【散歩】たみ散歩(リモートワーク編) 京都伏見拠点 Vol.4 歴史的な建造物が多く見られる伏見を散策!
歴史的な建造物が多く見られる京都伏見区の丹波橋。今回のたみ散歩はADDressの伏見の拠点で過ごしたときにぶらり散歩した特急も停車する京阪との連絡駅「近鉄丹波橋」を散策致します。
関西の皆様、大変お待たせ致しました。たみ散歩は関東ばかりを取り上げるのでありません。3拠点のアドレスホッパーな小生としては17年かけて日本を測量した伊能忠敬には及ばないものの全国を津々浦々散策したいと思います。
近鉄丹波橋駅は、京都府京都市伏見区桃山筒井伊賀東町にある、近畿日本鉄道(近鉄)京都線の駅でございます。駅番号は「B07」。京阪電気鉄道(京阪)の丹波橋駅との乗り換え駅としても知られています。
今回の散歩マップ。
15.1kmを6時間48分9秒かけてぶらり散歩致しました。
今回もあくまで近鉄丹波橋にフォーカスを当てますので、すぐお隣の「伏見駅」周辺にはスポットをあてません(なんのこだわりだよって突っ込みは今回もスルー致します)
そういいながもブレックファーストとやらをとりに丹波橋方面に歩いていきます。
京料理なら京都府伏見区にある「創作和膳喜祥」さん。
お気軽に京料理を楽しんでいただけるようカウンター席にて、 お魚と旬の京野菜を中心に日替わりランチ定食として提供しているようです。ここは別の機会にランチに伺いたいです。
「BAR CHANCE」さん。
丹波でしっぽりと飲みたいですね。伏見の拠点に小生は住所もおけるので、ここにお世話になる日もくるはず。
京阪と近鉄線を渡ります。
あまり京都は地理に詳しくないので、京阪と近鉄線がどこへ行くのかよくわかりませぬ。
鰆の炙り刺身、揚げ出汁茄子、海鮮納豆など料理が充実している丹波の居酒屋「赤おに」さん。
実は京都入りした夜はここでしっぽりと飲んだんです。ここは前回ご紹介させていただきました。(記事はこちら)。
地元民ご用達の焼き鳥店「鳥房」さん。こちらも別の日に鳥房さんで一献頂きました。記事はこちら。
ここは飲むにはええ街どすなぁ。
昔から地元民に愛されてきた老舗のパン屋さん「ゲベッケン丹波橋店」
京都丹波の大納言を使用した昔ながらのあんぱんが人気のベーカリーでございます。店舗は他に、本店深草店と泉涌寺店があります。実はここで別の日にモーニングを頂きましたので、皆様にも人気のあんぱんをご紹介致します。(記事はこちら)。
伏見の酒場「ののまる商店」。
ここも実は別の日に今宵の盛り場と致しました(記事はこちら)。なにせ一週間くらい伏見にいたんで、ようこそおこしやす~って感じでぶらぶらぶらぶらしておりました。
「勝念寺(通称かましきさん)」。
勝念寺は丹波橋駅の西にある浄土宗のお寺で、通称「かましきさん」の名前で知られています。現在東山にある大雲院を創建した貞安(ていあん)上人が、信長が本能寺の変で討たれたのちの天正15(1587)年、布教の拠点として秀吉の城下町だった伏見に建立したお寺なんです。信長は貞安上人に帰依していたとされ、寺には安土で信長より賜った釜敷地蔵(鎌倉時代作)が伝わっています。
この地蔵尊は、釜茹でに苦しむ地獄の亡者に代わって自ら釜の中で苦しみを受けるというお地蔵様とされ、境内のお堂で参拝をすることができます。
「本成寺」
妙栄山(みょうえいざん)と号する法華宗大本山本能寺の末寺です。天正10年(1582年)の「本能寺の変」後、同寺の再建に尽力した、本能寺中興日逕(にちきょう)聖人によって、慶長二年(1597年)に創建されたのがこの本成寺です。
本堂には、創建当初の本尊があり、また、地蔵堂には、小野篁作と伝えられる木造地蔵菩薩像一体が安置されています。この地蔵菩薩像は、もと伏見区三栖の薬師寺支配の大亀谷地蔵院にありましたが、承応元年(1652)に隆閑寺学室に、更に明治三年(1870年)に当寺境内に移されたもので、古来「痰切り地蔵」として地域の信仰を集め、かつては縁日に夜店が出て賑ったとのこととのことです。
地元のスーパーでしょうか。「ハッピーテラダ」さん。
調べてみると、ハッピーテラダは京都、滋賀に6店舗展開するスーパーマーケットだそうです。ADDressさんの伏見の拠点からは駅内の成城石井さんが近いですが、お高いのでここまで買いに来ようかなぁ。
こんなところにカフェがございました。「Cafe K's」
