都立高校初の甲子園勝利を目指した日々(運営 宇佐美和貴インタビュー 前編)
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野球と勉強を両立できる高校へ
――野球を始めたきっかけについて教えてください
自分には姉がいて、姉の同級生の多くが野球をやっていました。姉のつながりで野球をやっている姉の同級生たちから可愛がってもらっていて、その同級生たちから野球をやらないかと誘われました。
父も野球をやっていたということもあり、野球がとてもやりたかったというよりは、野球をやる雰囲気ができていて野球を始めました。
――小山台高校に進学を決めた理由を教えてください
勉強もしっかりやりたいと考えていましたし、成績も良かったので、それなりの進学校に行きたいと考えていました。進学校に行きつつも野球はしっかりやりたい、勉強と両立したいと考えていて、野球が強い公立の進学校はどこかと考えたら、小山台高校一択でした。
狭い場所、限られた時間で効率の良い練習を
――高校時代に掲げていた目標について教えてください
チームとしての目標は甲子園出場と、甲子園で1勝でした。小山台高校としては、2014年の春の選抜に21世紀枠で出場したのですが、履正社に敗れてしまいました。そして、実は都立高校は甲子園で1勝もしたことがありません。そこで甲子園出場と甲子園1勝を目標としました。
――個人で掲げていた目標はありましたか?
小山台高校ではかつて、部のことを『班』と呼んでいました。その名残で今でも部活動のことを「班活動」と呼んでいます。自分は班長という役職でした。この班長はキャプテンとは別のリーダーとして位置づけられていて、キャプテンは野球におけるリーダー、班長は事務的なところでチームを引っ張っていく役割でした。
大所帯で100人前後の選手がいるチームだったので、意思疎通しながらまとめるということは難しかったです。都立高校で定時制もあったということで練習時間が短く、その中で選手全員の名前と顔を認識するのに時間がかかり、コミュニケーションは本当に難しかったです。
そんなチームを1つにまとめるというのが自分の目標で、振り返るとある程度達成できたのではないかと思います。
――甲子園出場、甲子園1勝を目標としていた当時の練習に対する思いなどを教えてください
都立高校で品川区にある高校だったので、グラウンドもかなり狭かったです。週に何回かは多摩川の河川敷に行ってかつての巨人軍多摩川グラウンドで練習することもあったのですが、基本的には狭い学校のグラウンドで飛ばない竹のバットで打撃練習をしていました。
グラウンドが狭く、練習試合も短い中でどうやって効率的にやっていくかが自分たちの一番の課題でした。ただ他のチームより勝っていたと思うのは練習に対する考え方、頭を使ってどれだけ練習を効率化できるかという部分で、そういったことを頭を使ってものすごく突き詰めて考えていたチームでした。他の私立の強豪校だと、学校によっては練習量の部分で圧倒するチームが多かったと思いますが、短い時間でどれだけ効率よく技術を向上させられるかという部分を中心にして、練習に取り組んでいました。
――練習での印象深いエピソードはありますか?
本当に練習場所がありませんでした。グラウンドも使えない日があって、そういう日は学校の至る所で何人かのグループに分かれて狭いところでトレーニングをしたり、学校の窓ガラスに向かってシャドーピッチングをしたりと、他の学校に比べて異質な練習が多かったです。
――チームメイトとの印象的なエピソードはありますか?
『野球ノートに書いた甲子園6』で自分たちの代の小山台高校が取り上げられていて、自分も少し出ています。そこでも書かれていたこととして、『野球日誌』というものを全員で書いていました。B5の大学ノートに1日1ページ、野球の技術的なことじゃなくて、野球だけではない内面的なところを書くというものが伝統としてありました。それが自分たちの中ではもう一つの練習でした。
個人がつける日誌とは別で、チームの日誌があって交換日誌のようなことが行われていました。練習時間が短くコミュニケーションの時間がなかなか取れない状況で、お互いの内面を知るのが課題でした。そこで内面を記したノートを交換することで、無機的なつながりから有機的なつながりに関係性が変化したという効果がありました。
この野球日誌は自分の中では3年間通して印象に残っていますし、有意義なものだったと思います。
史上最弱の代が変わったターニングポイント
――先程班長を務めていたというお話がありましたが、班長に指名された時はどういった心境でしたか?
