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文化相対主義の扱いについて

はじめに

 世界には様々な文化があり、それには多くの種類と形があるが、馴染みがなく理解し難い文化と遭遇した時、我々はどういった態度をとれば良いのだろうか。海の向こうで行われている行為であり直接対峙することはないのだから、気にする必要はない、理解しなくてもよいことだと、我々は高を括っているのではないか。しかし、世界ではグローバル化が進んでいる。日本においても、留学生や海外からの移住者の数が、今後ますます増えていくと予想されている。それは、一つの国にたくさんの文化が一堂に会するようになることを意味する。つまり、先のような理解し難い文化と、日本にいながら出会うことも十分に考えられるのだ。異国で起こっているのだから関係ないなどとは、もはや言っていられない。
 我々は何かしらの異文化と出会い、意見が食い違う場面に必ず遭遇する。その時、「みんな違ってみんな良い」は通用するのか。どのような態度が求められるのか。本稿では、これらについて「客観的にとらえる」「正しさはそれぞれ」「文化相対主義」の三つの観点から考察していくことにした。

客観的に捉える

 文化の違いを乗り越え共生していくには、自分や自国について客観的に考える必要がある。その重要性を、食文化を例にして考えてみる。
中国をはじめとした犬を食べる習慣については、否定的に捉える人が多いような印象を受ける。彼らの多くが、数ある食料の中からわざわざ愛玩動物である犬を選んで食べる必要はないと考えているようだが、実は日本も他国から同じようなことを思われていたりするのだ。
 日本では古くからクジラを食べるが、この習慣は欧米文化圏からしばしば批判される。日本においてクジラは捕獲の対象である一方、例えばイギリスでは保護の対象である。クジラは共に生きてきた仲間だという声も聞く。そして、クジラの数が極端に減る中、他にもさまざまな魚がいるにも関わらず、わざわざクジラを捕って食らう必要はないと彼らは訴える。
 犬を食べることは普通のことであるとする人々に、「犬を食べることは間違いである」とする意見は通用しない。それはクジラについても同じである。自分の信じる「正しさ」を相手に押し付けることはできない。相手も自身が考える「正しさ」を持っているからだ。
 互いに「信じられないものを食べている」と思われている点に関しては同じであるにも関わらず、自国のことについては省みず、相手を否定したりする人が後を絶たない。クジラを食べることはれっきとした文化なのだからある程度胸を張ってもよいと私は考える。だが、自分を棚上げして、目についた他者を悉く否定していては、張れるはずの胸も張れなくなる。他者については決して許さないなど、そのような傲慢がまかり通るはずがない。「文化だから」という理由で何かを貫きたいのであれば、同じく「文化だから」と主張する他者を理解しようとする努力は欠かせない。
 文化はある意味「お互い様」であることを忘れてはならない。いかなる文化にも、そこへ至った背景が必ずある。そこに優劣など存在しない。

正しさはそれぞれ

 では、文化にはそれぞれが信じる「正しさ」がある中で、どのように文化的他者と共生していけばよいのか。
 SNS等で、馴染みのない文化が取りあげられていたとき、そこには必ず「文化はそれぞれだからね」や、「正しさはそれぞれだよね」というようなことばがある。一見多様性を認めるような良いことばに聞こえるが、実は大きな危険を孕むことばであると考える。
 たとえば、誰かとあることをめぐって言い合いになったとする。互いに主張することは正反対で、話しあってもなかなか解決しそうにない。そんな中、相手が「考えは人それぞれだからね」と言ったとする。このことばを言われた時、これ以上意見が合わない人と話すのは無駄である、面倒であると遠回しに言われているようには感じないか。このことばが放たれた瞬間、話し合いはそこで終了である。結局問題は解決しないまま、先送りにされるだけであり、そこからは何も生まれない。一見多様性を認めているようで、自分が理解できないことに対して理解しようと努力したり、向き合おうとしたりすることを諦め、ただ考えることから逃げ出しているだけではないかということだ。これが、このことばが帯びている危険の正体である。山口(2022)の書籍の中に以下のような言及がある。

 「まずは相手の言い分をよく聞き、それがもっともだと思えば従い、おかしいと思えば指摘し、相手の言い分を再度聞く。それを繰り返すことで、お互いに納得のできる合意点を作り上げていく。これが、正しさを作っていくための正しい手続きというべきでしょう。そうした手続きによって、より正しい正しさを実現するよう努力していくことが大切です。私が『人それぞれ』という言葉にこだわるのは、そうした努力をしないで済ませる態度を助長するからです。(省略)他人を巻き込むことについては『人それぞれ』で済ませるわけにはいきません。他人と合意を作っていかなければならないことについて、『人それぞれ』などいって十分に話し合う努力をしないでいると、社会は分断されてしまいます」(141頁)

