2015/8/18 「王家に捧ぐ歌」
★「アイーダ」ふたたび
「王家に捧ぐ歌」を宙組で再演すると聞いたときは本当に驚いた。なんて無謀なことを、歌劇団はいったい何を考えているのか。再演祭りは昨年で終わりじゃなかったのか、と半ば怒りに近い感情さえ湧きおこった。それほどに初演の印象は強い。
オペラ「アイーダ」を下敷きにした「王家に捧ぐ歌」の初演は12年前の星組。トップスターの湖月わたるが主人公ラダメス、トップ娘役檀れいがアムネリス、男役の安蘭けいがアイーダを演じた。
「うぉぉぉ!」と雄叫びをあげる湖月ラダメス、全身金色の豪華な衣装で美しく輝く檀アムネリス、「戦いは新たな戦いを生むだけ」と平和への願いを高らかに謳い上げる安蘭アイーダ。彼女たちの姿を、私は今でもありありと思い出すことができる。
再演が初演を超えることはないと思う。でも、予想は裏切られることもある。何しろあれから12年も経っているのだし、大幅な改訂が行われていないとも限らないのだから。そう自分に言い聞かせて、私は東京宝塚劇場へと足を運んだ。
★宝塚版オペラ「王家に捧ぐ歌」
「王家に捧ぐ歌」の舞台は古代エジプト、囚われの身であるエチオピア王女アイーダと、彼女を愛するエジプトの武将ラダメス、彼を愛するファラオの娘アムネリス、三人の愛憎と戦争がもたらす悲劇を描いた物語である。
脚本・演出は木村信司。宝塚ファンは彼をキムシンと呼ぶ。キムシンはかつてオペラを題材にした大劇場作品を連続して手がけていた。「王家に捧ぐ歌」は「ばらの騎士」を題材にした「愛のソナタ」(月組)、「トゥーランドット」を元にした「鳳凰伝」(宙組)に続く第三弾だったと記憶している。
作風は宝塚版オペラともいうべきもので、物語はほぼ全編が歌とコーラスで綴られていく。衣装も舞台セットも豪華で壮麗。主要キャストはもちろんだが、いわゆる「その他」の人々が大勢口として舞台に登場し、コーラスとして舞台を盛り上げるという特徴がある。「王家に捧ぐ歌」もその例にもれない。一言でいうならば、見ためには大変派手で、そして登場人物たちが歌って歌って歌う作品だ。
★トップ娘役実咲凜音がアイーダ役に
おもな配役は以下の通り。
ラダメス(エジプトの軍人)………………………………朝夏まなと
アイーダ(捕虜となったエチオピア王女)………………実咲凜音
アムネリス(ファラオの娘)………………………………伶美うらら
アモナスロ(エチオピア王、アイーダの父)……………一樹千尋
ファラオ(エジプト王)……………………………………箙かおる
ネセル(エジプトの神官)…………………………………寿つかさ
ファトマ(アイーダに仕える侍女)………………………美風舞良
ウバルド(エチオピア王子、アイーダの兄)……………真風涼帆
カマンテ(エチオピア王の元家臣)………………………澄輝さやと
サウフェ(エチオピア王の元家臣)………………………蒼羽りく
ケペル(エジプトの将校)…………………………………愛月ひかる
メレルカ(エジプトの将校)………………………………桜木みなと
ワーヘド(アムネリスに仕える女官)……………………純矢ちとせ
ヘレウ(エジプトの神官)…………………………………凛城 きら
メウ(エジプトの神官)……………………………………松風 輝
初演と大きく違うのは、トップ娘役の実咲凜音がアイーダ役を演じること。アムネリス役は二番手格の娘役である伶美うららである。
専科から特別出演が二人。アモナスロ役の一樹千尋とファラオ役の箙かおるは初演も同じ役で出演している。上記に名前のない男役はエジプト戦士かエチオピアの戦士、女役はエジプトの女官かエチオピア人の囚人の役を務めている。
★新生宙組トップコンビの若さが溢れる
物語の幕開きに登場するのはアイーダの兄ウバルド役の真風涼帆。星組から宙組に異動して二番手男役となった真風は、幕開きの台詞もどこか華やかで若々しい。初演でウバルドを演じた汐美真帆が、暗い目をした鬼気迫る雰囲気だったのに比べると、意外なほどあっさりした出だしである。
続いて、ラダメス(朝夏まなと)とアイーダ(実咲凜音)が二人で小船に乗って登場する。スポットライトが当たるとそこはもう宝塚歌劇の世界。これから始まる二人の愛の物語を予感させる美しさと華やかさがある。
