いつか忘れてしまっても
「記憶って忘れないようにと反芻するだけじゃ薄れていくけど、行動することで色濃くなっていくのかもしれないね」
頭上から照りつける日差しが西へと傾き始めてまもなくの頃だった。でこぼこの石段を一つ一つ踏みしめるように歩きながら彼女が呟く。
目深にさした日傘のせいで少しも表情は見えなかった。首筋を流れる汗の滴だけがじんわりと熱を感じさせて、私はできるだけ同じトーンで「行動」と繰り返す。
「うん、その人が誇りに思ってくれるような生き方をしていくこと」
淡々とした口調の端に哀の色は感じられない。少しも躊躇うことなく最後の一段を登りきった彼女は、「そうする限り、ずっと忘れないでいられる気がする」と空を仰いだ。
伊坂幸太郎のとある小説に、こんな一節がある。
記憶というのはしょせんは脳の中のシナプスの伝達活動によって生じるものです。何年経っても同じ形状で残っている保証はどこにもないでしょう。それこそ記憶とは、思い出そうとしている今この瞬間の自分によって新たに創り出された、『記憶と思われるもの』にすぎないのです。
「忘れていくこと」が怖くて、何度も何度も繰り返し反芻している記憶が私にはある。...正確に言うと、忘れていくことでいつか「無かったことになること」がずっと怖かった。
けれど思い出すたび少しずつ形を変えていく記憶に気付いたとき、忘れたくないと反芻すればするほど本当のことを忘れてしまうのかもしれないと余計に怖くなった。それは自己防衛本能によるもので仕方がないのかもしれないけれど、それでもどうにかして留めておきたかった。
「忘れなければ胸の中で生き続けるとか、どこかできっと見守っているからなんて綺麗事どころか呪いだと思ってたの」
だって忘れないことも時に苦しいでしょうと、供えた花のように真っ直ぐに空を見上げて彼女が言った。
「だけど日々の何気ない瞬間や、どこか楽な方へと流されてしまいそうなとき、その人に恥じない選択をし続ける事ならできる。そうすることで築いていく未来になら、確かに存在を感じられるよね。」
大切なのは全てを覚えていることじゃなく、指針の一つにして未来を描くことなのかもしれない。だからいつかもし記憶の殆どを忘れてしまっても、そうする限り無かったことにはならないと思った。
昨夜食べたつけ麺(と唐揚げ)は無かったことにして欲しいと思う、胃もたれの昼下がりです。