【心理学・精神医学】なぜ誰にも愛されないのか

序文

 私たちは友人から愛されることを渇望する。恋人から愛されることを渇望する。実の親から愛されることを渇望する。しかし、そのどれにも満足することはない。
 確かに人から愛されることによって精神的な満足を得る人はいる。ただ、そのような人はごく少数であって、私を含めた多くの人たちは他者の些細な仕草をあげつらっては彼女(彼)は自分を愛してくれなかったといって嘆く。
 私たちは人から愛されなかったと嘆くとき、自分がまったく三歳児になっていることに気づけていない。私が三歳児のよう・・という言葉を用いないのには理由がある。つまりそうように嘆くことは、比喩ではなく実際に三歳児にまで精神状態が後退していると考えているからだ。
 私たちは気まぐれで人を愛し、愛され、そして関係を終わらせる。
 この絶え間ない関係構築と関係破壊の螺旋は、自分の精神が成熟するまで繰り返される。しかし、その事実に多くの人は気づかず、気の合う人が見つかったとか、いい人と出会えたとか言って真実から目を背ける。
 フロイトは、「罪を犯すかもしれないという恐怖を格納するために罪を犯す人がいる」と言った。
 私たちは、人と別れるかもしれないという恐怖を格納するために、人と別れるのかも知れない。
 私を含めた現代人の多くは、人との出会いをショーケースに陳列されたケーキでも選ぶように、選ぶ。そしてある時を境に幻滅し、幻滅してはその人が悪いといって責めさいなむ。それはちょうど加入した保険の制度が悪いといってその保険を辞めてしまうかのようだ。私たちにとって人との関係とはもはや交換可能な商品にすぎないというわけだ。
 資本主義は、交換できないものを交換可能にすることを是認している。いいや、推奨さえしている。本来、人は交換不可能だが、それを人材といって交換可能にする。本来、土地は交換不可能だが、それを交換可能な権利にする。本来、命は交換不可能だが、それをケースに陳列して値札をつけて交換可能にする。私は資本主義を批判しているのではない。むしろ私は資本主義を完成された連続する交換の制度と理解しているつもりだ。資本主義が私たちの生活を豊かにしたことはほとんど疑う余地もない。
 しかし、どうだろう、私たちは物質的に恵まれる一方、内的な活動はひどく傲慢で貧困なものになってはいないか。そしてその内的な成熟に、人に愛され、人を愛する能力が関係してはいないか。私はその感を日増しに強くしている。
 さて、私はこれから「なぜ誰にも愛されないのか」という命題に取り掛かろうと思う。しかし卑近な恋愛心理学や男磨きに着地することだけはないと断言できる。だからそのような理論武装を期待する人はこの記事を閉じることをお勧めする。
 私たちは人との関係を切望する。たとえ人との関係に絶望していようとも、その絶望という感情こそ、人が人を求める強烈な欲求を反映していると私は確信している。


 2025年1月27日 
              岡本蓮




第一章〈なぜ人は他者の愛を必要とするのか?〉 

愛の必要性がなぜ生じるのか

 本題に切り込む前に、まず前提を述べなければならない。
 そもそもなぜ私たちは人からの愛を得る必要があるのかという前提だ。
 私たちは母親の胎内から出たあとも、実に長い年月を親の保護下に暮らす必要がある。それはとりもなおさず私たちがすべて生理学的な未熟児の状態で生まれてくるからに違いない[1]。
 私たちは、母親の産道から無事に出ていくには、あまりにもその頭部が大きすぎる。言うまでもなく私たちは動物の中で最大級の脳の容積を誇っているからに他ならない。この特徴のために、女性は生理学的な早産によって子供を出産する必要があった。鹿の子どもは大抵生まれてすぐに自力で立つことができる。これは捕食者から身を守るためだ。しかし私たち人間は生後七、八ヶ月でやっとハイハイができ、自力で立って歩けるようになるには大抵一年と半年の歳月を必要とする。さらに自力で立てた後も、成人の身体的・精神的発達を遂げるまでに約十六から十八年程度の月日を要する。これもすべて私たちがすべて未熟児の状態で生まれるという事実に起因している。
 さて、ここまで記述してはじめて、私たちはなぜ他者の愛を必要とするのかが見えてくる。
 つまり、この華奢で、頼りない生命として生まれてくる私たち人類は、十全に心身が育つまで、親などの大人の養育を必要とするからであり、その過程に愛し・愛されるという意味が生じてくるからだ。


