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虹のふもと(ショートストーリー)

 物語は残酷だ。
 現実には終わり等ないのに、物語には終わりがあるのだから堪ったものではない。
 それが終わった後も、生き続けねばならぬこちらの身にもなって欲しい。
 あの輝かしく切り取られた時間の果てを、きちんと描いてはくれぬものか。
 ハッピーエンドで終わるもの程、信用がならないと思うのは、僕がひねくれているからだろうか?
 そんなことを、会社の屋上でコンビニで買ったサンドイッチを頬張りながら考える。
 僕は物語が嫌いだ。
 こっちの頭を一杯にして、さっさと去っていってしまうからだ。
 一緒に買った缶コーヒーも飲みながら、ほんのりとした温もりを楽しむ。
 こうゆうのを人肌程度というのではないかと思う。
 熱すぎず、冷たすぎず。
 このゾーンが僕はとても好きだ。
 五月の中旬の、昼間の屋上とも少し似ている。
 太陽の光は暖かく、夏程の刺すような痛さもない。
 まさしく、春の陽気とも呼べる。
 外で過ごすのが、特に楽しくなってくる時期である。
 僕はそれが好きだし、一人で食べるのが好きだ。
 事務所で食べると、どうしても他の人の弁当の匂いが気になる。
 どうして弁当というのは、皆同じような匂いがするのだろう? 
 あそこに詰まっている愛情を、僕は少し毛嫌いしているのかもしれない。
 理由は簡単。
 僕は弁当というものを作ってもらった事がないのだ。
 産まれてこの方三十年。
 母は僕が幼稚園に入る前に病気で他界し、父と二人で過ごしてきたが、父は全く料理が出来ない。
 まず、米の炊き方すら知らなかったのだ。
 炊飯器のスイッチを入れる事は知っていても、それ以前に米に何をするのか知らなかった。
 僕の父は分からない事を分からないままにしておくのが得意だったし、僕も小さかったから出来なかった。
 母がいなくなった後、炊飯器は一切の活躍の場を失くしてしまったのだ。
 いまや、レンジでチンすれば何でもできてしまう時代である。
 我が家のキッチンで一番活躍していたのは、電子レンジという文明の利器である。
 それがなかったら、僕はここまで大きくなれなかっただろう。
 父には身寄りがなく、頼れる人が居なかった。
 その頃にコンビニが二十四時間営業をしていたのも、本当にありがたい事だった。
 切実にそう思う。
 一人で買いに行ける位近かったし。
 遠足の時だって、高校の昼食が必要な時だって、コンビニの弁当で全てがまかり通った。
 だから高校に入学した後、昼食の時間に弁当箱を開いて机に並べ。
 それを食べている人がいる空間が、僕には異様に見えたのだ。
 そして、そこでは必ずあの匂いがする。
 高校の時から、お昼の時間は屋上で過ごす事が、僕の日常になった。
 あの空間にいると、堪らない。
 名前のない感情が底から湧き上がってきて、胸が冷えていくからだ。
 だから、雨が降っていても、僕は傘を差して屋上でお昼を食べる。
 そんな理由で、高校の頃から数えて十年以上続けてきた日常は、ある日突然ダムのように決壊した。
 闖入者である。
 僕の屋上に、この春に入社してきた女子社員が弁当を食べにやってくるようになったのだ。
 いつものようにお昼に屋上に行ったら、彼女は貯水槽についている梯子の隣で、ハンカチを敷いた上に座り弁当を食べていた。
 僕は静かに開いたドアを閉めにかかる。
 しかし、気付いた彼女と目がバッチリ合ってしまった。
相原あいはらさん。いつもお昼にいないと思っていたら、ここで食べていたんですね」
「ああ、うん。屋上で食べるのが好きなんだ」
「それなら私と一緒です。私お日様の下で食べるのがとっても好きなんです。だって、この頃は特に気持ちが良いでしょう? でも、他の子たちは、埃が風で飛んできたりするから嫌だって言うんです。でも、そう出来ないお昼の方が私はもっと嫌なんです。けれど、一人が好きって訳でもないから、相原さんも良かったら一緒に食べませんか?」
 決して屋上で食べるのが好きな訳ではなく、あの匂いが充満した空間にいるのが嫌なのだ。
 本当は一人の方が楽なのだが、仕方ない。
 ここで断って、偏屈な人だと思われるのもどうかと思うのだ。
 それに、たまには一人じゃないお昼があっても悪くはない。
 三十になってそんな緩みが多少生まれてくるのだから、人間が年を取るというのは妥協点が多くなるという事でもあるのかもしれない。
「サンドイッチですか?」
「ああ。普通の卵とかハムとかが挟まったのだよ。子供の頃から、ミックスサンドが一番好きなんだ」
「卵に、ハムに、ポテトサラダでしたっけ? 一度で三度美味しい代表ですね」
「まさしく、サンドイッチだね」
「ふふ。かかってるようで、かかってないような気がします。でも私嫌いじゃないです」
 一度強い風が通り過ぎて行った。顔にかかってしまった髪の毛を整えた後、彼女は昼食の続きに戻った。
 僕も開封したサンドイッチを頬張る。
 隣に人がいるという状況は、もう何年振りだろう。
 父と離れて暮らすようになってから、全くなかった。
 若干彼女と近い右側の神経が緊張しているのが分かる。
「相原さん。良かったらウインナー食べませんか?」
「じゃあ、頂こうかな」
「と言っても、実はタコになりきれなかったウインナーなんですけど。私不器用で、春から自分でお弁当を作ろうと決心して、一カ月も経つのに。未だにタコにならないんです」
 確かにそのウインナーは、足がちぎれかけていたり、太かったり細かったり、四本だったり、十二本だったり、とりあえず足らしきものがあるウインナーとして弁当箱の半分を占拠していた。
「形はどうあれ、お腹に入っちゃえば同じだと思うよ。ウインナーはウインナーだよ」
「そうなんですけどね。私どうにかタコさんウインナーを上手く作れるようになりたいんです」
「うーん。僕は料理しないから、まともな助言は出来ないと思うけど。とりあえずタコの足は八本なんだから、八本にこだわってみたらどうだろう? ほら、まるいケーキを切り分ける時みたいにさ」
「なるほど! どうして今まで思い付かなかったのかってくらい単純な方法ですね。私バカだな~。全然切り方とか考えてなかったです」
「それでうまくいくかは保証しないよ」
「きっと大丈夫です! 明日早速やってみます。貴重なご意見ありがとうございました」
 暫く無言で弁当の続きを食べる。
 ウインナーは何だかとても懐かしい味がした。
 コンビニ弁当にだって入っているし、パンに挟まってる時だってあるのに、何でだろう? 
 久し振りに誰かと一緒に食べたから、それでかもしれない。
 太陽の光は変わらず頭上から僕を照らす。
 雲がときたま空に紛れ込む、そんな穏やかな時間だった。

