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袖にされたけど、大丈夫だった話。

今日は、なんか1日が長い。
朝から2時間足らずだけど車を飛ばして打ち合わせ場所へ。はじめての場所でいつも通りの最初の程よい緊張感と、ここでの自分の成すべきことをという使命感をきりっと背負って始まった打ち合わせ。

が、めちゃくちゃ袖にされた。
フリーランスになった27歳の時、東京で同じような体験をしたことがぎゅいーんと身体に蘇ってきた。あぁ同じ感覚だよ、これは。
経験を積んでない、知識がない、けれど前に進みたい、同じ景色を見たい、一緒にいいものを作りたい、そんな若い声を一蹴するような、強い言葉。そこに愛情は感じられなくって、ただ権威を示すエゴを感じてしまうような言葉だった。

いいものを一緒に作るために、足りない経験や知識をできる限り準備して挑むのは必要だと思うし、ディレクターという職業柄、未知なる領域で初めての人と協働することも多いから、いつも足りない経験を補うために新しい扉を叩いて自分なりの尺度をもつために、もがいてる。

経験や知識があるかないかで同じ景色を見れないんだったら、子どもたちとどんな未来を描いていったらいいんだろう。
彼らなりの言葉をおもんばかって、想像して、一緒に歩みたいと寄り添わないと、自分の見てきたものしか作れないし、そのなかでしか生きれないんじゃないじゃないだろうか。

悔しいし、悲しかったけど、いつも赤面症の私がいつもより顔が赤くならずにすんだのは、少なからず自分の今の気持ちを信じていられてるからだと思う。し、それでいいよって言ってくれる大切な人たちが周りにいると信じれたからだと思う。
誰かを袖にして生まれるいいものなんかないし、「わかる」「話があう」人だけで議論して、新しいものは生まれないということを。

と、ふつふつふつふつ湧き上がる気持ちを緩ませるように、ハイボールをカラカラしながら、27歳のときのあのときの悔し顔の自分に聞かせたい言葉として残しておきたくなって、書いてみる。


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