依存を減じていく生涯

 マーラー[2]は、このことを、「人の一生は依存を減じていく生涯である」と記述した。
 確かに私たちの主要な感心ごとは、いかに家庭や社会から自立して生きるかという問題に集約されているように感じる。なぜ私たちは勉学に励むのか? なぜ私たちは体を鍛える必要があるのか? それらはすべて幼児期の依存状態から性的・身体的に成熟するために行われるのではないか。
 先ほど述べたマーラーは、分離・個体化という用語を用いて、そのことを強調した。マーラーによれば、人の発達は、

  1. 分化期(differentiation)(三〜八ヶ月)——子どもは、自己の身体像を母親の身体像から分化する。

  2. 練習期(practicing)(八〜十五ヶ月)——子どもは、自分のまわりの現実世界にある新しい機会を積極的に探索し、母親に頓着していないかのようにみえる。

  3. ラプロシュマン期(再接近期)(rapprochement)(十五〜二十二ヶ月)——練習がいまや完成し、子どもは自己の個体化へ母親が応答してくれることを新たに求めて、母親のもとにふたたび引き返してくる。

  4. 対象恒常性(object constancy)への道程(二十二〜三十六ヶ月+?ヶ月)

 であり、対象恒常性へ移行することによって真の自立した個人へと確立されるとしている。
 興味深いことに、このマーラーの発達段階を引用したマスターソン[3]は、この分離・個体化に失敗することでパーソナリティ障害が形成されるのではないかと仮説している。彼によれば、精神的な症候は、すべてこの分離・個体化の失敗という概念に統合されなければならない、という。彼はさらにパーソナリティ障害を抱える患者が親との分離・個体化に成功するにつれて症候が落ち着く様を克明に記録している。
 それらはすべていかに私たち人間の人生の目的が「依存を減じていくか」に集約するかを端的に表している。


子宮の中のエイリアン

 エレイン・モーガンは、母子間の関係はいかに進化したのかを論じた書籍で、母の胎内にいる胎児に対して、「エイリアン」という言葉を用いた。
 興味深いのは、胎児をエイリアンと呼称したことではなく、その言葉を用いた人物が女性であるという事実だ。
 女性自身からこの種の素直な感想が出てきたことに意味がある。私は古典的な人間であるから、性差を信じているし、男女の違いを確かなものと解している。われわれ(男性)が妊娠に対して共感••していると言えばそれはになる。われわれは体験しないことを理解できない。信仰のもっとも崇高な形は神秘主義だという。つまり頭では理解できても、それを神秘主義(体験)の領域ではとても理解することはできない。よって男性(わたし)にこの種の洞察を期待することはできない。
 さて、エイリアンという言葉から連想される言葉はなにか。「寄生」「侵略」「高等な生物」などであろうか。エイリアンが寄生と関連していることは映画やサブカルチャーの世界でひろく見られる。宇宙から飛来したエイリアンが人に卵を植え付けて「寄生」する。そしてそれには「侵略」がつきものだ。彼らは人に「寄生」し、「侵略」し、そしてより「高等な生物」として地上に降臨する。


