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2015/11/19 「ガイズ&ドールズ」

★ブロードウェイミュージカルはクセになる

 「ガイズ&ドールズ」は古き良きブロードウェイらしいミュージカルだ。能天気なほどの明るさ、ギャンブルと恋という道具立て、そしてラストはハッピーエンド。私は見事にこれにハマって繰り返し観劇することになった。普段どの公演も一度か二度しか見ない私にしては異例の事で、自分でもびっくりである。

 私がこのミュージカルのどこが気に入って、なぜ東京宝塚劇場に通いつめることになったのか。大劇場で観た時に一度感想は書いたのだけれど(2015/08/27 「ガイズ&ドールズ」参照)、もう一度ここに書き記しておこうと思う。

★キャラクターとストーリーの見事さ

 この作品の面白さは四人の主要登場人物のキャラクターが際立っている点にある。ギャンブラーのスカイとキリスト教の伝道師サラという立場のかけ離れた二人が恋に落ちる。対極を成すもう一組のカップルが、14年間も結婚するする詐欺状態の男ネイサンとその恋人でナイトクラブの歌手兼ダンサーのアデレイド。相思相愛ではあるのだが、ギャンブルの所場代稼ぎを生業とするネイサンには家庭を持つ気がまるでない。

 ふた組のカップルそれぞれの恋物語の背景には、クラップゲームと呼ばれるギャンブルに興じる大勢の男たちが存在する。ニューヨーク市警のブラニガン警部がにらみを効かせる中で、ネイサンには警察に見つからずにギャンブラーたちが思う存分ゲームを楽しめる「賭場探し」の難題が待ち受ける。

 ストーリーも実に良く練られている。スカイとサラの恋とネイサンの賭場探し。2つのエピソードは早朝、教団支部の前で交錯する。スカイはそれまで誰にも教えたことのなかった本名「オベディア」をサラに伝えて思いを打ち明けるのだが、突然、教団支部からギャンブラーたちが飛び出し、警官隊が駆けつけて辺りは騒然となる。

 男たちが真夜中の教団支部にこっそりと入り込んでギャンブルをしていたと知ったサラは心の扉を固く閉ざし、スカイは途方に暮れる。
直前まで恋の喜びにあふれていた男が、哀しみに暮れてた背中を見せて去っていく一幕のラストは素晴らしい。ロマンチックな場面から一転コミカルで騒々しいドタバタ場面へ、そして再び静かな場面で終わるという一幕終盤の流れは、何度見ても見飽きることがなかった。

★功労者は妃海風のサラ

 今回の星組版では北翔海莉という歌に絶対的な強みを持った新トップスターがスカイを、紅ゆずるという軽味のあるコミカルな芝居を得意とする男役がネイサンを演じたことで見ごたえのある、それでいて芯から楽しいミュージカルになった。礼真琴という男役ながら芸達者で歌える役者がアデレイドを演じたことも、作品を一段とレベルの高いものにしたと思う。

 だが、私自身が一番夢中になったのは、意外にも上記の三人ではない。ヒロインのサラを演じた妃海風、その人だった。妃海サラは可愛いいだけではない。自分の仕事に悩み、好きになった男性がギャンブラーであることに戸惑い、それでも自分を律しようと必死にもがいている。そんなところが妙に現代的なのだ。

 サラはこれまでにも柄の悪い男や、まったく自分の好みじゃない男に言い寄られたことがあるのだろう。しかも、そんな男たちと関わる羽目になるのは、自分自身の生き方に落ち度があるせいだと信じている。「罪に惹かれ、異常に罪を恐れる女、そう言ったのはあなたが初めてではないわ」という台詞からは、そんな姿が透けて見える。

 ハバナに出かけ、お酒を飲んで開放的な気分で弾けてスカイに思いを打ち明けても、教団に戻ってくると自分が得た快楽はやっぱり罪だった、だから神の罰を受けたと思い込んでしまう。いかにも身近に居そうな等身大なヒロイン。しかも、妃海は決して慣れてしまうことなく新鮮にサラを演じていて、そんな姿を見るのは私にとって毎回楽しみだった。

 妃海は歌もうまい。サラの歌う「私がベルなら(IF I WEERE A BELL)」、スカイと二人で歌う「私には分かる(I'LL KNOW)」「はじめての恋(I'VE NEVER BEEN IN LOVE BEFORE)」。どのナンバーも歌詞がクリア、透明感のある歌声は素晴らしかった。