喫茶を楽しめるほか、無農薬珈琲豆を使用した炭焼き七輪珈琲の販売も行っているようです。おじカフェしたいところでしたが、さきほぼ焼きたてパンで珈琲を頂きましたので、また是非次の機会に。
ここにもスーパーが。「万代 丹波橋店」。
万代は、大阪府を中心に奈良県、兵庫県、京都府、三重県の2府3県にスーパーマーケットを展開する企業です。1960年代に関西ローカルのみで放映された「万代百貨店」時代の静止画によるテレビCMと、男女声による特異なCMソングは、いまだに語り草となっているそうですね。関西の方ならだれもが知っているスーパーと言えばいいでしょうかね。
丹波橋の名前の由来となった丹波街道の壕川に架かる「丹波橋」を渡ります。
この橋、400年前、伏見城の外堀にかかっていた橋で、この丹波橋という街の由来はこの橋から来ているんです。
伏見の歴史は、伏見稲荷大社や御香宮などの古社を持ちだすと話はややこしくはなりますが、もともとは秀吉の伏見城築城に伴う街区整備に始まります。現在の伏見区の中心部を見ても、そこの町名や通り名から基本的な枠組みが秀吉時代に作られたことが窺われます。川の流れも街区に沿った形になっているのです。
「ワッツ丹波橋店」
こちらは100円ショップのようです。ホワッツ?ダイソーじゃないんですね。この辺りではワッツのほうがお馴染みなのかな?
街並みを歩いていても歴史を感じさせてくれます。この街はあの秀吉が伏見城を築城したときに作ったんだなぁとしみじみとおもいながら、ぶらり散歩を楽しみます。
京都市伏見区にある丹波橋駅付近のパン屋さん「モルレー(MORLAiX)」。
地元に深く愛される優しい味わいの街のパン屋さんです。ここでも実はパンを買ってADDressの伏見の拠点で頂きました。のちほどまたそのモルレーさんのパンもご紹介しますね(記事はこちら)。
こんなところにおうどんのお店が。「都六」さん。
牛すじカレーうどんがオススメのようですね。今日のランチは何にしようかなぁ。食べることばっかり考えてるから一向に痩せません・・・。
ここからもう一度、近鉄丹波橋方面に歩いていきます。
再び伏見城の外堀だった濠川を渡ります。
明治になってから、琵琶湖疏水とつながれたんです。丹波橋周辺には、 学校施設や呉竹文化センターなどがあり文化教育のまちとしても知られています。
こんなところにあの「宝ホールディングスの歴史記念館」が。
宝ホールディングスの会社創立90周年事業として、グループの歴史や経営戦略を国内外のグループ社員と共有化するための研修施設で、会社創業の地に設置されたんだそう。
そう、この濠川流域には酒造会社が多く、大きな工場や白壁の酒蔵が並び、伏見らしい景観を作り出しているんです。つまり小生のような呑み助の街というわけでございます。
この辺りは両替町。
その町の命名通り、昔、この辺りに両替所があったことが伺えます。
こんなところにカフェが。ランチとケーキのお店「キャンバス (canvas) 」
ヘルシーな「五穀ごはん」がおススメのようですね。早朝だったので、閉まっていました。
再び、京阪と近鉄線を越えて今後は桃山町の方向へ歩いていきます。
京阪ファンと近鉄ファンはどちらが多いんだろう。
生まれが名古屋の小生は、名古屋と母方の実家の三重との間を走る近鉄特急に乗るのが大好きでした。なもんで、京阪ファンには申し訳ありませんが、近鉄に一票を投じさせて頂きます。
「桃山井伊掃部(ももやまいいかもん)」
この周辺には、城と大名屋敷にちなむ地名が多くみられます。筒井伊賀、長岡越中、水野左近、福島太夫、毛利長門、羽柴長吉、松平筑前など。へぇ、小生の名前がもしつくのであれば、民人(たみと)というところでしょうか。いや太美都(たみと)かな・・・。そんなことどうでもええがなって怒られそうです。
「伏見区桃山長岡越中南町」の交差点まで歩いてきました。
京都府京都市から奈良県奈良市を経て、和歌山県和歌山市に至る国道24号を超えます。この道をずっと走ると和歌山までいくわけです。関西圏では国道171号や国道176号(三田市以南)とともに渋滞酷道と呼ばれるほど渋滞が慢性的なんだそう。
小生は全国の酷い道路の酷道マニアであるものの、渋滞は勘弁ですな。
奈良線の踏切を渡ります。
この後、伏見桃山城を見物したあと、桃山駅辺りまで足を運んでみたいと思います。
ここから「桓武天皇 柏原陵」へ向かって歩いていきます。
なにやら神々しい参道へ出て参りました。
そうここは宮内庁が平安遷都で有名な桓武天皇の墓所としている柏原陵(かしわばらのみささぎ)がある場所です。
