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「次善の選択肢としての『小市民』四季:普通を装う非凡さと他者性が交差する瞬間」
Introduciton
まずは作家について言及すべきだ。米澤穂信という作家は、実に面白い存在である。
なぜならば、「本格」「新本格」といったジャンルの作品を書きながらも、ファウスト直系のメフィスト作家、つまり西尾維新のような部類に属さない。そして、東野圭吾や宮部みゆきのように大衆に広く受け入れられる作家でもない。その中道を行く作家だからだ。
米澤穂信はアニメファンにも一定以上の知名度があり、一般層でもその名前は広く知られている。それにもかかわらず、彼にはアンチという存在がほとんどいない。これは非常に稀有なことだと言える。
それこそ、彼は「日常」に潜むような作家である。
これまでの作品を振り返ると、米澤穂信は『古典部シリーズ』をはじめ、『小市民シリーズ』、『図書委員シリーズ』、〈ベルーフ〉シリーズといった多くのシリーズ作品を手がけてきました。さらに、ノンシリーズの『ボトルネック』や『インシテミル』、そして最近では直木賞を受賞した『黒牢城』で歴史物を書き上げるなど、幅広いジャンルで高い評価を得ている。米澤穂信の作品は、ミステリを軸としながらも、歴史物や心理描写に優れた作品を生み出しており、その作芸の幅広さが特徴だ。特に『黒牢城』では、歴史的な背景を巧みに取り入れ、読者を魅了する物語を紡ぎ出している。
なぜ今『小市民』シリーズ、それも『春期』・『夏季』について述べるのかと言えば、2024年7月現在放映中のアニメ『小市民』シリーズに多くの考察すべき点を発見したためだ。急遽この文章が頭の中に草案として浮かび、整理し、発表すべきだと直感したからである。さらに言えば、アニメ版『小市民』にただならぬ違和感を抱いており、似たような意見を出している人が少ないからでもある。
では、早速本題に入ろう。『氷菓』と同じ作者のアニメ作品という前評判も相まって、『小市民』の第一話を観た後、ネット上にはたくさんの感想が上がった。これらの意見は賛否両論分かれた。ここまでは普通のことだ。
それらの意見はおおよそ三つに分けられる。
小佐内ゆきが可愛いだけの雰囲気アニメ
レイアウト、演出といった側面は面白いが話は微妙
話も画面も最高
意見の主張性として、1と2は「話は面白くないが、世界観や雰囲気は伝わった」と評価しているのに対し、3は「話も画面も全てが最高」という全肯定の意見だ。
なぜこれほどまでに意見が極端にばらけるのか。その理由はただ一つ、原作読了済みか否かにある。原作を既に読んでいる層は絶賛しているが、そうでない層は他の要素に魅力を見出しているのだ。
つまり、端的に言えばアニメの第一話としては「つまらない」ということだ。歴代のアニメはオリジナルであれ、原作ものであれ、本当に作品として面白い場合は第一話から面白いことが最低条件だ。
原作を読んでいれば分かるが、未読だと分からないという状況を作り出している時点で、原作の持つ物語性の魅力を伝えられていない。これは間違いない。『氷菓』の第一話と比較した時に抱く「面白さ」とは程遠い。もちろんそれは『古典部シリーズ』と『小市民シリーズ』が持つ特性にも依拠しているのだが、その点については後述する。
では、この中途半端な微妙さの正体は何か。なぜ既読者だけが楽しめるのか。これは小鳩常悟朗と小佐内の関係性に起因する。彼らの複雑な関係やキャラクターの深層心理が、原作では序章の位置付けで身近ながらも丁寧に描かれている。例えば、原作では小鳩常悟朗が自分の過去を夢の中で振り返る形で、中学生時代の彼がどのような存在であったかがモノローグを通した回想として言及される。そして、それに対する周囲の反応と、その中で唯一異議を唱える人物という構図が展開されている。
しょっぱなに夢の話というのも芸がないけれど、つらつら考えるにここから始めるのが一番良さそうだ。オチが夢というよりは、いくらかマシだろう。
夢の中でぼくは衆人環視の中、級友を告発していた。こんな具合に。
「つまり××くん、以上の論証から分かる通り、事実は明々白々だ。僕が最初に思った通り、これはタイムテーブルで片がついた。証拠がないというのならだしてもいいけれど、まあ、なんだね。もう逃げ道はないよ。アリバイ作りにインラインスケートとは、独創的とまではいかないけれど悪くない発想だった。ただ相手が悪かったね。