 次の日も僕は同じようにサンドイッチと缶コーヒーを抱えて屋上に向かう。
 彼女はいるだろうか?
 昨日少し話しただけなのに、こんな淡い希望を持つ自分が可笑しい。
 ドアのノブに手をかけてゆっくりと開けていく。
 けど、屋上に人影は見当たらない。
 空は昨日より青くて、雲一つないのに足が重たく感じた。
 開けたまま立ち尽くして暫くした後、ようやく足を踏み出そうとした頃に階段の下から軽快な足音が響いてきた。
「相原さん、見て下さい! 昨日より大分タコに近くなったと思いませんか?」
 目を輝かせて、彼女は開いた弁当箱を僕に押し付ける。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ。タコが落ちたらどうするの?」
「ごめんなさい。こんなに上手く出来ると思ってなかったから嬉しくって。私本当に不器用なんです」
「じゃあ、見るよ」
「はい」
 確かに昨日のものと比べると、格段にタコらしさが増している。
 足はちゃんと皆八本になっているし、まさしく足を開いた状態のタコだ。
 ただ、裏返して見てみると、中央が揃っていなくてやっぱり太さがバラバラだった。
 それでもタコウインナーだと、誰が見ても分かるレベルになっていた。
「凄いじゃない。これなら、誰が見てもタコウインナーだって思うよ」
「本当ですか? わー嬉しい」
「もうちょっと中央の位置に気を付ければ、もっと良くなると思う」
「練習あるのみですね! 私頑張ります」
「食べても良いの?」
「ええ、どうぞどうぞ。お恥ずかしい事に、私まだウインナーを焼いたおかずしか作れないんです。一個の事が出来るようになるのに、それだけ集中してやらないと出来なくなっちゃうから。でも、さすがに同じおかずばっかりじゃ飽きちゃいますよね。だから、食べてくれるのとても助かります」
「サンドイッチばっかり食べてるし、ウインナーがあるのは大歓迎だよ」
「明日も作ってきますね」
 それは希望の約束だった。