ラダメス役の朝夏まなとは、細身で手足が長く、顔つきも優しげ。一陣の風が吹き抜けるような爽やかさがある。初演の湖月のような武将らしい雄々しさはないのだが、主人公ラダメスのまっすぐで、一途に思いを貫こうとする若者らしさがよく出ている。何より、朝夏の声は透明感があって非常によく通る。将軍に選ばれる期待を歌った朝夏のソロ「エジプトは領地を広げている」も、歌詞が聞き取りやすい。
アイーダ役の実咲は歌の得意な娘役だけあって、名曲「アイーダの信念」も危なげなく聞かせてくれる。エジプト人だけでなく、同胞のエチオピア人からも非難されて孤立しても、決して屈することのない気の強さも十分に出ている。娘役にアイーダを任せて大丈夫なのか、というファンの不安を打ち消すなかなかの好演。
朝夏と実咲はこの作品がミュージカル「TOP HAT」に続く2作目だが、花組時代から何度か一緒に作品を作っていることもあってか、息のあった、それでいてフレッシュなコンビぶりを見せている。
★アムネリス役は伶美うらら
アムネリスという大役を伶美うららが射止めたことには正直言って驚いた。彼女の持ち味は娘役というより女役で、落ち着いた雰囲気の人妻役をうまくこなす人という印象があったのだが、なかなかどうして今回のアムネリスははまり役だった。
第一幕の見どころの一つは、アムネリスがアイーダを呼びだし、女官たちとともに彼女を攻め立てる場面だ。「ラダメスが戦場で死んだ」と告げ、悲しむアイーダを見て、彼女が心からラダメスを愛していることを確めた上で冷たい言葉を浴びせる。
伶美は大人びた容貌の美女として登場し、「ファラオの娘」という地位と輝くばかりの美貌で「欲しいものはなんでも手に入れてきた」と歌う。これまで歌を苦手にしてきた伶美にしては地声がしっかり出ている。裏声になると途端にボリュームが小さくなるのは欠点だが、芝居歌としては十分に聞けた。
アムネリスはラダメスとアイーダが互いに思いを寄せているのを「秩序の乱れ」と見なし、ラダメスの心は必ず自分のものになると信じている。その自信には微塵の揺るぎも感じられない。王女らしいプライドの高さと政(まつりごと)に関わる者の持つ威丈高な雰囲気があって、堂々たるものだった。初演の檀アムネリスを相当研究したのだろう。醸し出す雰囲気がよく似ている。
これに対する実咲アイーダは、恋する乙女でありアムネリスの策略に翻弄されるがまま。初演の安蘭アイーダは真実を見抜く「智」の人であり、そこが王女らしい品格につながっていたのだが、実咲はどこまでも「愛」の人。恋に落ちたらラダメス一筋の情熱的な女性に見えた。
★華やかな凱旋、そしてラダメスの願い
一幕のもう一つの見どころはエジプト軍の凱旋場面である。初演ではロシアから著名なバレエ振付家プリセツカヤを招聘していたが、今回の振付は麻咲梨乃(まさきりの)。調べてみたら歌劇団OG(62期)の方だそうだ。
エキゾチックな音楽に乗せて、美しい軍服に身を包んだエジプト軍の兵士たちが舞台中央から次々と現れ、輿に乗ったラダメスが登場する。やがて、舞台上に扇型の陣形をとって、ゆったりしたリズムに合わせたダンスへと変わる。センターを取るのはもちろん朝夏ラダメス。手足の長さとダンスでの美しい身のこなしがライトに映える。私の座っていた2階席からの眺めは実に壮麗で華やか、朝夏のトップスター就任を飾るにふさわしい場面だった。
そして、もう一人忘れてはならないのが箙ファラオの存在感だ。ラダメスが戦場での勲功を称えられる場面で、ファラオが釣り物に乗って空中から登場する。エチオピア人の解放を願うラダメスの意を汲み「これは平和への賭けだ。お前の言葉に賭けてみることにしよう」と語るファラオが、なんとも大きな包容力のある人物に見える。箙ファラオ、お顔を見るかぎり、昔より随分とお痩せになったようだ(衣装が大きく箙さんの体型は全くわからない)が、やはりこの役にはこの人あり。
★エジプトはすごくて強い
第二幕はスゴツヨ。これを語らずして「王家に捧ぐ歌」は語れない。戦争に勝って平和を享受し、エジプト人たちは享楽的な生活を謳歌する。そこで歌われるのが「エジプトはすごくて強い」という、なんだかベタな歌詞そのままの歌である。