実際の墓所の正式な場所は所在不明なんですが、ここは考証の結果、明治時代に治定されたもの。仁徳陵より広大だったと記録に残りっていますが、鎌倉時代から室町時代の動乱期に所在不明になったんだそう。
きっと広すぎて訳が分からなくなったんでしょう。さらに秀吉がこの場所に伏見城を築城してから、さらに訳が分からなくなったんでしょうな。
桓武天皇は、平城京から長岡京、さらには平安京に都を移した日本の第50代天皇でございます。平城京では、仏教各寺が政治に深く入り込んだり、豪族が不正を行ったりしたため、784年に長岡京に都を移しました。
さらに長岡京では天災や近親者の不幸・祟りが起こり、その原因を天皇の徳がなく天子の資格がないことにあると民衆に判断されるのを恐れて、わずか10年後の延暦13年(794年)に泣くようぐいす平安京で知られる平安京遷都を行ったのです。こうして首都の奈良から京都に都が移ったわけでございます。
桓武天皇の柏原陵(かしわばらのみささぎ)を歩きます。宮内庁からのお達し。
日本において「陵墓(りょうぼ)」とは、皇室の墳墓の総称。ちなみに、天皇、皇后、太皇太后、皇太后を葬る所を「陵(みささぎ)」、その他の皇族である皇子や皇女を葬る所を「墓」といいます。
宮内庁管理の陵墓は、北は山形県から南は鹿児島県まで1都2府30県にわたって所在しているので皆様が住んでいる県にも、陵墓が存在するはず。
なんせとにかく広い!!
「兆域東八町、西三町、南五町、北六町、加丑寅角二岑一谷、守戸五烟」とあって、広大な陵域を占め、永世不除の近陵として歴朝の厚く崇敬するところであったそうです。
着きました。「桓武天皇 柏原陵」。
柏原陵には入れませんので、外から陵を写真撮影。
ひっそりと佇む桓武天皇柏原陵。『日本後紀』によると、陵所ははじめ山城国葛野郡宇多野の地に定められましたが、災異が相ついだのでその地をさけ、大同元年(806年)4月7日同国紀伊郡の柏原山陵に葬ったとされますが、『類聚国史』によると、さらにこの年10月11日に柏原陵に改葬したんだそう。
桓武天皇は、光仁天皇と渡来系氏族出身・高野新笠(たかののにいがさ)の子として誕生しました。光仁天皇即位以前は山部王と称され、当初は皇族としてではなく官僚としての出世が望まれて、大学頭や侍従に任じられたそうです。
桓武天皇と言えば、皆様何を思い浮かべます?前述した通り、平城京から長岡京、さらには平安京に都を移すという二度の遷都も有名だけれども、蝦夷(えみし)との戦いも有名です。日本史にも登場する蝦夷征討(えみしせいとう)は記憶にあるという方もおられるのではないでしょうか。
桓武天皇は、東北部から東北地方にかけて住み、朝廷に服従していなかった蝦夷(えみし)と呼ばれる人々を服属させ東北地方を平定するため、3度にわたる蝦夷征討を敢行したことでも有名です。蝦夷(えみし)は,大和(やまと)政権の時代から、東北地方で大きな勢力を持っており、言葉や風習も違って,朝廷から異民族と見られていたようです。
桓武天皇から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)が大軍を率いて東北地方に遠征しました。蝦夷は、アテルイなどの指導者を中心にはげしく応戦しましたが,坂上田村麻呂によっておさえられ、こうして朝廷が支配する地域は北へ広がっていくわけであります。
あ、どこへ行っているか申し上げてなかったですね。
これから豊臣秀吉の築いた伏見城の本丸跡地へ向かいます。陵の敷地の桃山には、後程ご紹介する明治天皇の陵(みささぎ)である伏見桃山陵(ふしみのももやまのみささぎ)もあります。そしてすぐ東には皇后である昭憲皇太后の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)も隣接しています。
今、跡地といいましたが実際には復元された1500年代の城の模擬天守、伏見桃山城が存在しています。
そう今回のたみ散歩は見所満載のツアーと自負していいかと。いやいつも見所満載だと自分では思ってますよ(笑)。ただ、不思議ちゃんスポットが多いのも事実ですが・・・。
この後、この伏見桃山城がある運動公園をぶらぶらと散策してみます。
いよいよ伏見のシンボルでもある伏見桃山城を散策します。
読者の皆さまにもこれから伏見桃山城をお見せします。
準備はいいですか。3・2・1、はい!!
