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神や信仰について

今まで割と宗教に対して肯定的なことを書いてきたから、逆の面も書いてみようと思う。

戦争のための宗教

日本は戦時中、天皇を神格化した。天照大神の子孫とされる天皇を尊敬させることで、兵たちを動きやすくしたのだ。勇敢に立ち向かい戦死すると、靖国神社に「祭神」として祀られる。どこか違う世界で英雄となれるから、彼らは惜しみなく自ら命を差し出していった。

戦争をし易くするという目的で新たな「宗教」が作られ、そのためのさまざまな「物語」が国民に吹き込まれた。

靖国神社の線引き

上記のようであるから、靖国神社は国を守るために勇敢に戦った兵士たちを祀っているように思える。しかしそこにはある基準がある。靖国神社自体は、明治以降に建てられた比較的新しい建物だ。国のために戦った兵士を祀る目的であれば、例えば、「元寇」のときにモンゴル帝国からの侵入を防ぐために果敢に戦った兵士を祀って当然だ。彼らは二度も戦って国を守った。しかしそうではない。

さらには、靖国神社は、純粋に戦死者の国民を祀っている訳でもない。明治政府ができる時、内乱で亡くなった政府軍側の兵士は祀られているが、亡くなった旧幕府軍や反政府軍(敵側)の兵士たちは祀られていない。空襲や原爆で亡くなった膨大な日本国民も祀られていない。しかし、第二次世界大戦の指導者だったいわゆるA級戦犯たちは祀られている。

では、靖国神社に祀られる人間の基準とはなんなのか?それは簡単で、「天皇のために戦ったかどうか」だ。このような特定のイデオロギーがある。

神がいるとしたら

(そもそもこんな言い方は信仰者たちに反感をくらうかもしれない。)が、神という存在がいると仮定する。もしそうなら、神は少なくとも人間の道徳基準で善なるものではない。悪とすら言える。

例えば、地球が生まれてから何億もの罪なき子供が飢えて死んできたし、戦争で理不尽に殺戮されたり、自然災害や病気で死んできた。

それらを見過ごし、あるいは許し、あるいは起こしてきたのが神であるなら、人間の理性の範囲内における理論で言えば、善なる存在とは言えない。

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