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共に生きる

noteをずっと書いてみたいなと思っていた。

中高生の頃は、暇さえあればブログやFacebookに行く宛てのない思春期の葛藤や、終わりのない悩み事なんかを書き連ねては、朝起きて我に返って消していたものだった。

そんな私が約5年振りに言葉を紡ぐ気になったのは、ありきたりな動機だけれど、あの日から10年経とうとしているからだ。

あの日、私は13歳だった。

中学校生活の洗礼も一通り受け、先輩に脅えながらも、2年生になったら部活動でも先輩になることが出来ると胸を躍らせていた、そんな春だった。

岩手の3月上旬は、実際には冬も同然で。

あっという間に校舎の壁が落ち、机の下に潜るという知識があったのに、どんなに踏ん張っても机ごとズッ、ズッと持って行かれるような揺れだった。

てっきり固定されているものだと思っていた教室の後ろのロッカーがせり出してきて、このロッカーって動くんだな…などと私は何故か落ち着いていた。予想外の事が起こると諦めて無になるタイプだったのかもしれない。

大きな亀裂が走っている校庭の真ん中に避難した時も、他の女の子たちが泣き叫ぶ中、友達とヘラヘラ冗談を言い合って笑っていた。非日常を笑うことで、恐怖を打ち消すしか当時の私には出来なかった。泣き叫ぶ女の子に対して軽蔑すらしていた。1年前まで小学生だったのだから泣くのも当たり前だ。

泣いたって、どうしようもないのに。そんな気持ちで、ドラマを見ているみたいな気分だった。

中学校の近くの山の上の神社に逃げた時、

まだ冬のような寒さだったから、持ち前の喘息の発作が起きかけていて、同じ喘息持ちの友達とみんなに置いていかれ後ろの方を走っていた。

下水道が逆流していた。

私はこのまま走れなくなったら死ぬのかなと思った。

海から3キロくらい離れてるし、大丈夫でしょ。

防波堤出来たし、大丈夫でしょ。

でも昔大きな津波が来た時、海から3キロぐらいじゃ済まなかったんじゃないっけ。

そんなことを考えていた気がする。

無事に山の上に着いた時には、咳が止まらなくて、寒くて、仲良い子たちと一緒に配られた毛布かなんかを皆で膝にかけて、かたまって凍えてた。

一緒にかたまっていた友達は、2人とも海の近くから通学している子だった。

「うちは、津波来たら、だめかもしれない」

そう困ったように笑う友達を見て、初めて、事の重大さが分かった。

親も山の方で働いていて、実家も海から離れている自分が、なんだか申し訳ない気持ちになった。

それから、停電の中家族と身を寄せあって暮らした。

停電していて、ラジオの情報しか無かったから

人が沢山死んだとか、そんなことは数字でラジオ越しに聞いたくらいだった気がする。

今思えば、そういう情報は親も私達子供には伝えてなかったのかも知れない。

街がどうなったのか、友達は無事なのか、何も分からなかった。連絡手段も、皆の所在も分からなかった。

落ち着いてしばらくしてから、父の知人が亡くなったことを知った。

私のことを小さい時から可愛がってくれていた人だった。父と同じ、ライフセーバーだった。

最後まで人を助けようとして戻った、そんな話をうっすら聞いた気がする。

初めて身近な人の死を目前にして、父がお葬式で泣くのを見て、衝撃を受けた。

私の父親は、私の前でそれまで13年間、泣いたことなんてなかった。

厳格で、子供に弱さを見せない人だった。

その父が、初めて泣いているのを見て、私はボロボロ泣いた。

なんの罪もない人が、病気もせず、突然いなくなってしまうことを、初めて知った。

父は、消防団もしていた。

毎日街の方へ出ていき、瓦礫を片付けたりしているようだった。

その頃の記憶は本当にほとんど無い。

ただ、その時も父が、夕飯の時に

「今日、お前と同じくらいの歳の子を、運んだ」

と泣き出した。

そんな事を言われても私はどうしたらいいのか分からなかった。数日前まで私をボコボコに毎日叱り飛ばしていた厳しい父に泣かれ、私は惨めで、悲しくて、どうしようもなくて、何よりショックだった。