(中略)
ぼくは彼らに両手を上げ、尽きぬ賛辞に応える。得意満面だ。あの程度の姦計でぼくを欺こうなんて、浅知恵を通り越して猿知恵に近いね。そんなことも思っていた。いやまったく物足りないぐらいだ。どこかに、ぼくを唸らせるぐらいの知恵者はいないものか。
(中略)
彼、もしくは彼女は、にこにこと笑いながらこう言った。
「本当にお見事。鮮やかな推理。綺麗な照明。でも、その、まあ、なんていうか、言いづらいんだけど、はっきり言わせてもらうとさ。
きみ、ちょっと鬱陶しいんだよね」
さて、アニメ版をここで振り返ると、このシーンは一切ない。アニメではこの重要なモノローグが省略されており、小鳩常悟朗と小佐内の関係性が十分に伝わっていない。もちろん「彼、もしくは彼女」と書いてあるように、特定の誰かとは書いていないので、それが小佐内ゆきであるかどうかは不明だ。この点については、実際の中学校時代のエピソードについては出会いも含め、『冬期ボンボンショコラ事件』で深掘りがなされているので、もしかしたら大々的な脚色を含め後半に深掘りをするのかもしれない。が、どちらにせよ不足しているのである。要するに、このパートがないことが、既読者と未読者の評価の差を生む大きな要因の一つである。
モノローグを入れるかどうかで主人公に抱く印象は随分変わるはずである。それはもう圧倒的に。
実例を挙げてみる。『氷菓』の折木奉太郎が「省エネ主義」を唱えたり、『傷物語』における阿良々木暦が「人間強度が下がる」から友達を作らないと言い張ったり、『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』の主人公、比企谷八幡が「青春とは悪であり、嘘である」というアフォリズムから放たれる語り草、『涼宮ハルヒの憂鬱』におけるキョンの「サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいい話だが」というモノローグ。
これら全ては映像化される際に踏襲されており、視聴者はそれぞれの主人公に感情の共鳴を感じることができる。しかし、『小市民』はそれをしなかった。これは構造的に痛いと思う。たわいなさを出しているだけでは、その時点で掴みどころのない優男としか表現されない。本来は痛いキャラであるはずなのに、モノローグという重要な部分が欠けているために「そんな主人公ものをこれから見ないといけないのか」「謎に頭の回る優男の痛い物語を、このテンションで見続けなければならないのか」と思った人も多いはずだ。決して原作を卑下するわけではないが、本来この手の小説の主人公というものは、「痛い」キャラクターであってこそ成立するのだ。だからこそ、その部分は丁寧に描写するべきである。
一方で小佐内ゆきは腹黒さというものが内なる部分に潜んでいる。それは原作でも山場で発揮されるが、外見は低身長の美少女として描かれている。声優の羊宮妃那の演技の力もあって、現状では萌えるだけのキャラクターとして成立している。こちらは、物語が進まないと本質が活かせない性質であるため、今の段階では表面としての「可愛さ」を存分に出し、視聴者が「可愛い」と思えれば十分に描写がなされていると言えるだろう。
主人公とヒロインとで、条件は違えど第一話だけでここまで描写に差が発生している。確かに原作の数少ない所作から小鳩常悟朗という主人公を魅力的に描き出すのは難しいかもしれない。しかしそこを上手く描写することも、アニメ作品としての完成度を高めるための重要な工程作業である。
原作展開の把握の有無も影響している。『夏期限定トロピカルパフェ事件』までを読了していれば、小鳩常悟朗が「小市民」を目指しているにもかかわらず、推理をしてしまったことで小佐内ゆきから拒絶され、距離をとることになる。この展開を知っていれば、アニメの見え方も変わってくる。「ああ、この二人は今のところ良い関係に見えるが、この展開がどこまで続くのだろう」と思うかもしれないが、最終的には関係性の瓦解が待っている。それこそ、第一話で崩れ去った「いちごタルト」のように。最終的にあの空気感に落ち着くことを理解している既読者と、未読者の段階でもアニメの見方は異なってくる。
しかし、逆に言えば、それしかないわけである。ここで原作の歪さについて述べていく。
小市民を志すということの矛盾
小鳩常悟朗が小市民になることは、推理をせず、あらゆる揉め事には介入しないということである。しかし、これは物語の主人公が「普通」を志すということであり、それ自体が矛盾を孕んでいる。