マスターソンのパーソナリティ障害の概念

 先に述べたマスターソンの独自のパーソナリティ障害についての概念を述べずに、私は愛について語ることはできないと思う。
 マスターソンは、パーソナリティ障害、特に自己愛性パーソナリティ(今後、「自己愛」と略称)と境界性パーソナリティ障害(「境界例」と略称)についての独自の臨床的貢献によって知られている、アメリカの精神科医だ。
 マスターソンは、自己愛も境界例も、どちらも親からの分離に障害があるとし、臨床の中で患者が親との分離を果たすことで症状が徐々に緩和してゆく様を描写した。
 パーソナリティ障害の概念と幾分逸れるが、私は精神障害一般もこの親との分離・個体化の失敗に多少は帰せられると考えている。
 なぜなら、たとえばうつ病の場合、必ずうつ病患者が依存できる人間が彼のそばにいることが多い。これは母親であったり、恋人であったり、配偶者であったりするが、うつ病者はまさに重要な他者とされる人間との分離に失敗した結果として、これが発病し、さらに長引くのではないか。
 彼らは怒りを抱いているが、それは配偶者や恋人への怒りとして認識される。しかし、もとを辿ればその怒りは両親に対するものであることが多く、つまり彼らは親への怒りを今いる人間関係に転移・・[※]させていると考えることが妥当である。この転移の防衛機制も、両親との分離・個体化が十分に果たせていないために惹起じゃっきされるとも考えられる。彼らが過去の人物への怒りと現在の人物への怒りを混同するのは、まさに対象恒常性が十分に育っていないから、つまり他者と自分、過去と現在との境界が曖昧なために引き起こされる、一種の人間関係の病なのではないか。
 ここで私がマスターソンのパーソナリティ障害の概念を取り上げたのは、それら各種パーソナリティ障害が対象を愛する能力を著しく阻害すると考えているからだ。もっと言えば、愛されているという実感さえも障害される・・と考えている。
 愛する・愛される能力を阻む代表的なパーソナリティ障害(ほとんどすべてのパーソナリティ障害がそれらの能力を障害するのだが)を以下に列挙する。

  1. 自己愛性パーソナリティ障害

  2. 境界性パーソナリティ障害

  3. シゾイドパーソナリティ障害

 の三つである。



愛を阻むパーソナリティ・「自己愛性パーソナリティ障害」

 自己愛と境界例に関してはマスターソンの以下の著書に詳しい。

「自己愛と境界例」
「青年期境界例の精神療法」

 私はこの二冊から多大な影響を受けた。この章でもマスターソンの以上の書籍を参考に話を展開していくつもりだ。
 さて、マスターソンは、自己愛性パーソナリティ障害に対して、簡潔に、
「自己愛パーソナリティ障害患者は、自己の行為のすべてに完璧さを求め、富、権力、美を追求し、また誇大な自己を鏡のように写してくれ、自己の誇大性を賞賛してくれる他者を見出したいという衝動に、絶えず駆られているように見える。この防衛的な外見の根底には、激しい羨望を伴った空虚感と怒りの感情が潜んでいる・・
 と述べている。つまり自己愛は、社会的な成功を病的に追求し、自分の偉大さを支持してくれる他者を絶えず求め、さらにそれら防衛的な外見の核に激しい嫉妬と怒りの感情が潜んでいる、ということになる。
 私たちは時に自己愛のこの異様なまでに誇張された自信を羨むが、それが現実適応を犠牲にした上で成り立っている砂上の楼閣さじょうのろうかくであることを理解すれば、その羨望はおのずと消退していくだろう。彼らは誇大な自己像を維持するためにしばしばただちに自殺に至ることもある。彼らは美や権力を追求したときのように、時に怒りのエネルギーを自己にすべて注ぎ込み、他者の介入するすきを少しも与えずに、きっぱりと自分の生命を終わらせることが間々ある。これは自己愛のもつもう一つの側面「相互性の欠如」と「自閉性」の成せる技である。
 マスターソンの言う通り、自己愛は激しい羨望を伴った空虚感と怒りの感情を抱いているのであり、そのための努力であり、また権力追求である。健康な美への志向や権力の追求は自己破壊をもたらさない。たとえば借金をこさえて自己破産に至るようなケースは自己愛とされ、借金をするがそれが現実に適っており、実際に利益を上げるような場合は健康な権力志向と言える。
 これは他のパーソナリティ障害にも言えることだが、彼らは常に現実適応を犠牲にして妄想にすがっているのであり、間違っても社会的な成功者の一員ではない。確かに、その病的な自己志向的な態度が時に成功をもたらすことはあるにはある。しかし、その多くはやはり自己破壊的で、生産的、創造的とはとても言えない。
 私たちは愛を求める生き物だ。そしてその欲求がなんらかの障害(この場合、自己愛)によって阻まれるなら、私たちは例外なくその代替物を求めて右往左往するものだ。
 自己愛の場合は先に述べた美、富、権力への異様な執着となって愛を求める欲望が代償される。
 代替物は真の満足をもたらさないと言う言葉はフロイトのものだが、まさに彼らが美貌や権力を手にしたところでそれが愛の代替物であることに変わりがないのなら、彼らが一向に満足しないのも了解不能なことではなくなるはずだ。
 マスターソンはパーソナリティ障害を分離・個体化の失敗という共通概念に統合したが、私は愛を求める欲求の挫折・・という概念に統合しようと試みている。



