Boys Don't Cry
昨日、弟子にちょっと話したが。
『日本人は、あまりにも”正義は必ず勝つ”を信じすぎている』 という話をした。
正義は必ず勝つ、ことはありません。
正確に言えば 『善を為すのに努力してない正義が、悪事を為すためにひたすら努力した悪に勝てるわけがない』 ということなんですけど。
まあ、これ、つまり、インド神話の考えなんですけどね。
つまり、”阿修羅”との対決において・・・努力した阿修羅に、しばし神々が脅かされる、という話が多いんだよね。
つまり、悪いことするのにも努力が必要な訳で、その『努力した事に対して』神々は等しく恩寵や果報を与えざるを得ないと。
例えば、法律の抜け穴を見つけて悪事を働くために、法律家になるような奴って事ね。そして、そのインテリヤクザみたいなのが、今、どこぞの大阪あたりを牛耳ってるんじゃないのかね?とだけ言わせてもらおう。
そうして『力を得てしまった、努力した悪』が社会に跋扈しだすと、下手に力を持ってしまった、それらを追い払うには、よりそれを上回る力が必要になる、ということになる。
まあ、言ってしまえば、阿修羅が仏によく似た姿なのは、それ位『力を持った存在』であることの象徴なのであろうが。そして、阿修羅とは『自分の正義を実現するために、永遠の闘争を繰り返す存在』なのだそうだが。
つくづく、今の日本人は、仏の姿を装う阿修羅の跋扈を許しているとも言えるのかもしれない・・・だろうね。
ある意味、バンドで有名になって、俺をいじめた奴等や馬鹿にした奴等を見返してやりたい、などと言いながら、ひたすら悪意の塊で努力したとしても、確かに神は、その努力した事に対しての果報を与えてると言えようね。心根が悪意から生じたものであったとして、努力した事に対しては変わりないのだし。
ただ、何故、三面なのか。 というと。
つまり、
貪欲:むさぼり(必要以上に)求める心
瞋恚:怒りの心、憎悪
愚癡:真理に対する無知の心
この状態を、知恵と慈悲で抑え込むのが人だとして、阿修羅には、その知恵と慈悲がない。
だから、その三面しか持たない。意外にこの辺、調べると様々面白いんだが。
三毒に打ち負かされた状態で、三業を行うことは不善根、と言われてるのだけど、日本では、そういう阿修羅への共感が過ぎて、知恵と慈悲を無くすのが人として生きるに合理的とまで言いかねないような社会を作り出した、と言えるのではないかな、と考えている。それが、今の日本を覆いつくしてる新自由主義と言われるものの正体ではないのかと思える節もあり。
あるいは、公助・共助を欠いた、徹底的自己責任社会、という事にもなるのだろうが。
なるほど、阿修羅の考えそうなことで。
受験勉強で、日夜闘争を繰り返して、戦って勝ってきただけの人たちの考えそうなことはありますね、というのは、20代前半の頃から漠然と思っていたのだが。
まあ、私からしたら、ホのつく誰かさん、だの、ハのつく誰かさんだの、ケケナントカさん、などというのは、確かに現在の日本社会における、ある意味の成功者であるかもしれないが、典型的な阿修羅でしかあるまい。
あの言動や行動がそのものだろう。そんな人間を成功者と崇め奉ってる段階で、阿修羅にとって都合の良い社会を作り出していると言って過言でない。
さあ、この時代の帝釈天は誰かな。
あんな口八丁手八丁の阿修羅どもを叩き潰せるほどの戦いを挑めるようなのが、果たしてこの国に何人現れるか。それが今後の鍵を握るのだと思って見ている。
このままいけば、完全に社会システムが破壊する事も分かってはいても、負けを認めない阿修羅は・・・
自らのこれまでの意地やプライド、今の立場を喪う事への恐れ、或いは、今更始めたものを引っ込みがつかない、みたいな戦いの意義のために、どんなに負けと分かっていても戦わざるを得ないから、後に引くことも無いだろう。
流石は、永遠の闘争を繰り返すと言われるだけあるが。
自らの負けなど認める訳があるまい。本当により強い力に叩きつぶされて・・・本当にぐうの音も出なくなるような所にまで行かない限り、戦いを諦めないのだろう。
昔の人たちの言葉って、つくづく侮れないよねぇ・・・とは思いながら。
弟子にそんな話を聞かせてみる。
自分の正義追及のために戦い続けるものは、皆、阿修羅の顔をしている。
・・・えらく傷ついた、哀しい少年の顔をしている。
その事に気づけるかどうか、というのはある。
アートを志す人も、バンドマンの半分も・・・おそらくは、しばし阿修羅の顔をしている。まあ、なんて器用な六本の腕ざましょ。
けれど、復讐心に駆られた表現の心では、結局、阿修羅道から抜けられぬものなのかもしれない。
それは、しばし・・・仏によく似た、美しい顔をしているからこそ・・・人の心を打ち、人を惑わせるのだろう。戦いに疲れた阿修羅の心を慰めるには、確かに同じ阿修羅の作った音楽しかあるまいよな。
その因果や輪廻に早く気付いて、そこから抜けなさい、と教え諭そうが
『人は、何度も過ちを犯す存在ですから。』
と言うて、自らが傷ついた事に対しての復讐を、ひたすら果たそうとするかのように固執して、同じことをひたすら繰り返したがるのも、また、人の愚かさであると言えましょうね。
あなたの、その子供の頃の心の傷は、一体いつになったら癒すことが出来るのですか?
今、あなたが抱えてるのは、過去の古傷に対する復讐の心だけだと、いつになったら気づけるのですか?
その憎悪が生み出す音楽がギスギスして、同じ阿修羅を寄せて来る。
これもまた・・・。
壮大なループの中。
より多くの人たちが、自分と同じ傷を負って、自分の苦しみや悲しみの気持ちに少しでも寄り添い、その痛みと傷を同じように共有する事が、あなたの心慰められる事なんですかね?
まあ、それって、自分と同じ不幸な人間が社会に増えたらいいって、逆説的な悪意の拡散なんだと、いつになったら気づけることやら。
人の世に、完璧な人間などおらぬとうそぶいて、阿修羅の闘争を尊び、崇めさす。
君は、その死の瞬間まで、哀しい闘争しか理解できない生き物だったね。
恩讐を超えるという事はできないまま。
さて。
阿修羅王転輪譚。
死ぬ前にでも書き上げて、世を去りますか。
・・・哀しき人は誰も皆、険しい阿修羅の顔をしている。
傷ついた少年のような、深い憂いと哀しみと怒りを押し込めたような。