これが伏見桃山城運動公園のシンボル「伏見桃山城」でございます。紛らわしいんですけど、この天守閣は豊臣秀吉・徳川家康の「伏見城」とは全くの別のものです。
運動公園のお城は、昭和39年に開園した遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」の目玉施設として建築された模造天守。その後、キャッスルランドは、平成15年1月に閉園となり、その際、お城も取り壊される予定でしたが、存続を求める市民の皆様の要望により、伏見のシンボルとして運動公園に引き継がれ、現在では映画やドラマの撮影等にも活用されています。
もっと間近に行ってみてみましょうかな。
見事な天守閣じゃありませんか。もう摸擬天守でもなんでもござれと言っていいでしょう。
ただ、老朽化が進んでいるため中に入れなくなったのは残念です。
「引野收樹霊碑」に「昭和の子規」と呼ばれた引野收(ひきのおさむ)が詠んだ歌が紹介されていました。
「永遠とおもえる ながき時のなか 樫立てり黄なる 彩雲の果て」。引野收は、伏見桃山城の北西桃山町正宗坂で40年間にわたり絶対安静の寝たきり生活を送りながら歌人である妻の濱田陽子とともにいのちや平和の尊さを歌い続けたそうです。正岡子規も病床にありながら歌を詠み続けたので、引野收は「昭和の子規」と称えられたのです。
桃山の美しい夕景だけではなく、永遠に生き続ける樫の樹々に、生きることへの賛歌、平安の祈りがこめられています。なお、この公園の北側、上板橋通りを東へ歩むと八科峠に濱田陽子の歌碑「峠路は やすらぎに似て 風吹けり 石も木草も なべてかがやく」の歌碑があります。
伏見桃山城を裏から眺めます。
「桃山の 聳える城を 見て思ふ 時流れれば 真なれぞ」 by たみと
「京都一周トレイル東山コース」。
京都一周トレイルはこの東山コース以外にも北山東部・西部、西山、そして京北のエリアがございます。京都観光は伏見稲荷大社や金閣寺、嵐山とったスポットだけでなく、トレイルを歩くとまた違った京都の顔が見れるかもしれません。
「伏見桃山城運動公園野球場」が見えてきました。
この日は野球の試合はやってないようです。運動公園なので、多目的グラウンドもあります。
高校のとき、運動音痴な小生が組んだチームは「ベンチャーズ」という名前だったかな・・・。
伏見桃山城運動公園の多目的グラウンドの裏手から伏見城の外堀の遺構を利用した「伏見北堀公園」に行ってみます。
堀の跡ということで、公園全体が深い谷のような形をしています。
伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地でありました。
伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めました。
このとき築かれたものを「指月伏見城(しげつふしみじょう)」、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを「木幡山伏見城(こはたやまふしみじょう)」と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられます。
指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊したんです。
慶長伏見大地震は、京都府京都市伏見区付近で発生した大地震で、伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は1,000人を超えました。
そのため、秀吉は指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き、翌1597年(慶長2年)に完成をみます。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没したんです。隠居後に築いた2つの城にはわずかしか住んでなかったんですねぇ。
「憩いの広場」
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとりました。
関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失しました。
焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、1619年(元和5年)に廃城とされました。このとき建物や部材は二条城、淀城、福山城などに移築されたんです。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、現代に至り伏見城は桃山城あるいは伏見桃山城とも呼ばれるようになったんです。(伏見城 Wikipediaより)
ここから公園を抜け、その桃山地区を散策してみます。
この辺りは高台なので、歩きながら桃山町を望みます。
こんな所に陶芸のお店が。うつわの店「紅雪窯」
伏見のぶーにゃんさんのこちらのブログで店内がご紹介されていました。素敵なお店ですね。
ここから「桃山南口駅」方面に歩いていきますよ!
