小さじ一杯の協調性

電車に揺られる中でふと考えたことがある

私のそばでは若い男が恋人と話をしている

「明日のランチはどうしようか?」

「ランチまでにお腹が空かなかったらどうしよう?」

「そんなことはないよ」

こんな具合に微笑ましいような会話をしている

一方の中年の男性はロックを聞きながら貧乏ゆすりをしている

仕事帰りだろうか。若い女性はスーツに身を包みうたたねをしている。

同じ電車に乗っているという共通点だけを除けば、全く接点のない一車両の光景だ。

至って自然な光景である。

例えるならば、大きな鍋に好きな具材を持ち寄り煮込んでいるような感じだ。

当然、好きなものしか持ち寄らないから味の保証はできない。

それもそうだ。ロックを聞く人、彼女と話している人、疲れている人なら好みは変わる。

そこに協調性という少しの、ほんの少しのスパイスを加えたらどうだろう?

マナーであったり、譲り合う心が少し生まれる。

しかし、少しでありすべてが美しいわけではない。

それが世の中である。

ある時友人は言った。

こんな風に赤の他人とのすれ違いを勉強法で話していた。

基本的には中学校までは義務教育で全員が同じ授業を受ける。

得意、不得意であってもやることが義務付けられている。

当たり前に考えているが、これはすごいことではないかと。

なぜ数学が苦手ない人と、数学が大好きな人が同じ授業を受け、同じ時間を共有しているのかと。

友人は言った。

「それなのに協調性を持てとか、個性を伸ばせという。それよりももっと大事なことがあるのではないかと」

当たり前の日々に終止符を打つような疑問提起だと感じた。

この話を聞いたからって、自分の生活が変わるかけではない。

ただ、毎日の過ごし方が変わる気がする。

別に同じ電車に乗ったり、好きな食べ物が一緒だったりしても言葉も交わさずに微笑むくらいでそれ以上はない。

ただ、感謝の気持ちを持つこともできるし、得意な部分を伸ばし、苦手なものを克服できるかもしれない。

言葉に表すのが難しいが、日々の過ごし方をもう一度考えようと思う。

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