最後まで全力で頑張る北陽の誇りを胸に(関大北陽高校OB 樽見海星インタビュー)
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父と同じ高校で野球を
――野球を始めたきっかけについて教えてください
小学2年生の頃に転校を経験したのですが、その際に転校先の学校の友達に誘われたことがきっかけで野球を始めました。
――関大北陽高校への進学を決めた理由を教えてください
自分の父親が北陽高校で野球をやっていて、自分も同じ高校で野球をやってみたいと思ったので関大北陽を選びました。
引退した3年生による伝統のノックを受けて
――高校時代にチームとして掲げていた目標について教えてください
大阪桐蔭や履正社を倒して、甲子園で野球をするというのが自分たちの目標でした。
――甲子園を目標としていた当時の練習に対する思いなどを教えてください
自分が高校1年生、2年生の頃も一生懸命野球をやっていましたが、先輩もいたということで「チームの中で活躍して頑張ろう」という気持ちは小さかったです。しかし高校3年生になった時に、チームとして頑張ろうということで、高校最後の1年間は頑張れたと思います。
――当時の印象的な練習メニューなどがあれば教えてください
コロナ禍となる前は、監督やコーチが決めてくださった練習メニューをこなすだけでした。コロナ禍に入り練習時間が制限された際に、短い練習の中で自分たちで考えて練習するという方向性に変わって、チームとしても良い方向に進めたと思います。
――冬の期間は引退した3年生が下級生の練習を補助していたとのことですが、そういったことに関して当時のお話を教えてください
関大北陽には引退した先輩がノックを打ってくれるという文化があります。自分も次のステップに向けて練習したいという気持ちもあるであろう中、現役の選手たちが甲子園や大会で活躍するために毎年先輩たちが自分の身を削ってノックを打ってくださるというのがすごくありがたいです。言葉はあまりなかったのですが、選手としてすごく嬉しい気持ちがありました。
自分たちも引退した後に、「自分たちは甲子園がなかったが、後輩たちには甲子園に行ってほしい」という気持ちでノックを打っていました。きっと今の3年生も後輩たちに向かってノックを打っていると思うので、そこは関大北陽としていい流れを作っていると思います。
選手自身が選んだ「最後まで頑張る」という選択
――夏の甲子園中止の第一報を知った時はどういった感情でしたか?
すごく悲しいという気持ちもあり、悔しいという気持ちもありました。
――そういった中でのチームメイトと交わした言葉で印象に残っている内容はありますか?
「俺らの夏は終わったな……」というのが一言目でしたね。
その後、チームとして最後までどう続けるかというミーティングを行いました。その際に「最後まで全力で頑張ろう」という話を選手同士で決めることができたのはとても印象に残っています。
――監督からはどのような言葉がありましたか?
「甲子園はなかったけど、今までとやることは変わらない」というのが一番印象的な言葉でした。
――コロナの中、チームとして良い方向に進めたというお話がありましたが、当時のお話を詳しく教えてください
コロナ禍に入る前は、監督やコーチが練習メニューを決めてくださっていたので、選手としては練習メニューをただやっていたという感じでした。当時は練習に対してあまり真剣ではなかった面があるかもしれないです。
コロナ禍になった時に、グラウンドではなく学校で監督さんから「これからどうしていくのか、甲子園があるかないかではなく、関大北陽としてどうしたいのかは選手たちで決めなさい」と言われました。そこで選手全員で話し合って、「最後まで全力で頑張ることが北陽の誇りだ」という結論に至りました。そこでチームが引き締まって、最後まで良い方向へ進めたと思います。
最後まで野球をできたのが一番の青春
――各都道府県で独自大会開催の動きが進み、大阪府でも大会が開催されると聞いたときの心境を教えてください
最後に三年間頑張ってきた仲間たちと野球ができる機会を与えてくださったということで、関係者の皆様への感謝の気持ちがありました。
最後まで頑張ろうと思っていました。
――樽見さんは独自大会で初めて背番号1を付けられたとのことですが、当時のことに関して教えてください。
私の同級生に坂本雅治という選手がいまして、彼のことをマサって呼んでいました。マサが2年でエース番号をもらって、試合で投げていたのですが、自分は2年の夏はベンチ外でボールボーイをしていました。そして、そのままマサが来年もエースになるんだろなと思ってました。
しかし、疲労もあったのか2年秋の秋季大会中にマサが怪我をしてしまいました。絶対的エースが怪我をしてしまったので、誰がその枠を埋めるのかというところで、ピッチャー全員が頑張って練習に取り組んでいたと思います。
マサは怪我をしていましたが、ピッチャー陣のことを思って言いたくないようなことを言ってくれたり、アドバイスをしてくれたりと、リハビリしながらチームのために動いてくれました。
そんなマサから沢山のことを吸収しましたし、マサに勝ちたい、負けたくないと思って取り組んでいました。負けたくないと思って頑張ってもマサがさらに上をいくので、あんまり勝てた記憶はないです。
そんな雅治という目標があったので、頑張れましたし、雅治の背中を追っていたから成長できました。その結果として、背番号1を頂けたので、自分は雅治がいなかったら成長していなかったと思います。
――独自大会計6試合の中で印象に残っている試合はありますか?