 何を正しいとするかは文化によって異なる。それゆえに、しばしば意見の食い違いや対立も起きる。しかし、そうした価値観の異なる人々と共に生き、同じ土地に暮らす仲間として、どうすれば互いに心地よく暮らせるか模索していかなければならない。その時、「考えはそれぞれ、正しさはそれぞれ」では歩み寄ることなどできない。では、どうすればよいのか。

「文化相対主義」 

 最後に、文化相対主義について考える。これは、「みんな違ってみんないい」の最たる例だと考える。北村(2003)が以下のように定義づけている。

「文化相対主義とは、『それぞれの文化には独自の価値があり、一つの文化の価値や認識の基準を別の文化に単純に当てはめることはできない』というものであり、」(29頁)

 すべての文化は対等で、外からの価値観によって優劣をつけることはできないという考え方だ。一見、多様性を認める万能な考え方のようだが、捉えきれない問題もある。その一つとして、「名誉殺人」という風習を取り上げる。田中と嶺崎の共同論文(2017)の中で、この「名誉殺人」が詳しく説明されていたため、それを以下に引用する。

 「名誉に基づく暴力とは、女性の不道徳な行為がその家族や帰属集団(家族、親族、村落、宗教集団など)にもたらす不名誉を取り除くために、名誉回復の手段として行使される暴力である。不道徳な行為とは性的不品行、すなわち婚前の性関係、様々な理由から親が認めない婚姻、そして妻の不貞などである。名誉は個人と集団を結びつける重要な概念であるが、一般に名誉は二つの形で機能する。外部からの侮辱や攻撃に際し、個人は自身を一部とする共同体の名誉を守るために自ら進んで犠牲になることが期待される。または、自分たちの名誉を守るために名誉を汚した身内を排除しようとする(名誉概念については本特集の赤堀による論考を参照)。名誉殺人は後者の典型と言えよう。」(312頁)

 この風習は一部のムスリム社会などで見ることができ、宗教に則った考え方であるため「文化」に相当すると思われるが、故意に人の命を奪うことはやはり「殺人」であり、いくら文化であるとはいえ安易に許されるべきものではないと考える。しかし、ここで文化相対主義に則ってしまうと、我々はその文化だけに対して批判したり意見したりはできなくなる。全ての文化は等価値で優劣はないとしながら、その文化に対してだけ批判するということは、あなたたちの文化は異常である、あるいは他より劣っていると伝えることになってしまいかねないからだ。
 では、「名誉を犯す者は殺して当然」とするような人々とどのように接すればよいのか。私は、対話を通して互いが納得のいく形を導き出すほかないのではと考えた。これについて、私が大学で受講している「文化人類学のすすめ」の担当の先生に尋ねたところ以下のような返答をもらった。

 「対話をしても文化的他者を理解できない可能性が残り、話が平行線で終わることも考えられる。文化的他者への無理解を『文化が違う』ことに帰結させてしまうと、文化や主張の差異を乗り越えて『正解を共につくる』ことができなくなってしまう。グローバルが全世界的に展開している今日であるからこそ、共通する対話の道具を選定し、それを通じて他者理解を進め、それへの模索を不断に行うことが必要である。結果的には、全てが無に帰す可能性も残るが、そのことなくしては、どんな戦争や紛争も解決し得ない。」

 つまり、ただ対話するだけでは、結局のところ理解しきれないまま終わってしまう可能性がある。したがって、価値観の異なる文化的他者と対話する時は、少しでも理解し合えるように互いに共通している箇所や価値観を見つけ出し、そこを切り口にして対話をする。それが、先生の言う「共通する対話の道具を選定する」ことだと考えた。

最後に

 先生と山口氏の考えに共通することは、対話することへの努力を怠るべきではないということだ。先生の指摘にあるように、結果全てが無に帰す可能性もあるが、対話の努力なしではいかなる問題も解決出来ない。話し合ったとしてもどうせ無理だと端から決め込んだり、「人や文化はそれぞれだ」として差異を乗り越えようとする努力を放棄したり、あるいは自分の思う「正解」を文化的他者にあてはめ、その「正解」の範疇にない民族に対しては、異常であるとして差別や排除の対象にしたりするなど決してあってはならない。
 我々は、文化の多様性を尊重しつつも、許容すべきでない事例に対しては真摯に向き合わなければならない。そのためには、各人が自身で許容できるかできないかを明確な論拠に基づいて判断し、できないものに対してはむやみに攻撃的になるのではなく、論理的にかつ丁寧に意見を提示し、泥臭く対話をしていく必要がある。こうした姿勢が、今を生きる人々には求められていると考える。

【参考文献】

北村光二(2003)『文化相対主義の困難と「文化の共生」の可能性』岡山大学大学院文化科学研究科 『文化共生学研究』第1号
https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ja/1641

田中雅一、嶺崎寛子(2017)『特集:ムスリム社会における名誉に基づく暴力:序』文化人類学会機関誌『文化人類学』82巻3号
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjcanth/82/3/82_311/_article/-char/ja 

山口裕之(2022)『「みんな違ってみんないい」のか?』ちくまプリマー新書 

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