけど、その時間のほとんどはお砂糖さんとの時間に割かれてしまい、ボクはもう、しばらく会えていない。
それは、ニコミさんも同じだった。
「も~、あいつも独占欲ツヨツヨなのに惚れられたもんだね~」
居酒屋を模したワールドで、ニコミさんはカウンター席に座りながら、軽い調子でお酒を飲んでいた。
この世界で飲んだり食べたりしても、現実のボクらにはなんの影響もない。だけど、手持ち無沙汰だとつい、手を伸ばしてしまう。
だからボクもニコミさんの隣に座り、目の前にあるナッツへと手を伸ばした。
「最近、ダイフクさんとぜんぜん遊べないですね」
「お相手が来たらそっちにかかりっきりだしね〜。いないときの行動も監視されてるみたいだし、バレたらめんどくさいんじゃないの~?」
最近は、イベントにも参加していないらしい。
一度だけ、ダイフクさんが参加しているイベントへ、ボクも勇気を出して向かったことがある。
たくさんの知らない人たちがひしめき合う中、ダイフクさんは高身長の男性アバターの隣でじっとしていた。
あの人が、ダイフクさんのお砂糖相手、なのだろう。
黒い髪に黒い上下の、全身真っ黒な人だった。
その人はダイフクさんのそばを離れずに、イベントの主催者らしき人と話していた。
ダイフクさんの様子は、わからなかった。顔は見れなかったし、遠すぎて声も聞こえなかった。普段と違って露出の多い衣装を着ていたのは、相手の趣味、なのだろうか。
その時はダイフクさんたちがすぐに帰ってしまったけど、同じように、イベントが始まってすぐのタイミングで、顔を出すことが何度かあったらしい。
もっとも、今はお砂糖さんとふたりでばかりいるらしく、ほとんど表に出てこない。というのがニコミさんの愚痴だ。
「ここまで会えないと、さすがに寂しいですね」
嘘だ。会えなくなった日から、寂しさはずっと消えていない。
むしろ会えない日が長くなるほど、心を凍てつかせる感情はどんどん強くなっている。いつか、ボクの心が耐えきれなくなって、壊れてしまうのではないかと、錯覚するほどに。
もしくは、この気持ちすら感じられなくなるのではないか。いないことが日常になって、楽しかった日々が霧のように消えてしまうのではないかという、ありもしない「もしも」を想像して、背筋を震わせてしまう。
おかしな話だ。昔はひとりでいることが当たり前だったのに、今はもう、この世界でひとりに戻ることが、ひどく、怖い。
けど、ダイフクさんは今、幸せなのだ。なら、良いのだと思う。仕方がないのだと、思う。
ボクがこの感情を抱えるだけであの人が幸せになれるなら、何も問題はない。
だって、苦しいのはボクひとりだけなのだから。
だけど、ニコミさんはボクと違うことを考えていた。
「あいつ、このゲーム辞めるかもなぁ」
「……え?」
辞める?誰が?……なんで?
