哀しき努力の合いがけ特盛
人は時に、極楽浄土を目指しているつもりで、皆して地獄の一里塚の第四コーナーを回るものらしい。
「第四コーナー回って、最後の直線!
ホマレノニシキ、ホマレノニシキ来た!
後ろからはボケナスノハナ、ボケナスノハナ!
内をスーッとスタコラサッチャン!」
一体、いつの時代の人間だよ・・・その馬のネーミングセンス。
そんな馬たちが、最後の直線で何の間違いか、傾いた1頭のドミノ倒しにつられて、あらかた騎手落馬&予後不良&競争中止みたいな事が、たまにあるのが人生の不思議であり、競馬の不思議であると思うのだ。
その、遥か後方を、遅れに遅れて、1位どころか掲示板(5着以内)にも載りそうにないドベ確定の馬が、そのズッコケた馬たちの横をすいーと抜けていった挙句、万馬券どころか、百万馬券の立役者になってしまう事も、また人生の不思議である。そういう数奇なアウトサイダー。棚から牡丹餅。
安心しろ、君の努力は報われない。
人生とは、思ってもみない落とし穴の連続である。
「合成の誤謬」と「アビリーンのパラドックス」という名の落とし穴がある限り、人は、皆、過ちを犯す。
マカロニほうれん荘で、この歌詞をもじって「だーれのせいでもありゃしない! 皆、お前が悪いのさぁ!」で、爆笑した世代の残党の最後の意地。一世一代のエンターティメント、ニューウェーブ戯作派の真骨頂である。
皆の買う人気の馬は、元金100円返しどころか、負けたらその100円さえ持って行かれる。
100円賭けるだけ損の、リスキーな危険をはらんでいるものなのである。
いや、稀代の天才女性がこんなことを歌ってるんだからさ、少しは真面目に聞こうよ。
地獄を天国という人もいる
天国を地獄という人もいる
天国が地獄にひっくり返る、その日までは、人は自分が天国にいるつもりでいるものなのである。確かに昨日までは、そこは天国と呼ばれる場所でしたが、実は、そこは天国のように見える地獄でありました。
私が数年にわたり、X(そろそろでTwitterに戻してくれ)、ひたすら訴え続けている事。
「合成の誤謬」と「アビリーンのパラドックス」
ネット以降の日本人のやる事の足をすくっているキーワードはたったこれだけなんだが。 日本人の「何かが受けた」とみると途端に一斉して同じことを始める悪癖を、ネット時代の情報の「高速性」があぶり出した。
この概念は、高校を卒業するまでの間に学ぶ機会がない。どころか、そこらの大学を卒業した所で学べない話だったりする。だって、社会心理学でも勉強しない限り、人間はこんな誤った行動をしがち、ということさえ学びようがない。
この2つとも、集団心理とか集団行動の中の問題について、長年研究されてきている重要な分野の話なのに、何故か、そういう学問ほど「カネにならない、役に立たない」扱いをされがちだから、誰も真面目に学ぼうとしない。
これ、エグイ言い方すれば「直接、金は生み出さないけど、カネカネ言ってる人達が最後にドツボに陥る時の、壮絶なしっぺ返し」について語ってるようなものだもの。地獄の一里塚の回避方法なんですけどさ。
それを知らない君の未来は、前途ボーボーの炎上で、本能寺の変に倒れる直前の信長の如く危うき卵のビルディングだ。一言で言えよ!累卵の危うきって。だから、お前の話は長くて読む気がしないって、クソガキに言われるんだよw
PREP法で書く小説などあってたまるか。俺の勝手だ。
合成の誤謬(ごうせいのごびゅう)ってのは 「社会の中で ”個人が正しいと思ってやった事”を、多くの人が一斉に同じ様にやる事で、結果的に、自分達の想定外の事態を引き起こしてしまう」 という現象なのである。
これは、ネット時代になって身の回りで壮絶に起こってる出来事だと思うが。特に日本人の行動習性に絡む話。
”個人は正しいことをやってるつもり” だから、別に悪気も無いだろうし、寧ろ、人の生き方に属する事なので、つべこべ言うつもりもないのだが。個人がより良い生き方を追求するのは、別に悪いことではない。
大体、それをやってる人間が、物事の初期段階とか、ごく少数ならば、大して問題にならないような事なのだ。寧ろ、それが本当に、ある時期までは成功の鍵だったりするから困ったものなのである。
だからこそ、初期段階では確かに上手く行く事なのかもしれないのだが。
このネット時代、バズりを狙って「今、話題!」「○○の秘訣!」みたいなのを壮絶に拡散するようになって。
それに釣られて、皆がその気になって、それを実行したら、途端に何かおかしなことになる、というのを良く感じるようになったのではないか?と思うのだが。
賢明な皆さんも、それを実感しているのではないかと思う。
それが「合成の誤謬」という事なんだが。
みんなが一斉に同じことをしようとするから起こる。バタフライ・エフェクトの話なのである。
蝶々が一斉に羽ばたきを始めたら、台風が起こった、みたいな話。
例えば、それは、ネットの無い時代からも度々起こっていたと思う。
夏休みにせっかくだから
観光地に車で出かける
観光地に向かう道が大渋滞を起こす
行っても人だらけで
渋滞で疲れちゃって楽しめなかった
新幹線なら、
切符を買うのに、みどりの窓口がパニックになっている