 次の日は先に彼女が来ていた。
 今日は残念ながら少し曇っている。
 けれどそれほど寒くはない。
 隣に座ろうとしたら、ちょっと待ってと彼女が言って水色のハンカチを開いて敷いてくれた。
「じゃじゃーん! 毎日同じ味じゃ飽きるかと思いまして。今日はケチャップやマスタード。からし、マヨネーズを持ってきてみました! 相原さんは何にしますか?」
「じゃあ、マスタードでお願いします」
「承知しました。ちょっと待って下さいね」
 小さなビニールに小分けになったのを、数個のウインナーに付けていく。
 付け方としてはそう。
 目が二つに、あれは墨を出す所だろうか、何て言うんだっけ?
 そしてそう、鉢巻だ!
 どうしてタコのキャラクターは鉢巻をしているんだろう?
 とても不思議だ。
 しかし、不器用な彼女のやる事なので、位置は全く揃っていない。
 お正月の福笑いみたいだ。
 目を開いてても上手くはいかないらしい。
 これは、さすがに堪え切れずに笑ってしまった。
「あー、一生懸命やってる人笑うなんて酷いです。人間として最低です!」
「ごめん。バカにした訳じゃないんだよ。鉢巻があまりにもグネグネしてたから、ちょっと面白くなっちゃって」
「本当にグネグネですね。何でかなぁ? 性格が曲がってるんですかね?」
「大丈夫。不器用な人は純粋な人が多いから」
 彼女は一瞬止まって、ふにゃっと笑った。
「私。不器用で良かったです」

 その後の土日は、雷が鳴って酷い雨が降った。
 コンビニで買っておいたサンドイッチを食べた。
 自分の部屋で雨が降るのをただ眺めてぼんやり考える。
 月曜日は晴れるだろうか。
 晴れて欲しいな。
 彼女は雨が降ったらどうするのだろう?

 月曜の朝もまだ雨は降り続いていた。
 僕は齧りつくように天気予報を見る。
 三時過ぎまで雨の予報に、がっくりしてしまった。
 しかし、幸いにも駅から会社へ向かうバスの中で、雨が止んだのだ。
 こんなに雨が止んだのが嬉しかった事は初めてかもしれない。
 お昼に屋上へ行ったらコンクリートも乾いていた。
 これなら大丈夫だ。
 彼女は少し遅れてきた。
 いつものように並んで座る。
「今日は少し香ばしいね。僕はこうゆうのも好きだけど」
「焼くだけなのに、何やってるんですかね。天気予報に夢中になってたら、そんな風になっちゃってたんです。まだまだですね」
 はあっと溜息。
 なのに、僕の方はと言えば、じんわりと胸の奥の方が温くなった。
 そうだ。いつもご馳走になってるし、何かお礼に買っていこうか。
 コンビニのお菓子コーナーで何を買うべきか考える。
 チョコレートが嫌いな子は早々いないだろうけど、出す頃に溶けていると困るし。
 ここは無難にクッキーあたりだろう。
 チョコを捨てきれなくて、ココア味のものにしたけど、どうだろう?