★聖書とギャンブルの用語を紐解く

 その一方で、1950年代のアメリカンミュージカルならではの難しさも感じた。聖書とギャンブルという馴染みの薄いテーマが絡んでいる上に翻訳台本での上演だからということもあるのだろう。私自身、何度か観劇した後調べ物をしてようやく「理解できた」ことも少なくなかった。

 例えば、サラの所属する教団の名前は実在する「救世軍」(The Salvation Army)ではなく、架空の宗教団体「Save a Soul Mission」だというのは、何度か見て初めて分かった。外から見た時には教団の窓に、教団内部の場面では舞台上部にデカデカとこの名前が掲げられている。実際、この教団は周囲の人々から「お説教集団」とか「ミス サラ・ブラウンの教団」とか単に「教団」と呼ばれているだけだ。

 「救世軍」の名前が出てくるのはたった一度、スカイがラストシーンで歌う歌の歌詞としてのみ。もともと英語で歌われていた曲に日本語の歌詞をのせるのは確かに難しさが伴う。そこで、歌の部分だけはわかりやすいように「救世軍」という実在の団体の名前を使ったのではないかと想像する。

 台詞の中に出てくる言葉もすぐには理解できずに、後で調べたものがいくつかあった。

 「シャドラック、メシャク、アベドネゴの三頭を当てたよ」(スカイ)。

 私はこれを「三都」と聞いてしまって、初めのうちは聖書に出てくる地名をネタに賭けでもしたのかしら?などと思っていたのだが、調べてみたらこれは人名。シャドラック、メシャク、アベドネゴの三人は、バビロン王ネブカドネザルの建てた金の像をひれ伏して拝むようにという命令に背いて燃え盛る炉の中に投げ込まれたが、神の遣わした使者の力で髪の毛すら燃えなかった……というエピソードが聖書の中にあるらしい。スカイはこの聖人たちにちなんだ名前の馬に賭けて、レースで勝ったことがあると言っているのである。

 「箴言(しんげん)?これは間違いだ」(スカイ)。

 「邪悪なる者に平穏なし」(There is no peace unto the wicked)と書かれた看板を見たスカイはこうつぶやく。サラはスカイがギャンブラー(=邪悪なる者)にも平穏はあると言いたかったのだろうと思って「考え方の違いですわ」と突っぱねるのだが、スカイはこの言葉の出典が聖書の「箴言」ではなく「イザヤ書」だと続けるのだ。「箴言(Proverbs)」は旧約聖書の中の一書。賢人の言葉や金言、勧告が集められたもの、イザヤ書は預言者イザヤによる聖書中最大の予言書、だそうだ。

 「I O U(アイオーユー) 1000ドル」(ネイサン)。

 下水道でビッグ・ジュールの書いた借用書を読み上げるネイサンの台詞。IOUとは英語で金銭借用書を意味する略称なのだそうだ。I owe you」(私はあなたに借りがある)から来た言葉だと思われる。つまり、ビッグ・ジュールは「IOU 1000$ ×」と書いてネイサンに渡したのだ。「×」を見て驚くネイサンにビッグ・ジュールは「算数は得意だったが国語は苦手だった」と言う。

 私はこれを真に受けて、ビッグ・ジュールは文盲なのだと思いこんでいたのだが、人によってはこれを「ワザとこう書いた」と見た観客も居たようだ。つまり、ビッグ・ジュールは最初から借用書を書く気がないのでまともにサインしないのだ、と。目のないサイコロを持ち出してくるような男だけに「名前が書けない」というのも嘘というのは確かにあるかもしれない。

★「彼女はハバナに連れて行けなかった」の真意は?

 だが、台詞の端々の細かな部分より私に取って難しかったのはスカイという男のキモチの方だ。なぜ、スカイは「彼女はハバナに連れて行けなかった。(賭けは)俺の負けだ」と、ネイサンに1000ドル払ったのだろうか。ここは何度見ても引っかかった。

 最初にこのシーンを見た時は、「ハバナに連れ出すことには成功したが、落とせなかったので自分の負け」というプライドの高さから出た言葉かと思ったのだが、それではどうも腑に落ちない。「連れて行けるか」を賭けたのだし、実際サラがその晩、教団の人々と一緒にいなかったことはネイサンも知っている。