キムシンの作品にはこういう身も蓋もない、情緒のかけらもないような歌がよく出てくる。歌詞を書くのは演出家の仕事なので、彼は意識してそういう歌詞を当てているらしい。オペラの歌詞って意外にそういうのが多いのだろうか。外国語だから気にならないけれど。
初演では叶千佳と陽月華(のちの宙組トップ娘役)が歌った。二人とも歌はまったくうまくないのだが、愛嬌があってとても愛らしかったのを思い出す。今回も二人の女官が中心となってこの歌を歌うのだが、残念ながら私はこの子たちの名前がわからない。
続いて場面は「美女選び」となるのだが、宙組には個性的な美女が少ない。女官たちがずらりと並ぶと、背が高くて見栄えのするせいこ(純矢ちとせ)に目がいってしまう。まぁ、そういうところがアムネリスの美貌を引き立てているとは言えるのだが。
市井の市民たちを中心に繰り広げられる美女選びの狂乱は、どこか現代の縮図をみるようでもある。そうだった、王家ってもともとかなり皮肉の効いた作品だった。だが、なぜか宙組王家はその皮肉を感じさせない。なぜだろう。
★ファラオの秘密
(この先、物語の結末に触れています。注意ください)
ラダメスがアイーダに愛を打ち明ける姿を、戦に負けて捕虜となったアイーダの父、エチオピア王アモナスロ(一樹千尋)がじっと見つめている。一樹アモナスロの芝居巧者ぶりは見事。白い鳩を胸に出いて「私のハトちゃん」とつぶやいて狂人のふりをする姿に娘のアイーダすら騙されてしまうというのに説得力がある。
アモナスロは密かにエジプトへの反撃の機会をうかがっていた。父は娘に「ファラオの警備が手薄になるときを、あの男(ラダメス)から聞き出せ」と命じる。
「ファラオの許しを得て、このエジプトで幸せになろう」と語るラダメスに、アイーダは「それはアムネリス様が許さない。ファラオはアムネリス様の父親。二人で幸せを得るには国を捨てるしかない」と訴える。そこでラダメスは「新月から14番目の夜にはファラオが石室にこもって一晩中祈りを捧げる。その夜は自分も警護の任を解かれる。エジプトを出るならその夜に」と彼女に告げるのだ。
ファラオの秘密を偶然に知ってしまったアイーダは、親子の縁を切ることを条件にそれをアモナスロに教えてしまう。これが、宝塚版アイーダのクライマックスとなる事件、「ファラオ暗殺」の引き金となるのだ。
★三度目の銅羅が鳴るとき
コーラスがファラオの石室に向かう時刻が迫ることを歌いあげる。銀橋の左側ではアイーダが、まもなく愛しいラダメスが自分の元へくると歌い、アモナスロがエジプトの未来を呪う歌を歌う。いよいよ運命の時がやってくる。この、クライマックスに向けての歌とコーラスの盛り上がりは素晴らしい。
石室に籠るときがくると、ファラオを周囲の人々を退け、ラダメス一人にその場に残るように命ずる。「アムネリスを妻として王族となれ、お前が次のファラオになるのだ」という突然のファラオの言葉に躊躇するラダメス。そこへアイーダの兄ウバルド(真風)、その部下カマンテ(澄輝さやと)、サウフェ(蒼羽りく)が乱入してファラオの命を奪う。ウバルドは「お前たちの中に裏切り者がいる」と呪いの言葉を吐いてこと切れる。
続く場面を見て私は驚いた。ファラオ暗殺後の混乱を「静まれ〜!」と遮ったのが朝夏ラダメスだったからだ。彼は「裏切り者は、たぶん私だ」と続けてうなだれる。それを合図に後ろからすすっと伶美アムネリスが進み出て「うろたえてはなりません!たった今から私がファラオとなり、エジプトを治めます」と続けた。
初演で「静まりなさい!」と一喝したのは檀アムネリスだったはずだ。その一言で私の心に鮮烈な印象を残したのだから間違いない。「キムシン、そこを変えるか!」と私は唸った。
変更の理由は容易に想像ができる。作品の決めのセリフをトップスター以外の、それも娘役が発するというのはスターの序列を重視する宝塚歌劇ではあり得ない。檀と伶美を同じ比重で使うわけにはいかなかったのだ。
★再演「王家に捧ぐ歌」は初演とは別もの
この後アムネリスはラダメスを捕らえさせると、エチオピアに兵を送ってこれを殲滅する。ラダメスは秘密を漏らした罪で死罪となり、地下牢に生き埋めにされる。だが、そこには密かにアイーダが潜り込んでいた。二人は抱きあい、ひっそりと息絶えるのである。