愛を阻むパーソナリティ・「境界性パーソナリティ障害」

 境界性パーソナリティ障害の「境界」とは、精神病(統合失調症)とパーソナリティ障害を行き来することを意味している。
 彼らは不安定で、依存できるものにならほとんど何にでも依存し、そして絶えず不満なようである。
 マスターソンによると、境界例の母親自身が境界例であり、母親は自身の分離不安を防衛するために子どもが自立しようとすると愛情や支持を撤去するのだという。これは多かれ少なかれ多くの人たちが経験したのではないか。実家を離れて別の場所で暮らすとか、異性を求めるために見た目に気を使うとか、そのような時期に親の愛情撤去を経験した人は実に多い。それは一つの連続体を成しており、あからさまに愛情を撤去された者も、また陰湿な形で愛情を撤去されたものまでを含めている。
 私たちは精神障害ときくと何かタガの外れた別の世界に住む人たちを無意識に連想するが、それらはすべて連続体(スペクトラム。グラデーションと言い換えてもいい)を成しているのであり、私を含めたすべての人々がたとえば統合失調的な症候を多少は抱えていたり、パーソナリティ障害的な要素を幾分は抱えているといった具合まで、実に様々な形態をとる。この説明でよく例に出されるのが、百人に一人の綺麗好きなら問題ないが、一万人に一人の綺麗好きなら潔癖症を疑うといった、古典的なレトリックである。
 確かに私たちは、死別などのストレス下にあれば、病的な症候を示すものだ。
 ここで境界例としているものは、自己破壊的で、やはり現実適応を犠牲にしている場合に限る。
 彼らは、理想化とこき下ろしの間を絶えず行き来し、昨日配偶者を英雄視したと思えば今日は非難するなど、やはり対人関係に大きな問題を抱えていることが多い。
 マスターソンはこの特徴について、「しがみつき」と「距離を取る」という概念で説明を試みた。しがみつきとは文字通り対象にべったりと依存すること(理想化)であり、距離を取るとはこれも文字通り対象から情緒的に距離を取る(こき下ろし)であると解することができる。
 ここで理解していただきたいのは、これらの症状は一つの幅広い連続体を成しているのであって、私の中にも読者の中にも、この境界例的な要素が多少なりとも存在すると言うことである。これは何度強調しても足りない。
 マスターソンの言葉で、特に感銘を受けた言葉を以下に引用する。

 彼女の分離不安にとって脅威的であり、不安を強める最大、最強のものは、真の親密な人間関係を生ずる可能性であった。
 彼女は、そういう可能性が生じないようにするために、意図的に適切な男性を避け、束の間の情事をあさっては壊し、そして壊れたことで男性を責めてきたのであった。