ボクは灰色の目を大きく見開き、恐ろしいことを口にしたニコミさんを見つめる。
ニコミさんは手にしたビールジョッキを見つめながら、言葉を続けた。
いつもののんびりとした調子は、どこにもなかった。
「最初は楽しかっただろうね。けど、最後に見たあいつは、楽しそうだった?」
「で、でも、恋人同士ですから。ある程度行動を縛られるのは、仕方ないじゃ、ない、ですか」
「これはやり過ぎだよ。友達と遊ぶのも制限されて、何を楽しめるんだろう」
「い!いやなら別れちゃえば!別れた後なら、またいつものように、遊べるじゃ、ないですか」
「そう簡単に戻れる?束縛強い人と別れるのは大変だよ?それに、別れられたとしても、逆恨みで身に覚えのない悪口をばらまかれちゃったら、もうここにはいられない」
「そ、そこまでしますか?それに、ダイフクさんは友達もいっぱいいるから……大丈夫、でしょ?」
「実例があるからねぇ。それに、そういったことが起こって一番気に病むのはダイフクだ。自分じゃなくて、周りに迷惑をかけたからって、ね」
「そんな……」
「ごめんね、ひどいこと言っているよね。でも、こういうことが起こっているのも事実だから、さ」
ニコミさんの言葉には、予想だけとは思えない、重さのようなものがあった。
だからボクも、何も言い返せずに、黙ることしかできない。
嫌いな沈黙が、ボクとニコミさんとの間に入り込む。
それが嫌で、ボクは思っていた疑問を、ぽつりとつぶやいた。
「どうして、こんなことになったんだろう」
ただ、特定の誰かとお砂糖になっただけ。
人と人が愛し合ったことが、ひとつの世界を終わらせるかもしれないなんて、バカげてる。
ボクがこぼした疑問に、ニコミさんは何も答えない。ただ、お酒を煽る。
酔うことなんてできやしないのに、そうしないとやっていられないかのように飲んでいた。
そしてニコミさんは、空になったジョッキを見つめながら、つぶやく。
「この世界、よくも悪くもコミュニティありきだからね。あいつが作ったコミュニティがなくなれば、いや、居心地が悪くなるだけで、消える理由には十分なんだよ」
コミュニティも評判も、自分には関係のない話だと思っていた。
ボクのフレンドは数えるくらいしかいなくて、コミュニティなんてものも持っていない。
それこそ、ここにいるニコミさんとダイフクさんのそばだけが、自分の居場所だった。
それが今、自分と関係のないところで、自分と関係のない理由で、終ろうとしている。
「ま、あれだ」
ニコミさんは立ち上がると、うつむいているボクの頭をなでた。
「もしダイフクがいなくなったら、俺たちのとこに遊びに来な。うるさいのがいっぱいいるけど、悪いやつらじゃないから」
「それはーー」
ダイフクさんを、見捨てるってこと?
口から出かかった言葉を、ぐっと飲み込む。
ニコミさんの提案は、ボクを思ってのことだと、理解できる。
本当ならこんな場所でボクとふたりっきりになる必要はなくて、ボクを自分のコミュニティに引っ張っていけば良いだけなんだ。だけど今、こうしてボクのために時間を作って、たったひとりでボクの相手をしてくれている。
ダイフクさんしか友達のいないボクのために、フレンドとの時間を削って、こうして一緒にいてくれる。
だけど、だけど。
ボクは顔を上げ、ニコミさんの紫色の瞳を見つめた。
「ダイフクさんはもう、どうしようもない、のかなぁ」
ボクのひとりごとじみた疑問に、ニコミさんの顔が曇る。
「それは、あいつが決めることだよ」
優しいはずのニコミさんの言葉に、どうしても、氷のような冷たさを感じてしまった。
〇 〇 〇 〇 〇
だからボクは今、ここにいる。
この明けない夜と枯れない桜のある場所で、ぼんやりと、仮想の月と桜を眺めながら、どうするべきか、考えていた。
「どうすれば、いいんだろう」
これはきっと、答えのない問いだ。
どれも正解で、どれも間違っている。
ニコミさんのいう通り、誰にもできることなんてない。
