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noteが好きだと気づいた話

数年前、幾つかのWEBメディアに月150本前後のコラムを寄稿していた。

月150本という数字がどの程度の量かというと、単純計算で1日5本。1本の文字数は平均1,500文字だったので、つまりは毎日7,500文字=原稿用紙19枚近くの文章を書いていたことになる。

(実際にはライター業がメインではなかった為に執筆日は週3回程度、なので1日2万文字弱=原稿用紙50枚程度だった。)


文章を書くことは言わずもがな好き、だ。

だからその文字量を苦に思ったことはなかったし、タイトルと構成案さえ決まってしまえば執筆時間もさほど要さない。

それでも次第に、これは困ったな、と思うようになったことがある。

わたしは「食」にまつわる仕事をしている為、依頼頂く執筆案件は必然的にグルメ・健康・美容ジャンルに絞られる。

「書きたいこと」は沢山あった。

最新のトレンドの情報も、知ってほしいコアなお店も、溢れ返る情報の正誤も。

趣味を仕事にしたようなわたしは「食」に関するインプット量こそ人より莫大に多いと自負していたので、「書きたいこと」に困ることは無かった。

けれど問題なのは、そこに主観を入れることができなかったこと、だ。


その頃わたしが携わっていたWEBメディアは、所謂 "まとめ記事" がトレンドで、「〜のおすすめ○選」や「〜すべき○つの理由」などが好まれ、「筆者の伝えたいこと」はあまり必要とされていなかった。

多数のクライアントさんから頂く執筆マニュアルの項目は、殆どが「SEO対策」に帰属し、それはgoogleクローラーの仕様が変わる度に変更されていく。

もちろん、どんなに良質な記事も読んでもらえなければ意味がない。

SEO対策は読者数を増やすために必要不可欠であるし、そもそもクライアントさんの意向を組むのがライターの仕事。
何よりそこにはお金が発生する「ビジネス」なのだ。


初めは自分の書いた文章でお金を頂けることが嬉しかった。

だから変わりゆくマニュアルに沿って丁寧に文体や表現を変更することも、そうした文章が突然削除されてしまうことも仕方ないと思っていた。

けれど一方で、こうも思うようになる。

    "私は読者の方に寄り添う文章を紡いでいるのではなく、googleクローラーに気に入られる文字を並べているだけではないか。"

ある日、継続的に依頼を下さっているクライアントさんと打ち合わせをしているとき、こんなお願いをされた。

「来月は今の倍の本数を発注したい。流し読みが大半の読者層だから、内容はそこまで重視しない。多少リズム感がおかしくなっても、検索ワードの頻出箇所や回数を意識して書いて欲しい。」

それはSEO対策の効果が出ているからこその有難い追加発注だった。

わたしは「スケジュールを確認し、後ほどお返事させてください」と伝え、帰り道、渋谷駅前にあるツタヤのスタバで甘ったるいフラペチーノを一気飲みした。

" いずれAIが人間の仕事を奪うだろう。"

いつかどこかで聞いたニュースが頭の中で反芻する。
その方が世の中のニーズにもっと応えられるだろうか、と、スクランブル交差点の人混みを見下ろしながらぼんやり思った。

ー  わたしの紡いだ言葉は、だれかに届いているのかな。 

その月を最後に、わたしはWEBメディアへの寄稿をやめた。


それでも文章を書くことは変わらずに好きだった。

「書きたいこと」も「伝えたいこと」も変わらずにあったので、数年ぶりにブログを立ち上げることにした。

お金を頂くならばクライアントさんの意向や世の中のトレンドを意識するべきだけれど、ブログならおもいきり主観を綴っても良い、と思ったのだ。

けれど、当時のブログランキングを制していたのはハウツーものや自己啓発ものが大半で、そこには「〜すべき」・「〜しよう」などという見慣れた文字が溢れていた。

流行しているものは求められているものだ、と思う。

もちろん主観を思いきり綴ったブログだって書いて良かったはずだけど、有益(でありそう)な情報が求められているその中で、私にしか書けないことなどない、と思ってしまった。

