忘却の理由
「嘘みたいに吐き気が消えて、痛みも少しずつ和らいで、もう日常生活に戻って良いですよって先生に言われたとき、あ、終わったって思ったの」
挽きたてのブレンドコーヒーにたっぷりのミルクを注ぎながら彼女は言う。「終わった」と私が繰り返すと「そう、跡形もなく」と相反する二色をくるくる混ぜ合わせた。
----稽留(けいりゅう)流産。
妊娠初期、胎児の心拍が確認されたにも関わらずその後の成長がみられずに心拍が停止し、子宮の中で死亡した胎児がとどまってしまうこと。
その多くは染色体異常と呼ばれる胎芽や胎児の異常であり、医師や母親がいかなる手段を尽くしても全妊娠の15%くらいに起こり得る。
言うならば神様の残酷ないたずら。世間では「仕方ない」と片付けられる不運の一つだ。
彼女はおおよそそんな意味のことを説明して、「だから妊娠に気付かず何日かお酒を飲んでしまった事も、風邪だと思って薬を飲んでしまった事も関係ないって言われたんだけど」と力なく微笑んでから。
「いっそ私のせいだと言われた方が楽だった」と、柔らかなベージュに染まったカップの中身をぎこちなく飲み込んだ。
「仕方ない」という言葉は時に凶器だ。
突如として襲いかかった理不尽な刃を黙認し、「あなたは悪くない」「運が悪かっただけ」「だから受け入れて」と、悲しみの行き場を容赦なく奪う。
それらの言葉の全ては、おそらくは、正しい。
だからこそ突き刺さった刃を抜いて血を流すことが許されない。ただ頷き、いっそ見えなくなるようにと深く深く心に押し込め続けるしかなくなるのだ。
「好きだった食事もお酒も、今はうまく喉を通らなくて」
妊娠中はひどいつわりでろくに食べることもできず、手術後(稽留流産は胎児をとりあげる処置が必要)幾日かは悲鳴を上げたくなるような腹痛に食事どころではなかった。
ようやく回復した身体に「何か栄養を」と出掛けたレストランで、彼女は得も言われぬ吐き気に襲われてしまったという。
「もう居ないんだって思い知らされた」
食べられなかった食事がとれて、飲めなかったお酒が飲めて。このまま全てが元の生活に戻ったら、何も無かった事になってしまうんじゃないか。痛みが消えて思い出さない時間が増えたら、いつかすべて夢だったと思えてしまうんじゃないか。
そもそも気付かず飲んでいたお酒が、薬が、あの日常が、全てを壊したんじゃないか。それなのに。
彼女はそこまでを一息で吐き出してから、「日常に戻るのが怖いの」と顔を覆った。
三島由紀夫が記した小説に、こんな一節がある。
事件に直面して、直面しながら、理解することは困難である。理解は概ね後から来て、そのときの感動を解析し、さらに演繹して、自分にむかつて説明しようとする。
思いもよらぬ出来事に遭遇した時、渦中を凌ぐことは「非日常」だ。こなすべきタスクが幾つも降りかかり、それは往々にして初めてのことばかりで、だからまるで、現実味がない。
それでも気丈に全てのタスクをこなし終えた頃、日常はさめざめと戻ってくる。
誰かが「仕方ない」で片付けた不運は、降りかかった人には明日の昨日。手元に残された手札は大切な一枚がすっぽりと抜かれたまま、ゲームは容赦なく続けられていく。
前を向くこと、というのはいつの日も正しい。
悲しくも嬉しくも、生きていく限りその一択しか道はないからだ。
けれどその歩幅やスピードくらいは、「早く元気に」などという言葉に必ずしも従わなくて良い、と私は思う。
前を向くことと振り返らないことは違う。心を置き去りにして走り出すことは大人になるほど容易いけれど、それではいつか闇に捉えられてしまう日が必ずやってくる。
宝物は宝箱にしまい、時々取り出して眺め、丁寧にしまい直す作業が必要だ。できるならそれを、そばで見守っていてあげる人も。
かけがえのないものは忘れないでいることも、忘れていくことも同じくらい苦しい。けれどどちらも同じくらい、生きていくには必要なことなのだ。
------人間に忘却と、それに伴う過去の美化がなかったら、人間はどうして生に耐えることができるだろう。 【三島由紀夫】