自分たちの1個上の代が東東京大会決勝で敗れて準優勝でした。その代は実力がものすごくあって、決勝に行って当然だというようなチームでした。
その後自分たちの代になり、自分が班長となりましたが、自分たちの代は実力的には最悪の代でした。そういったチームの班長になってしまったというのは、いい意味でも悪い意味でもものすごくプレッシャーでした。都立高校で決勝に行ったということで、次の代にもメディアから注目が集まっていました。新チーム最初の公式戦である秋の大会も、予選は突破したのですが本戦の初戦でサヨナラ負けしてしまい、班長としても責任を感じていました。
――一部からは「小山台史上最弱の代」などといった声もあったそうですが、新チーム結成直後はどのような状況でしたか?
お話にあったように、監督から「史上最弱の代だ」と言われてしまい、どうなってしまうのだろうという感じでした。
新チームになった直後に長野県の塩尻で合宿がありました。その合宿では長野の松商学園や山梨の山梨学院と練習試合をしたのですが、1個もアウトが取れず、「どうしたらいいのだろう?」というチーム状況でした。
チーム状況は最悪で、実力がないにもかかわらず、何故かメディアからは注目株として取り上げられていた頃が一番辛かったですね。
――「史上最弱」と言われたスタートから、2年連続で夏の大会の決勝進出に至るまでで、どこがターニングポイントでしたか?
自分たちの代は実力というよりも、結束力だったと思います。ターニングポイントとしては春の大会が始まる直前の3月でした。それまでも定期的にミーティングは行っていたのですが、腹を割ったミーティングを一度行いました。
部員が多いチームだったので、Aチーム、Bチーム、Cチームといった形でチームが実力で分かれているのですが、そういった中でなかなか結果の出ない選手、上のチームに上がれない選手がいて、そのような選手と一軍で頑張っている選手とで精神的な面で差が生まれていた時期がありました。
その時に「このチームは何を目指してやっているのか」といった部分について腹を割って全員が話しました。甲子園を目指しているというのはもちろんそうなのですが、なるべく長い期間このメンバーで野球をやりたいということで一致しました。自分がメンバーに入っていても、スタンドで応援していても、学生コーチなどでチームを支えていても、そこだけは変わらないという気持ちを全員で共有できたということがすごく大きかったです。
その直後の春の大会では、東西合同で約300チームが出場する中でベスト4に入ることができました。夏も甲子園には行けませんでしたが東東京で準優勝でした。1個上の代は実力で準優勝でしたが、自分たちの代は結束力で決勝まで勝ち上がったチームだったと思います。
信頼関係があったからこそ行えた伝令
――東東京大会の中で印象に残っている試合はありますか?
阿部慎之助さんの母校である安田学園戦です。8回裏が終わったときに3-0で負けていました。プロ野球選手を輩出するような学校相手に9回の時点で3点差で負けているということで、かなり厳しかったと思います。それでも奇跡的な逆転劇で、1点差まで詰め寄りツーアウト1,2塁でタイムリーツーベースヒットが飛び出し逆転し、その裏を抑えて勝利することができました。
記録上はツーベースだったのですが、レフトへ飛んだライナー性の打球が一度レフトのグラブに入りかけました。しかしギリギリのところでキャッチできず、ボールが転々とする間にランナーが2人帰って逆転することができました。キャッチされていたらゲームセットという状況を乗り越えたということは、当時も自分の中ではすごく興奮していました。
相手がそのような強い高校で、9回が始まる時点で3-0で負けていても、まったく負ける気がしませんでした。その気持ちはすごく大切で、野球に限らずどんなに不利な状況でも、気持ち次第でやり返せるということに気付いた試合でした。あの試合は自分の人生においても、大きな影響を与えた試合だったと思います。
――宇佐美さんは夏の大会では背番号12を付けて伝令なども担当されていましたが、夏の大会でのご自身のご経験を振り返っていかがでしょうか?