そうしてわたしは、書くことをやめた。


「note」に出逢ったのは、それからしばらくが経ってからだった。

はじめはとんと驚いた。

だってnoteの人たちは、何かを比較をしたり、優劣をつけたり、ましてや強制したり、どう思いますか?などと問い掛けたりしない。

ただ好きな事を思いきり好きだ、と綴り。ただ悲しい事を思いきり悲しい、と綴り。そこで、「だから、どうする」とは続けないのだ。

なんでもない日常を繊細に切り取り、自分だけの意味づけを存分に楽しんで、そっと差し出して溶け込んで。

最高に主観的で、全く押し付けがないそれを、まるで息をするみたいなSNSだ、と思った。

しばし文字に飢えていたわたしは、しばし読み手に徹した。

好きな文体の方に出逢うと過去記事を読みふけっては、お風呂でのぼせたことなど何度もある。

仕事上facebookもInstagramもblogもtwitterも運用しているけれど、noteを開くといつも優しい空気を吸える気がした。

最近になってまた書くことを始めたのは、そうして吸い込んだ息をここに返してみたい、と思ったからだ。

まだまだ拙い、主観まみれのnoteばかりだけれど。
私のちいさな幸せを切り取って、たらふくの余韻に浸っている。


不思議なことに、そうしているうちに幾つかのクライアントさんからまた執筆の依頼を頂くようになった。

それも今度は、「できるだけ主観を入れて、わたしだから書ける内容で綴って欲しい」と。

当時のわたしには、それを求めてもらえるだけの力がなかったのだなぁと、ひしひし反省しては恥ずかしく思うけれど。

そうした依頼を頂くたびに、じんわりと嬉しく、昔よりもずっとずっと書くことが好きだ、としみじみ思う。


同時に、ここのところ「note」の話題を耳にすることが増えてきた。

「noteって知ってる?」という問いに頷く知人も、以前は1割にも満たなかったけれど、最近は加速度を増してそれが3割、4割と増えていっている。

「知らない」と言われる度に意気揚々と素晴らしさをまくしたて、今すぐ見て、などと勧めていたくせに。

「知ってる」と言われると、なんだかいい得のない気持ちになってしまうのはなぜだろう。

そんなことをぼんやりと考えて、ふと気づいた。


ー ああ わたし、思った以上にnoteのこと好きなのかもしれない


今のわたしが「書きたいこと」は決して有益な情報ではないけれど、そんな拙い文章でも一人でも多くの方に読んでもらえたら、嬉しい。

instagramでいいねがつくと申し訳ない気持ちになるのに(いいねをくれる人、すみません。普段はそんなにお洒落な生活してないのです)、noteでスキがつくと飛び上がりたいくらい素直に嬉しくてたまらなくなる。

だから、noteを知る人が増えるのは、すごくすごく嬉しい。

なのに、同時にちょっとだけ寂しい気持ちになるのは、どこかでこの居場所を秘密にしておきたかったんだ、と思う。

大好きな人の一番愛おしいところは、誰にも知られたくない。わたしだけのものにしておきたいって思うのと、きっと同じで。


どんどんパワーアップしていくnoteを見ていると、最近書き手になったばかりのわたしはまだまだ何も使いこなせていないな、と焦りを感じることもある。

けれど、変わりゆく姿に寄り添って一緒に大きくなっていくのが愛ならば、置いて行かれないように、もし時が来たらそっと支えられるくらいに、わたしも成長したいな、と思う。

そんな風に思わせてくれるnoteって、尊い。

ここに来るといつも優しい気持ちになれるのは、読み手も書き手も中の人も「みんな一緒」って思ってるからなのかな。

noteがいつまでも、誰かの(わたしの)深呼吸できる居場所であってほしいな、と思う。


noteさん、大好き。
いつもありがとうございます。


※このnoteをwordにしたため、さあ投稿しようとnoteを開いたら幾つも「スキ」のお知らせが‥!
なぜだろうと思ったら、なんと5月のハッシュタグ企画 #打倒5月病 の厳選記事に選んで頂いていました!!!(泣)

今回のnoteはnoteへのラブレターだなぁ、などと思って書いていたのに、届けるより先に愛を受け取ってしまった気持ちです。これだからnoteはやめられない。

本当にありがとうございます。これからも宜しくお願いします。


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あまりに嬉しくてスクリーンショットしてしまいました(笑)

このひと月ほど切に想っていたことを綴ったnoteなので、宜しければこちらも、ぜひ宜しくお願いします。


もしも気に入っていただけましたらサポート頂けると幸せです。毎朝のアイスコーヒーをMからLサイズに変えて、noteを書く時間に充てたいと思います。