どころか
思った切符が買えなくて
みたいな事になりだしている。
これ、別に悪者を探したって仕方のない話なんだけど、だからって改善の余地ってあんま無いんだよね。物事の上手く行くキャパシティを超えてるからなので。
どこもかしこも、処理できる限界を超えてるのだ。
合成の誤謬が引き起こす「インフラのキャパシティの限界」なんだもの。
そして、実は、これが「アビリーンのパラドックス」って話にも、深く繋がってるんだけど。
アビリーンのパラドックスっていうのは「集団は、時折、本人たちが本当は望んでいない決定をしかねない」って話。集団浅慮のひとつである。
本当は、さして観光地になど行きたくなかったけど、子供の思い出作りのために、今、評判の所にでも行くか・・・と行ったなら。
そこには、やっぱり「子供の思い出作りのために」と同じ事を考えてた親子が大量発生してて・・・個々人の幸せの追求としては、その選択は間違いでない・・・が、皆でやったらどうなるか、っていう合成の誤謬。
ジュースやアイスクリーム一つ買うのにも100人の行列からで並んでて。
子供は楽しかったどころか、機嫌を悪くして、グズグズ泣き出す。
おかしいな、俺、本当にこんな事したかったんだっけか・・・
その上、子供は「楽しくなーい!渋滞で疲れた!」とグズリだし、ママは「ワガママ言うんじゃありません!」とイライラが募りだし、パパは「渋滞でクタクタなのに」とトホホが募りだす。
結果的に「楽しい思い出作り」どころか、家庭内不和を抱えたまま、君は家路をたどることになる。一体、何のために行ったんだか。
で?
本当に君たちは、そんな観光地に行きたかったんだっけか?
・・・ 実は、これって、アビリーンのパラドックスを紹介してる事例、そのまんまの行動だったりして・・・。
本当は、誰もその場所に行きたい、なんて言ってないんですよ。
子供もママも。
で、究極はですが。
提案したパパ自体が、自分が、全くそんな所に行きたいと思ってなくて、”思い出作りのために、とりあえず話題の場所でも行ってみれば、家族は喜ぶだろう”と提案した程度のことでしかなかった。
いわば、思い付きの提案に過ぎなかったのだ。
大体、本人自体が、そこに行きたいと思ってさえいないのである。
後になってから、子供は「友達とゲームでもしていたかったのに!」とさらにむくれるのも、パパが、折角提案してくれたのだから、さぞかしイイとこだろうと思って行ったら、この有様であった・・・という。
集団はしばし、そういう「誤った選択と行動」を起こしがちで。
ママも子供も「パパがそう言うなら」と本音を隠していたことで、実際は、全員がそこで本音で多数決を取っていたら、絶対、行くはずじゃなかった場所に行ったという話。
だから、多数決に見えて「多数決の欺瞞(これは私の造語)」に引っかかってしまった。
実は「行こう」に対して、極めて消極的・形式的に同意してた、って話で、「みんなが行くなら・・・まあいいか。」になってただけで、ホンネは誰も、アビリーンには行きたくなかったのである。
パパの正解は「家族全員の本音を聞き出せばよかった」だけなのにね。
下手すりゃ、皆、おうちでのんびりしていたかった、だけなのかもしんないよ。
けど、子供は子供で、学校からクダラナイ「なつやすみのおもいで」みたいな絵日記を書けだの、友達から「お前、夏休みどこへ行った?」だの聞かれるぽいし、人と人生の内容なんか比べなきゃいいのに、と言っても世間体というものは、カクモ、自分たちの足を引っ張る。
金もないのに、必死で飲み代をケチって、お金がある振りをして「家族の団欒」を演じなければならない・・・と来たもんだ。
と、隣のパパと愚痴りでもすれば、実は皆して腹の底では同じ事を考えていて、誰も彼もが「そんな事はやりたくなかった・・・」と本音を語る。
50年も前から、何度も繰り返し見たような、似たような光景。
「合成の誤謬」と「アビリーンのパラドックス」のパンチの効いた合わせ技を
「何で、この人たち、自分たちのやりたくない事を必死に頑張ってるんだろう。」
と眺めていた子供の成れの果てが私で。
それを「合成の誤謬」と「アビリーンのパラドックス」と言うのだと知ったのは、結構、大人になってからだった。
受験のために必要な勉強には決して入らない、人生の教訓のような学問もある。高校でも大学でも、中々教えてくれない、本当に大事な学問ってあるんだな、と思い知った訳です。
これさえ分かってれば、皆、そこまでおかしな事にはならないはずなのにね。
その後には、ただ「本音を隠して頑張っていたはずなのに、頑張っても頑張っても報われない人たちの群れ」が、雁首並べて討ち死にしているというコメディ悲劇的な光景がそこに広がる。
何だか、見ていて、こっちも、そろそろ一言言いたくなるんだが。
お節介と言われるのも、何ですけどさ。
その愚痴を、酒の席で「どうして、日本人、こうなんでしょうね・・・」と、どこの場に行っても毎度毎度聞かされる羽目になる、私の気分にもなってみて欲しいものである。
で、散々、答えを言っているのに、何でまた家に帰って同じことをやらかすの!
「だって、皆がやってるから。」
こら、あかん。
・・・お後が、よろしいようで。