あの頃の父の話を、私は10年間、全く口にしたことがない。

父が街でどんな凄惨な光景を見ていたのか、聞くことが出来ない。

あれ以来家が流され、会えなくなってしまった友達にも、

家族を亡くした友達にも、

あの時の話を聞くことが出来ない。

聞いてはいけないと、10年も引き摺っている。

幼かった私には、何をする事も、何を知る事も許されなかった。守られていた。

ただぽっかりと時間が失われ、校舎を失った別の中学校の生徒と部活動を合同で行ったり、楽器を貸してあげたり、新入生に制服や指定ジャージがなかったり。

想像していた「中学2年生」の生活は、ごっそりなくなってしまった。それだけは覚えている。

私は、高校生になってボランティアを始めた。

元々親がライフセービングや、釜石はまゆりトライアスロンに選手としても運営としても深く関わっていたこともあり、昔からボランティアは身近なものだった。

そこで出会った数々の大人達は、素敵だった。

震災の傷跡が未だ全く癒えない釜石を、なんとか建て直そうともがいている大人達に沢山出会った。

今だから言えるのは、あの経験がなければ、なんとなく釜石で暮らし、なんとなく釜石を出ていただろうという事だ。

何も出来なかった13歳の私。

高校生になって色んなことに目を向け始めた私に、希望をくれた大人達。

気付いたら、国際協力の道も拓け、大学卒業までに2回ヨルダンに行った。

釜石の写真を持って、伝統芸能である鹿踊りの笛を持って、シリア難民の子供たちに会いに行った。

失われた故郷について、子供たちと話した。

中学時代の経験を元に、高校から大学にかけての私は、本当にがむしゃらだった。

岩手、東京、中東、どこだって行ける気がしたし、どこだって行った。

同じ志を持った同級生や先輩が、周りに沢山いた。

家族も、家も失っていない自分が申し訳なくて、何かしなければ、何かしなければ皆と生きていられない気がした。立ち止まったらいけない気がした。

走り続けて、今は東京で1人、生活している。

叶えたい夢もまあまあ叶った。

国際協力を仕事にするのは大学半ばで辞めたけれど、諦めたわけじゃない。

何の仕事をしていても、どこにいても、いつだって、13歳の私が、私を責め立てる。

何年経ったって、3月になると、胸が痛くなる。色んなことを思い出す。

私は、10年前の自分に、恥ずかしくない大人になれたのだろうか。

今も地元に残る、あのキラキラした大人達に、恥ずかしくない大人なんだろうか。

私はこれから、どうやって生きていけば、

故郷で亡くなって行った沢山の魂達に、報いることが出来るのだろうか。

ずっと、ふとした時に、心に影を落とす。

私が生き残って良かったのだろうか。

そんな暗い思考を振り切って、この10年間、それなりに前に進んできたつもりだ。

きっと死ぬまで、この影から逃れられることはないし、逃れなくてもいいのだろうと思う。

この暗い影が、同時に私に経験と、それに伴う強さを与えてくれているからだ。

「被災地で育った」

「被災地で育ったけれど、家族や家を失っていない」

この狭間で、10年間ずっと苦しんできた。

真の意味で大切な人を失った人と共に涙を流し寄り添うこともできず、かと言って、上京してから「釜石出身なの?津波、大変だったね。」と言われ、行く宛てのない怒りを覚えてきた。

私はどこにも属せないまま、忘れることも出来ないまま、この痛みと呼ぶにも烏滸がましい痛みと共に、生きていくしかないのだ。生きていくしかないのである。

去年も、3.11は理由もなく泣きながら通勤していた。

それでも、生きていくしかない。

生き残ったのが私なのだから。




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