自分の一番の役目としては第二捕手で、ベンチにいる唯一の控え捕手だったという面はあるのですが、やはり伝令とベンチワークは自分にとって大きな役割でした。
安居院をはじめとした投手陣とは普段からものすごく密にコミュニケーションを取っていたので、「その時に気を付けたことは何ですか?」などと取材で聞かれたことがあるのですが、気を付けることは何もなかったです。どのような表情をしているのか、何をしてほしいのかということだけを汲み取って、その時に自分がすべきことだけをしていました。本当に言語化の難しいことしかやっていませんでした。
伝令という役割は自分の中では凄く大事な役割だと思っていて、間を取るだけじゃなくて、その時に自分が何と声をかけるのか、逆に声をかけないのかということも考えていました。時には笑顔で行って、笑顔で帰ってくるだけということもありました。その時はピッチャーが完全に集中していて、声をかけたらそれが刺激になってしまうという判断をフィーリングでやっていました。何故フィーリングで通じていたのかというと、普段のコミュニケーションが活きていたからだと思います。
自分の中では、三年間仲間と培ってきた信頼関係があっての伝令だと思っています。すごくそこはやりがいがありましたし、よかったと思います。
――迎えた決勝戦の相手は関東第一高校で、甲子園への出場経験も多い強豪校でしたが、決勝戦を振り返っていかがでしょうか?
正直、関東一高とはものすごい差があったと思います。点数以上の差がありましたが、「勝てたな」と感じた試合でもありました。
今思い返しても心苦しいというか、「あの時ああしておけば……」と思うところがあります。2-0の8回に自分が伝令に言った後、追加点を取られて4点差となりました。残り2イニングで関東一高相手に4点を返すというのはかなり難しいので、それがダメ押しの得点となりました。
その時にも自分は、「あの時こういうことを言っておけば……」「『こういうところに気を付けろ』と言っておけば……」と後悔したことはあったのですが、一番は「こんなにやっても叶わないことってあるんだな」と認識したことが凄く大きかったと思います。自分の中ではやりきったつもりだったので、やりきっても叶わないものは叶わないのだなと。『人事を尽くして天命を待つ』という言葉がありますが、そこまではやりきったという自信があったので、これは完全に実力なのだということを感じました。それを感じて野球人生を終えられたのは良い瞬間だったなと思います。
自身の卒業式以上に心配だった後輩たちの大会
――高校を卒業する時期にコロナの流行が始まりましたが、コロナの影響はいかがでしたか?
卒業式は自分たち卒業生と先生方だけで行われました。個人的にはそんなことはどうでもよくて、それよりも1個下の代の春の大会、夏の大会はどうなるんだということの方がよっぽど心配でした。
その当時の気持ちと、先輩としてのやりきれなさがこのプロジェクトをやるきっかけにもなっていると思います。
――その後OBとして迎えた初めての夏の大会が中止となりましたが、当時はどのような心境でしたか?
自分たちの代はLINEで「先輩としてどうする?」という話をしていました。自分たちは先輩として、何かしら声をかけてあげなければいけないんじゃないかということで、夏の甲子園が中止となる前は応援メッセージを送っていました。「頑張れよ!」といった応援メッセージを各々が送っていました。
しかし実際に中止となったときは何と声をかけてあげればいいのか分からない状態だったのをよく覚えています。結局何も声をかけずに、引退試合の応援に行った気がします。
――引退試合の応援に行った時に見た後輩たちの姿はどのように見えていましたか?
まず1つは、野球をやれているのがすごく楽しそうでした。正直自分たちは、引退試合すらも楽しめていませんでした。その後にも大会が待ち構えていましたし、戦うということがメインだったので、野球そのものを楽しむなんてことはできませんでした。しかし後輩たちが引退試合をやっている姿を見て、野球をできなかった時期があったからこそ、野球をやれることへの感謝があったのか、すごく楽しんでいると思いました。
そこは自分たちが得られず、彼らは得られたものだったと思っています。
後編では武蔵野大学入学後の出来事、そして「あの夏を取り戻せプロジェクト」のお話について伺います!
近日中に公開いたしますので、お楽しみに!
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