マスターソン著、自己愛と境界例より


 名文というものは幾らでも代入可能であるという意味において名文なのである。彼女という名詞を彼と言い換えてもいい。私と言い換えてもいい。親と言い換えてもいい。とにかくそれは代入可能であり、普遍性がある。
 私たちの多くが上に引用した言葉通り、分離不安を防衛するために意図的に人間関係を終わらせている。ここで言う分離不安とは、保育園デビューの子どもが泣き叫ぶあの分離不安と同質のものを語っている。一般の人々は分離不安は幼少期に特有の反応であると考えているが、そうではない。これは青年期、成人期にも十分延長される反応である。実体験で言えば、親元を離れて別の土地で暮らすために電車に乗っている時に、私は強烈な、我を忘れるほどの不安を覚えたものだ。これを分離不安と呼ばずしてなんと呼ぼう。
 ここでもフロイトの金言、「罪を犯すのではないかという不安を格納するために罪を犯す人がいる」が思い出される。
 この文脈では、分離不安を格納(防衛)するために意図的に(前もって)人と別れる人がいる、であろう。私たちは経験的にそのことを理解している。理解しているが、意識にはのぼらない。それが無意識や自己意識にとって無用の長物だからだ。
 恋愛体質と呼ばれる人が、なぜこうも人と結ばれ、人と別れるのを繰り返すのか。そのことをマスターソンは簡潔に説明している。
 さらにマスターソンは境界例に対して、「見捨てられ抑うつ」の概念も適用している。
 見捨てられ抑うつとは、十五ヶ月から二十二ヶ月の再接近期にある子どもが、分離・個体化と自律への道を進むとき、母親から愛情を撤去されてしまうのではないかと怯え、抑うつに陥ることをいう。これは先に述べたように成人期に(時に老年期にまでも!)延長される可能性が十分にある。見捨てられ抑うつを構成する感情は以下の通りである。

  • 抑うつ(depression)

  • 怒りと憤怒(anger and rage)

  • 恐怖(fear)

  • 罪悪感(guilt)

  • 受動性と無力感(passivity and helplessness)

  • 空虚と虚しさ(emptiness and void)


 これらの感情は見捨てられ抑うつの名称からも連想されるように、うつ病の中核的な症状を代表するものでもある。
 やはりここでも、精神疾患やパーソナリティ障害は愛情希求の挫折であるという私の持論に帰着する。ここではまず親からの愛情撤去を経験し、さらに配偶者からの愛情供給にも失敗していることが連想できる。まず母の愛を求める原初的な愛情希求願望が挫折させられ、さらにその原初的な愛情希求願望が形を変えて配偶者へ向けられるべきなのに、それがうまく発散されないために、うつ病が発症し、そして長期化するのではないかという連想である。
 マスターソンは、境界例の治療において、もっとも効果をあげる場面を取り上げて、

「すなわち、患者の病的行動の基底には、もし患者が母親から分離し、個体化すれば、患者も母親も死んでしまうだろうという感情があるとの認識に達することである。それと平行して、無条件の愛は求めても得られないことを認識するに至ることである」

マスターソン、自己愛と境界例


 と述べている。
 マスターソンは境界例を母親からの分離・個体化に失敗したという概念で説明を試みたが、私は最後の言葉、「無条件の愛は求めても得られないことを認識するに至ることである」を強調したい。
 つまり境界例は無条件の愛(親の愛。もっといえば母親の愛)を求めてさまよっているのであり、それを理解し克服することでもっとも高い治療効果が得られるとしている。
 私は精神障害は愛の問題であると考えている。なにも宗教的な意味においてそういっているのではない。私は無神論者だ。
 母にしがみつく行動がハグに昇華しょうか[※]され、乳首を吸う行動がフェラチオに昇華されるというなら、母の愛を求める原初的な欲求がまだ残存していて別の形に昇華されていると仮定してもいささか論理の飛躍とまではいかないだろう。
 うつ病患者がうつ病になることで他者の配慮を引き出しているのだとしたら、やはりここに母の愛を求める原初的な欲求を考慮しないではいられない。統合失調症患者が意味不明な言動をして他者との関わりを持とうと努力しているのだとしたら、やはりここに母の愛を求める欲求を見出さずにはいられない。
 統合失調症研究でその名を知られるレイン[※]は、「引き裂かれた自己」の中で、「私は一度たりとも絶望していない統合失調症患者を見たことがない(意訳)」と述べているが、まさに精神疾患は絶望の病であり、絶望の病とは愛の獲得に持続的に失敗している状態であり、それはたとえ成人していても人は絶えず他者の愛と配慮を求める生き物であることを示唆している。
 やはり境界例や自己愛の概念も、愛情希求の挫折という概念に統合されなければならない。