これはダイフクさんとお砂糖相手との問題で、その関係がどうなっても、結果としてダイフクさんが他人からどういう感情を向けられることになっても、ボクは口を出す権利を持っていない。
そもそも、ボクが動いて事態が好転するはずがないんだ。
いつも、余計なことばかりしてきた。
いつも、迷惑ばかりかけてきた。
そんなボクが何かしたところで、迷惑にしかならない。
ボクは右手のコントローラーを操作してメニューを開くと、ダイフクさんを探した。
今日も、ダイフクさんはログインをしている。だけど、ダイフクさんに会うことは、できない。
ダイフクさんからの拒絶を示す、赤いマーク。それを見るだけで、足がすくんでしまう。
いや、違う色だったとしても、お砂糖相手との間に入り込む勇気なんてないし、まして話したこともない相手と対面するなんて、考えただけで胃が締め付けられるように痛む。
ニコミさんの言う通り、これは仕方のないことなのだろう。
この仮想世界ではよくあることで、ボクはただ、昔の自分に戻るだけで良い。
ただ、それだけなのにーー。
「どうして、こんなに苦しいんだろう」
どうして、世界がこんなにも色あせて見えるのだろう。
幻想の月も作り物の桜も、以前から何ひとつ変わっていないのに、どうしてくすんで見えてしまうのだろうか。
答えは最初からわかっている。ただ、認められないだけ。
でも、だから。
ちゃんと口に出して、直視しないといけないんだ。
ボクは震えそうになる声のまま、分かりきっていた事実を、口にした。
「ダイフクさんと遊んだ毎日が、それだけ、楽しかったんだ」
あの日、ダイフクさんがボクを夜から連れ出してくれた時から、世界は変わった。
怖がりなボクの手を引いて、ひとりでは知ることのできない楽しさを、たくさん、教えてくれた。
あの日の月は、いつもよりも大きく、暖かな光に溢れていた。
あの日の桜吹雪は、僕ら2人を祝福するように、華やいで見えた。
あの日見た景色と比べてしまえば、どこまで風雅で美しい世界も、どこか色あせて見えてしまう。
ああ、ようやく気づいた。気づいてしまった。
ボクはもう、ひとりでは生きていけないくらい、あの人からいろんなものをもらったんだ。
ボクはもう、あの日の夜に戻れないくらい、どうしようもないほどに、ダイフクさんとの日々が楽しかったんだ。
だからこそ、気になる。
今、ボクを照らしてくれた人は、どんな世界を見ているのだろう。
陽だまりの中を楽しく歩いているのだろうか。
それとも、ニコミさんの言う通り、月も見えない暗闇の中を、もがいているのだろうか。
今のボクには、ダイフクさんの気持ちも、置かれている状況もわからない。知っていても、できることなんて、ない。
けれど、もし、ダイフクさんが苦しんでいるならーー。
「ボクにできることが、何か、ないかな」
ダイフクさんは、ボクを孤独な夜から連れ出してくれた人だ。
ダイフクさんは、ボクの友達になってくれた人だ。
ボクは、初めての友達に、笑っていてほしい。
だけど、ボクは何もできない。何も持っていない。
口が回らなければ、人脈なんていう大それたものも持っていない。
解決策を出すことも、状況を確認することも、そもそもダイフクさんの今の気持ちも、わからない。
……それでも、ダイフクさんにボクの気持ちを伝えることは、できる。
必要なものは、ただ、勇気を振り絞るだけ。
ボクは目を閉じると、何度か深呼吸をした。
「よ、よっし!」
気合の掛け声と共に灰色の目を開く。
震える手でコントローラーを操作すれば、空中に仮想ディスプレイが表示された。
そこからブラウザを立ち上げ、とあるSNSへアクセスする。
それは、何の変哲もないSNSだ。
仮想なんて関係ない、ネット上に普通に存在する、SNSだ。
フォロワーなんて一桁しかいない、ほとんど使っていないサービス。
だけど、そこには確かに、ダイフクさんとのつながりが、まだ残っている。
ダイフクさんのアカウントも、最近は動いていない。だけど、アカウントを消していないなら、連絡をとることはできる、はずだ。
手紙のアイコンを選択して、入力フォームを開く。
コントローラーを置いてキーボードに触れる。