 この日は、雲が多いけど晴れていた。
「相原さん、遅いです!」
「ごめんごめん」
「はい、さっさと食べて下さい」
「うん。ん、今日は随分パリッとしてるね」
「でしょでしょ! 昨日給料日だったので、ちょっと奮発して高いのにしてみました!」
 ウインナーも色んなバリエーションがあるらしい。
「あ、そうだ。いつも食べさせてもらってるし、良かったらコレ。クッキーなんだけど、おやつに食べて」
「わー、ありがとうございます。じゃあ後でお茶と一緒に三時に食べましょう」
 僕の胸の奥で、形が出来ていく。
 小さな約束の積み重ねが少しずつ少しずつ。

 そして次の日、恐れていた事が起こった。
 ついに雨が降ったのだ。
 一日中雨。
 何処を見上げても雲には隙間すらない。
 きっと彼女は来ないだろう。
 いつかの雨の日と同じように、僕は傘を差してサンドイッチを頬張る。
 何だか鉛みたいに、固くて味がしない。
 雨は少し小降りになってきてるけど、晴れないだろう。
 昼休みが終わるのが、随分と長く感じた。
 彼女と居るとあっという間なのにな。
 時計のカウントをただ眺める。
 123456……
 一体誰がこんなカウントを考えたんだか。
 来ないのを前提にドアの前で立っていたら、あと五分で休憩が終わる頃に後ろから押された。
「相原さん。遅くなってごめんなさい。今日は謝りに来たんです」
「謝る?」
「私。嘘をついてました。実は仕事で凄い失敗をしちゃったんです。そうしたら、上司に相原さんとお昼を一週間食べたら、帳消しにしてやるって言われて。酷い冗談ですよね。偏屈な人で有名だから、それが私に対する嫌がらせになると考えたらしいんです」
 頭が真っ白になるとはこのことか。
 雲の白より真っ白だ。
 すっかり舞い上がって。
 本当に本当に、何ておめでたいんだろう。
 可笑しすぎて涙も出やしない。
 こんな偏屈な男に、そんなこと自然な成り行きである訳がなかったんだ。
 傘も力なく腕からぶら下がる。
 水滴が跳ねた革靴を眺める。
 戻ったら拭かなきゃいけない。
 染みになってしまう。
 そこに薄く光が差してくる。
 こんな事になった後に晴れるのか、全くなんてことだろう。
「相原さん。あれ、虹ですよね?」
 まだ霧のような雨が降る中で。
 雲間から漏れた太陽の光が、屋上から虹を作っていた。
 凄いことなのに、全く感慨が湧いてこない。
「私。なにかの本に、虹の麓には宝物が眠っているって書いてあったのを覚えてるんです」
「……そう」
「それって、本当じゃないかなって」
「うん。そうかもしれないね」
「だって、今私の目の前にあるんです。虹の麓の宝物が」
「?」
「相原さん。私、上司に感謝しているんです。お話出来てとっても楽しかったんです。それで、あの、明日からは卵焼きに挑戦しようと思うんです。でも、作るの初めてだから。どうしたら上手く作れるか、また一緒に考えて頂けませんか?」
 彼女の笑った顔が、僕の残酷な物語の最後になった。
 次のページからは、どんな物語が始まるのだろう?
 終わらないまま続いていく。
 それはきっと分厚い本になるだろう。

 その日。彼女が作ってくれたタコウインナーを家に持って帰ったら、丁度父が来ていた。
 タコウインナーを見るやいなや、僕の手からさっと奪い取る。
「ちょっ、返してよ」
「ダメダメ。タコウインナーなんて久し振りに見たんだから食べさせろ」
 せっかく彼女が作ってくれたのに、僕は少しむっとする。
 しかし、一旦言い出すと聞かないのが父である。
 そこは僕も受け継いでいるので強くは言えない。
「本当に久し振りだ」
 眺めてやたら嬉しそうな顔をする。
「母さんが良く作ってくれたのにそっくりだ。まるいケーキみたいに切り分けるんだって得意そうに言ってたよ。全く、懐かしいな」

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