愛を阻むパーソナリティ・「シゾイドパーソナリティ障害」

 この疾患に対して、私は専門的な知識を持ち合わせていない。しかし、ここに都合がよく、文句も言わない臨床対象がいる。私自身である。
 私は確かにシゾイド的(分裂的)な人格と診断されたことがある。
 そもそもここでいうシゾイド(分裂)とは、自己と肉体が分裂していることを意味し、そのような状態のために他者と関係することに困難が生じている場合を指す。
 先に述べたレインは、統合失調症あるいは統合失調症気質••の者に特有の恐怖として、「呑み込み」「爆入」「石化」を挙げている。

1、呑み込み
 文字通り自分の人格を他者に呑み込まれる恐怖であり、他者と自己の敷居の低い(レインはそう表現している)者にとって、あらゆる接触が呑み込みとなる。それはただ話をしたり、目を合わせたりするだけでその呑み込まれる恐怖は引き起こされる。統合失調症患者が一人を好むのはこの恐怖のためと言っていい。さらに統合失調症患者の奇妙な感じはこの恐怖を防衛するためのよろいである。


2、爆入
 打ち間違いを常に注意したい。この恐怖はガスが真空を一瞬にして満たすように、シゾイドパーソナリティ障害者の自己に他者の自己が侵入してくる様を説明している。
 「その人は自分が真空のように空っぽであると感じている。しかしその空虚がまさに彼自身なのである。彼は一方でこの空虚が満たされることを願望していながら、それが実際に起こることを恐れている」「現実は、ただそれだけで呑み込みや爆入の恐怖を起こさせる迫害者なのだ」[引き裂かれた自己より]



3、石化と非人格化
 シゾイド的人間は以上の恐怖を防衛するために対象を石に変え、脱人格化する。彼らにとって相手する人間は機械であり、石であり、無機物である。そのように意識を解離させなければシゾイド的人間は自己を保持できない。
「自分の目の中で人格としての他人を破壊することによって、相手から彼を破壊する力を奪ってしまったのだ」「彼の妻は「それ」であった」[レイン、引き裂かれた自己より]


 さらにレインはシゾイドパーソナリティ障害についてこう概括している。

 孤立と遊離を続ける自己は他者との創造的関係に参与せず、もっぱら空想、思考、記憶などにおける人物(イメージ)を相手とし、しかもそれは他人には直接観察できないし直接表現されることもないので、(ある意味では)彼にとってはあらゆることが可能である。

レイン、引き裂かれた自己(ちくま学芸文庫)P124より




総括

 人は母性愛を必要としない成人後も、愛を求める原初的な欲望をもとに他者と関わりを持つ。そしてその関わりに何らかの障害があれば、われわれは精神障害になる。
 愛は、その文化的、宗教的色彩によって学問の世界では嫌厭されてきた。なにより愛の深い浅いを数値化できるはずもなく、質的なものより量的な研究がものを言う学研の世界では、この複雑にして怪奇な愛し・愛されるという人々の営みは心理学・精神医学において傍流に追いやらるという現実にあった。
 このブログという自由な発言の場においてこのような私見を発信できることを嬉しく思う。


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