2回戦の星翔戦が雨によって一度順延となり、更に一度ノーゲームがあって、2回登板しました。雨の中でしんどい試合だったのですが、天候の影響もあり何回も試合をできる機会が巡ってきたので、その試合がものすごく印象に残っています。
また自分は登板していないのですが、興国戦は坂本壮梧のホームランで1-0で勝った試合もよく覚えていますし、全てが自分の記憶に残っている試合ですね。
――雨天順延の影響もあり、準決勝で打ち切りということでしたが、当時はどういった心境でしたか?
決勝はもちろんしたかったというのはありますが、チームとして負けずに終わったということはこれからの人生で忘れることはないと思います。決勝で履正社と試合ができなかったということは凄く悔いの残ることではありますが、どのチームよりも長く野球ができたことが高校一番の青春だったと思います。
――準決勝に勝利し、全勝で終えることができた瞬間はどういった心境でしたか?
自分としては先発で登板したのですが、早い段階でマウンドを降りることとなってしまい、個人としては悔しい最後になったのですが、チームとしては勝つことができたので良かったです。『関大北陽』という名を汚さずに良い結果となったので、そこはすごく良かったと思っています。
――勝利した後に監督から何かお言葉などありましたか?
独自大会は監督も初めての経験ということを語っていました。甲子園がないということを監督も凄く悔しがっていましたし、自分たちとしても甲子園がないのは悔しかったですが、「甲子園がないとしても最後までやり切るという北陽のいいところを見せられたのではないか」というお話があり、監督も、自分たち選手全員も良かったのではないかと思っていました。
勝ち負けを飛び越えた横の関係をこれからも
――この「あの夏を取り戻せ」というプロジェクトについて聞いたときはどう思いましたか?
最初の頃は、話は知っていたのですが、具体的にやるのか分かりませんでした。その後開催が決まって、もう一度高校3年間共に野球を頑張った仲間たちと野球ができると知った時に、運営したいただいている関係者の皆様への感謝の気持ちが芽生えました。
そして、監督やコーチといった自分の高校野球に関わってくださった皆様に、もう一度高校時代の仲間と共に頑張っている姿を見ていただく機会を与えていただき、そこで最後まで頑張る北陽OBとしての姿をお見せすることができるので、すごくありがたい機会だと思っています。
――このプロジェクトでの目標について教えてください
勝ち負けも大事ですけど、勝ち負けを飛び越えた横の関係というものがあるので、横の関係を強く持って、この機会だけで終わるのではなく、これからも社会に貢献していけるような関係を築いていけたらと思っています。
――最後に応援してくださってる方々へ意気込みをお願いします
このプロジェクトに関係してくださる皆様に心から感謝申し上げます。
甲子園でプレーできなかった世代ですが、もう一度この機会を与えてくださったことに感謝し、今は大学生ですが高校球児らしく最後まであきらめない姿を見ていてくださる方々にお届けできればと思います。
最後まで見届けていただけると嬉しいです。よろしくお願いします!
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