手汗で気持ち悪い。心臓の鼓動がうるさいくらい耳に響いて、視界がぐるぐると回る。けど、書かないと、伝えないといけないんだ。
キーボードを叩いてメッセージを書く。そして消す。もう一度書いて、また消してを繰り返す。
そうしてできあがったメッセージも何度も読み返し、深呼吸。
最後にもう一度だけ気合を入れて、一通のメッセージを送った。
文面はお砂糖との別れを促すのでも、会えないことを責めるでも、状況を聞くのとも違う。
ただ、ボクの今の気持ち。
ボクがダイフクさんと遊べないでいた、この数週間の、偽りない気持ち。
『ひとりは、寂しいですね。ダイフクさんは今、何をしていますか?元気、ですか?また、お時間ができたら、一緒に遊びたいです』
たくさん言いたいことがあった。聞きたいこともいっぱいあった。
だけど今、自分の中から出る言葉は、これしかなかった。
たくさん悩んで出た言葉がこれだけなのかと、もっと上手い言い方があったんじゃないかと、送ってから自己嫌悪に陥る。けど、伝えたい言葉は、これしか思いつかなかった。
ボクは仮想ディスプレイを閉じると、もう一度、月を見た。
相変わらず、色あせて見えてしまう、かつてのボクを支えてくれた風景。
だけど今、ボクがほしいのはこの光景じゃない。
ボクが見たいのは、ダイフクさんと一緒にみる景色だ。
だからーー。
「……ボクも、変わらないといけないんだよね。ダイフクさんに、恥ずかしくないように」
静かにつぶやき、視覚デバイスの電源に手を伸ばす。
次にこのワールドを訪れるときは、ダイフクさんと一緒に来ることを願って、ボクは仮想世界から現実へと帰還した。
ーーSNSからの通知に気がついたのは、数時間後、早朝のことだった。
〇 〇 〇 〇 〇
ダイフクさんにメッセージを送ってから数日後。ボクはまたひとり、ワールドを散策していた。
昔と変わらず夜のワールドにいるけど、今日はいつもとは違う場所だ。
空には花火が打ちあがり、祭りばやしのようなBGMが流れている。
「こういうワールドには、あまり来なかったなぁ」
いつもの場所は暗いから忘れそうになっていたけど、現代の夜は、明るい。
街灯と電飾によって明るく彩られた、煌びやかな世界だ。
ボクはその事実を噛みしめるように、周囲の景色を眺める。
しばらくすると、ポンッ、と、誰かがワールドへ入室した音が聞こえた。
驚きはしない、大丈夫。今回はきちんとフレンドしか入れない設定だ。
音のする方へ目線を動かせば、あの日と同じ人物が立っていた。
ピンク色の髪をツインテールにした、女性型のアバター。
身長は私と同じ130cmくらいで、白いパーカーに黒いノースリーブのワイシャツ、下にはチェーンのついた白のホットパンツに黒いブーツ。
違うところを上げるとすれば、最近つけていた薬指の装飾を外したこと、だろうか。
ボクはあふれ出る感情が表に出ないよう、努めて平静に声をかけた。
「こんばんわ。良い夜、ですね」
「……うん、こんばんわ。君と会うのはいつも夜だね」
その人、ダイフクさんは紅い瞳を細めながら、困ったような顔で笑っていた。
だからボクも、笑顔で返すことにする。
「ええ。夜には素敵な人が迎えに来てくれるので」
ボクとダイフクさんとの間に、沈黙が流れた。
あれほど怖かった沈黙は、今日ばかりはその恐ろしい出で立ちも、脳裏を掠めるよこしまな想像も現れなかった。
ただ、大切な人が目の前にいる。それだけで、胸の中に温かな気持ちが溢れてくる。
少しだけ居心地が悪そうなダイフクさんが何を考えているのかは、わからない。
話したいことがあった。聞きたいことがあった。
だけど今は、このニセモノの世界でもう一度会えたことを、喜びたかった。
「ダイフクさん。いっぱいお話ししましょ。ボク、話したいことがいっぱいあるんです」
「うん。私もイザヨイさんに聞いてほしいことが、いっぱいあるんだ」
遠くから、祭りばやしが聞こえる。
身体も、名前も、世界すらもニセモノなボクたち。
だけど、胸に溢れるこの気持ちは、本物だと信じている。