 「サラはハバナに行かなかった」とした方が何か良いことがあるのだろうか。旅立つことを心に決めているスカイ自身にはあまりメリットはなさそうだ。だとするとサラを気遣ってのことだろう。ギャンブラーたちも二人が一緒にハバナに行ったと思っている。自分のいないブロードウェイで、サラが男たちから下品な言葉で辱められることは想像に難くない。ひょっとしたら、それを避けようとしたのではないのか。

 「俺とサラはハバナには行ってない」(ことにしておいてくれよ)とネイサンに1000ドル渡して念押ししたのだとすれば、ネイサンが教団で懺悔に名乗りでて、「ある男と、ある女をハバナに連れて行けるかどうか賭けをした。でもするべきではなかった。でも結局俺が勝ったから、大して害はなかったんですけどね」とわざとらしく告白したのもわかる。「二人はハバナに行ってない」と周囲のギャンブラーたちに聞かせるためだったのだ。

 だが、一緒に観劇した夫は「それは男性の考えることではない」と言う。彼は「スカイはサラに振られてものすごく傷ついているんだ。ハバナでの出来事は全部なかったことにしたい、それ以上は考えていないよ」と言うのである。

 でも、夫の想像通りだとしたら、ネイサンのあの懺悔の意味は? 彼は教団の深夜ミサにやってきて、スカイとサラの様子を見ただけで、スカイが彼女に惚れているのに気づいて、サラが旅立とうとする彼の後を追うよう一芝居打ったというのだろうか。確かにネイサンは色の道、恋の駆け引きはスカイより遥かに長じてはいると思うけれど、少々察しが良すぎるようにも感じる。

 まぁ、観客には想像の自由があり、正解なんてないのかもしれない。女は女の視点で想像し、男は男の視点で見れば良いのだろう。

★「結婚してあの人を変えよう」のポジティブさがいい

 深夜ミサの盛況を見ると、スカイは後をネイサンに託して旅立ってしまう。彼を追って街に出たサラは、ネイサンに逃げられたアデレイドと出くわす。二人はお互いの恋人がギャンブルに夢中であることを嘆くのだが、その嘆きの中で突然目覚めるというのがなんともアメリカ女性らしい。

 「買わないドレスは返せないわ」(アデレイド)「果物買うとき調べられない。まずいまずいメロン買わされるかもね」(サラ)と歌って、二人は人生は実はギャンブルだと思い至る。意気投合して「結婚してあの人を変えよう」と言い出すとは何とポジティブ、日本じゃまず考えられない展開だ。

 そして、ラストシーンはふた組の幸せなカップルの笑顔と祝福する人々の姿で締めくくられる。観客はネイサンがついに年貢を納め、スカイがサラに捕まったことを知る。女たちは見事に願いを叶え、男たちはそうなってしまったことを満更でもない顔で受け入れていて、それはそれで幸せそうに見える。まさに「男たちがすることは、すべて女のため」という歌の通りのハッピーエンド。

 私は幸せそうな二人の女ではなく、二人の男の姿の方にジーンときてしまう。北翔スカイも紅ネイサンも、実は気のいい男であり、ギャンブルに手を染めて人生の裏街道を歩むのは似合わない。女たちに陽の当たる場所に引っ張り出されて良かったじゃない、そっちの方がずっと似合うわよ、と思う。

 先日とあるSNSで、このミュージカルを見に行ったカップルが結婚を決めた、という話を読んだ。どうやら「結婚なんてギャンブル」という物語のポジティブさに後押しされたらしい。ハッピーエンドのミュージカルは見るものを幸せな気分にし、少しだけ前に踏み出す勇気をくれる。

 少々ご都合主義だっていいじゃない。世間には不景気の世知辛い風が吹き、世界のどこかで戦争やテロが絶えない時代だからこそ、ハッピーエンドには大きな価値がある。私がこの物語を心から愛するのはこの底ぬけの明るさ故なのだ。ハッピーエンドは常に善である、と私は声を大にして叫びたい。

【作品データ】ブロードウェイ・ミュージカル「ガイズ&ドールズ」は1950年にブロードウェイで初演されたコメディ・ミュージカル。潤色・演出を酒井澄夫が担当。星組が2015年8月21日〜9月28日に宝塚大劇場で上演した後、10月16日〜11月22日には東京宝塚劇場で続演した。なお、この公演は星組の新トップコンビ北翔海莉、妃海風の大劇場お披露目公演でもある。

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