物語を結末まで見て、私はようやく悟った。再演「王家に捧ぐ歌」は初演とはまったくの別ものである、と。
初演には棘があった。アメリカ同時多発テロ事件からまだ2年しか経っていなかったあの頃、「王家に捧ぐ歌」のエジプトの繁栄がアメリカを、ファラオ暗殺する3人のエチオピア人が宗教的な背景を持つテロリストを暗示していることは誰の目にも明らかだった。
宝塚歌劇の作品を大輪の花を贅沢に使ったフラワーアレンジメントに例えるなら、当時の「王家に捧ぐ歌」はまるでサボテンだった。堂々たる姿だが、棘だらけで見るものを怯えさせる。ファンの間でも「宝塚は夢の世界、そこに重すぎるテーマを持ち込むべきではない」とキムシンを非難する声が上がっていた。
だが、湖月、檀、安蘭らは、そのサボテンのような異形の作品に大輪の花を咲かせることに成功した。とりわけ檀れいの功績は大きかった。彼女の美貌と娘役らしからぬハッタリの効いた芝居力が星組とキムシンを救った、と私は思っている。作品はその年の芸術祭で優秀賞を受賞し、賞賛の声はそれまでの非難の声をかき消した。
再演「王家に捧ぐ歌」は、ほぼ同じ内容でありながら、意外なほど宝塚歌劇らしい華やかさに満ちていて、棘の痕跡すら感じられない。国と国との間で引き裂かれそうになりながらも、愛を貫いて死んでいった若く凛々しい将軍と情熱的な異国の王女を描いたラブロマンス。とても華やかでドラマ性のある、こなれたエンタテインメント。私の目にはそんな風に見えた。
この印象の違いはどこから来るのだろう。キャストの個性の違い?それともキムシンの変節だろうか。12年という年月を経て、作品をとりまく環境が変わったのか。多分、そのすべてがYesなのだ。「王家に捧ぐ歌」は美しいラブロマンスとして生まれ変わった。いずれまた再演されることもあるだろう。
★若き宙組の行方を案ずる
最後に、もう一つだけ気になったことを。今、宙組でこの作品が再演された理由について、だ。
宙組は「大人の男」が演じられるスターの頭数が足りない私は思う。前トップの凰稀かなめと緒月遠麻が退団し、朝夏まなとの一期下の七海ひろきを星組に出して、代わりに入ってきたのが四期下の真風涼帆。全体に大幅な若返りとなったのが大きく響いている。
実際、エチオピア人カマンテ役の澄輝さやと、サウフェ役の蒼羽りくにしても、ラダメスの同僚ケペル役の愛月ひかる、メレルカ役の桜木みなとにしても、皆頑張っていることはわかるのだが「男役の芝居」という点ではもの足りない。宙組の男役スターは総じて芝居があっさりしていて、この作品に求められる男らしい猛々しさや激しさ、貫禄みたいなものは圧倒的に足りない。
「王家に捧ぐ歌」は元々役の少ない作品だ。メインキャストは男一人、女二人。朝夏まなとの他に実咲凜音、伶美うららがいれば、そして、それぞれの父親役に初演と同じ専科の二人を当てることができるなら、少々男役が駒不足でも上演できる。しかも、宙組は女役が強く、コーラスが得意。まさに、今の宙組の状況はこの作品を上演するのにうってつけ。そう思いついた人がいても不思議ではない。
ひょっとしたら、それを提案したのはキムシン本人だったかもしれない。その上で、朝夏のお披露目作品にふさわしい様に、微妙な味付けが施されたのだろう。言うなれば、今の宙組の陣容こそが、棘のないラブロマンス「新・王家に捧ぐ歌」を生んだ根源にあるのだと私は思う。
朝夏まなと率いる若き宙組は最初の航海をなんとか乗り切った。だが、その前途は多難である。とくに誰のファンということもない私にできることと言えば「頑張れ、宙組男役!」と、劇場の片隅でつぶやくことだけ。今後の彼らの奮起に期待したい。
【作品データ】グランド・ロマンス「王家に捧ぐ歌−オペラ『アイーダ』より−」は、脚本・演出は木村信司、作曲・編曲は甲斐正人。宝塚歌劇団宙組により、2015年6月5日〜7月13日に宝塚大劇場、同年7月31日〜8月30日に東京宝塚劇場で上演された。
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