歩いていたら「伏見城」石垣の説明文がありました。
この石垣は、昭和五十二年(1977)に学校から北に約300m離れた桃山町紅雪にて、工事中に偶然発見されました。ここにある石垣は、見つかった長さ100m分のうち、特に残りがよい十五メートルを移築したものです。
石垣は、天下統一を果たした豊臣秀吉が、文禄五年(1596)に築いた伏見城のものと考えられます。伏見丈は(1623)に徳川幕府の命令によって廃城となり解体されますが、発見された石垣は土の中にある土台の部分であったため、残されたと考えられます。
伏見城の石垣で、現在残っているのはほとんどなく、当時の一流の土木技術を知る上でこの石は大変貴重なものとして京都市の史跡にも登録されました。
この辺りは「桃山町伊庭」あたりを歩いています。
「桃山東小学校」がありました。
さすがお隣が伏見城ですので伏見城探検プログラムが目白押しです。京都宇治線がある「桃山南口駅」まで歩いてきましたが、今回はそこはターゲットじゃないため、線路を渡らず伏見城の外堀を歩いていきます。
この辺り昔の街並みが残っています。
「伏見城御舟入址」
文禄年間(1592~95)伏見城を築くのと並行して宇治川の河道を現在のように伏見城下へ迂回させたが、慶長の大地震後新しく天守閣を木幡山に造るに当たって、宇治川と山科川との合流点に御舟入(河港)を設けました。御舟入は、この付近が、伏見城再建の際に、木材や石材などの建築資材を運び入れるための河港だったことを表しています。
又、慶長8年7月、徳川家康の孫娘千姫が大坂城に在る豊臣秀頼のもとへ輿入れのとき、この御舟入から乗船した有様が諸書に記されています。
ここからJRの高架下を渡り、「桃山駅」方面へ歩いていきます。
なにやら大きなストリートに出てきました。
今後は「明治天皇 伏見桃山陵」を参拝するために再度、伏見城がある園内へと入っていきます。
とにかく緑が豊かです。
この右側が「明治天皇 伏見桃山陵」あります。
1. みだりに域内に立ち合いらぬこと
2. 魚鳥等を取らぬこと
3. 竹木等を取らぬこと
との宮内庁からのお達しがあります。
世の中に園内に入ると、かなりの確率で遭難しそうではあります。
皆様準備はいいですか。見てください。この立ち構える何十段もある階段。
そう「明治天皇 伏見桃山陵」を参拝するためにはこの階段を上らないといけないです。
「明治天皇 伏見桃山陵」を参拝するためにこの階段を上ります。なんと230段の石段を登るわけです。
見てください。ここからだと桃山町が一望できます。
ふぅ、なんとか登り切りました。じじいにはかなり堪えますね。本当に息が上がります。
手水舎で水を飲みたいですが、ここは我慢して身を清めます。
ここが「明治天皇 伏見桃山陵」でございます。
伏見桃山陵(ふしみももやまのみささぎ)は、近代的立憲国家の確立に尽力された第122代 明治天皇 [1852年-1912年] の陵墓です。以前は関西の修学旅行なら伊勢神宮と伏見桃山陵は、必ず参拝しなければならいと言われたほどです。
「桃山の みささぎ思えば 大帝の 乱世巡りて 息安らかに」 by たみと
ここから奈良線の「桃山駅」方面へ歩いていきます。
参道には、伏見城石垣に使用されていたと思われる石財がごろごろと転がっております。
桃山駅から「明治天皇 伏見桃山陵」へ向かうとこの参道を登っていくわけです。
「明治天皇 伏見桃山陵」へは「桃山駅」から向かってもいいですし、「桃山南口駅」から行ってみてもいいですね。ただ、桃山南口から登ると230段の石段を上るわけですが・・・
桃山駅方面から登る伏見桃山陵への入り口。
御覧の通り、「桃山御陵参道」とあります。
この辺りは「桃山筑前前台町」。どこへ行っているかというと、まだ昼ご飯を食べてなかったので飯どころを探しているわけです。
お食事処「筑前」さんに来ました。
今日はここで腹ごしらえします。その様子もお届けしますね!(記事はこちら)
ここから再び丹波橋方面へ歩いていきます。
15.1kmを6時間48分9分かけてぶらり散歩致しました。
気づけば15kmも歩いておりました。
如何でしょうか。歴史的な建造物が多く見られる京都伏見区の丹波橋。皆様も、「伏見桃山城」や「明治天皇 伏見桃山陵」を散策し、京都の街並みを楽しんでみては如何でしょうか。
written by たみと@いつでもどこでも働ける、リモートワーカーという生き方