愛の学びの旅は自分の内なる統合の旅
愛の学びの旅は自分の内なる統合の旅
外のわたしは、社交的で自信に満ちたわたし
内のわたしはびくびく・おどおどした自信のない私
どちらの私も私なんだ
長きに渡る、壮絶なパートナーシップの旅を通して
彼女はそこに至った
彼女の話を聞き進めるにつれ、
ギューと胃の中が締め付けられた
こんなにも永きに渡って
辛い時間と向き合って来たのだなと感じる
快適な時間の中ではない、苦しい苦行のような時間が
彼女のもうひとりの自分、
つまり「びくびく・おどおどした自信のない私」を露出させ
おわらせるものが立ち上がり
トランジションへの道が見えてきたのだと思う
彼女のナラティブを聞いて
誰しもがぎくりとした瞬間があったはずだ
正直ぼく自身もまあまあなダメンズでもあり
(いまは、少しは自分を愛し、人を愛することの出来る器になっている
と思うのだが、さだかではない)
ぎくりと何度も思った瞬間があった
僕の場合は特に大学時代に支配と依存の関係性を繰り返していた
自分自身を愛せず、不安で、苦しくて、女性に依存した
ぼくが支配を少しずつ弱めていったのは
毎夜、当時の彼女に向けたピロートークというナラティブであったと思う
SEXのあとの時間のピロートークが、
自身にとってのナラティブの時間だった
自分自身の全身を受け入れてくれた存在によって
少し自分の話ができる勇気がつき、
自分のナラティブが立ち上がり
毎日のようにピロートークで夜通し話し続けたこと
それによって少しずつ、
自分の無意識の抑圧が溶けていったなと思う
そういった関係性を数ヶ月ごとにはじまり、おわらせ
それの繰り返しをしていく中で、
徐々に自分の無意識と意識が結合されていったのだと思う
別におすすめする方法ではないのだが、
当時は僕にとっては致し方なかった
不幸中の幸いは、数ヶ月ごとにおわりを迎えていたこと
完全な間に誰も入れないような密さがなかったことかもしれない
他の人が入れる余地があったことで、
完全なる共依存は防げていたのかもしれない
完全性を持っている人間はいない
男を女を同じようにせずに
相互補完が必要な存在にしたてたのには、意味があるはずだ
僕らは不完全にうまれたいきものとして
相互に依存することも必然なんだと思う
ただし、相互に何も入り込む余地がないほど
そこの袋小路に落ち込んでしまうと
全体性を失い抜け出られなくなる
僕らは全体性を伴いながら、
同時に相互に循環しながら、
生きていければいいと思う
聖と俗のように一方だけでは生きられない
自分の中の俗の一面も受け止めてながら揺らいでいけばいい
自分の俗な感情も
こうあらねばならぬ、という禁止をすればするほど
闇がたちあらわれていく
駄目な自分がいてもいい
これからまたどうしようもない相手とつながることもあるかもしれない
でもその駄目さも含めていいじゃない
僕自身も真面目とは到底いえない
ある種の不良ともいえる
僕自身のトランジションの中でもパートナーシップの問題が
大きな割合を占めた
ある時から、こうあるべきという禁止事項をやめれた
そこから愛をもって、意思をもって、
相互作用にとりくめるようになったと思う
「受けたもう」の精神で、相手の要求を受け止め続けた
一方で、予期せずに他の人に恋をすることだってある
それはそれでいいじゃないか
自分の心を管理できるものもないから
にんげんだもの
自分が袋小路に陥らないように
全体性を保ちながらも
相互作用を失わず
自分の感情も大事にしながら
生きていればいいと思う
ある種僕は
「対話と変容ができるダメンズ」
として生きていければいいと思う
僕らは不完全だし
それを色んな仲間たちと埋めながら
相互に作用すること
それが創造的に生きていくというこだし
文化をつくっていくということなんだとおもう