主人公小鳩常悟朗は、通行人Aや学生Aのような平民的な存在に転換しようとしているが、そもそもそれが変なのである。物語の主人公は「通常」から逸脱した「何か」を持っているからこそ、主人公たり得るのであり、それを否定して「小市民」として生きていくことは無理があることは誰もが感じることであろう。
小鳩常悟朗は推理することで他者からの賛辞を得ており、その能力を自覚している。つまり、小市民を志すこと自体が、自分の本質を否定することであり、矛盾しているのである。
この点がまず『小市民シリーズ』における歪なポイントだ。そして本編で解かれる内容も地味である。以下は「原作のエピソード」-「収録タイトル」という見方で展開する。
ポシェットが盗まれた-「羊の着ぐるみ」
ココアの作り方がどうのこうの-「おいしいココアの作り方」
あるケーキを最初から2個しかなかった場面状況を作り出す-「シャルロットだけはぼくのもの」
といったあまりにも平穏すぎる内容を事細かく展開していくだけである。そこには物語としての厚みがそもそもない。無論そうした空気感こそが『小市民』シリーズの持ち味であると言われればそこまでの話ではあるが、何にせよ「事件」が起きて小鳩常悟朗が「解決」をするという構図があるものの、結局はそれら全てが、それによって小佐内ゆきがどう感じたかに圧倒的に力点が置かれている。彼女の内面の変化や反応に焦点を当てることで物語に深みを持たせようとしているのである。それでもなお、小鳩常悟朗の矛盾は解消されない。なぜなら物語を展開する=非小市民として動かざるを得ないからである。この矛盾と平穏な展開がシリーズ全体の歪さを形成している。
この矛盾が含意としてあるが故にそもそも小鳩常悟朗というキャラクターが掴みどころのない人物として映ることはアニメの感想に表れているし、だからこそ他の要素で楽しむとなる場合に、ヒロインである小佐内ゆきというキャラクターに目が行くのは当然であり、先述のように小佐内ゆきのディティールは見事に再現できている。
ではどうして、『小市民シリーズ』の小鳩常悟朗と小佐内ゆきという面倒なキャラクターが「互恵」関係を結ぶという物語を原作単位で乗れないのかといえば、キャラクターとプロットの比率の偏りに問題があるのではないかと思う。
キャラクターダブリン性の側面
※キャラクターダブリン・プロットダブリンは造語です。
(キャラクター+Doubling (倍増)
(プロット+Doubling (倍増)
で無理やりそれらしい単語として定義しています。
詰まるところ、本作はキャラクターダブリンとしての小説である。小鳩常悟朗と小佐内ゆきというキャラクターを魅せるだけの小説と言っても過言ではない。『春期』『夏期』の二作はそれだけで勝負していると言っても過言ではない。小鳩常悟朗と小佐内ゆきのダブリン性は両者が平凡さを装いつつも、内面では特殊な才能や特性を持ち、それを隠そうとする点で重なり合う。これすなわち小市民/非小市民という側面としても説明の折り合いがつく。物語が進むにつれ、その二重性が明らかになってくるのは読了した人であればすぐに合点がいくはずだ。
プロットダブリン性の側面
では、もう一方のプロットダブリンはどうか。日常の謎とそれを解決するパターンというのは、米澤穂信作品ではお馴染みといってもいい。物語の各エピソードでは、日常的な小さな謎が発生し、それを小鳩常悟朗が解決する。このプロットの繰り返しがシリーズ全体の構造を形成している。各エピソードで繰り返される「日常の謎」と「その解決」のパターンが、物語の一貫性を保ちながらも、各話で異なるテーマやキャラクターの発展を描く手法として機能している。そして、各エピソードでの関係性の変化が繰り返されることで、彼らの関係性を掴み取ることができる。同じパターンの繰り返しが、物語の進行とともに異なる意味や感情を持つようになる点が特徴である。謎解きの過程で、小鳩の推理力が発揮され、それが周囲のキャラクターや小佐内にどのような影響を与えるかが繰り返し描かれ、毎回の謎解きがキャラクターの成長や関係性に影響を与えることで、プロットの繰り返しが新たな意味を持ち、物語全体の深度が増していきます。
キャラクターとプロットダブリン性のアンバランスさについては、キャラクターの内面を魅せることに重点が置かれすぎており、日常の謎については解決編を読み終えてもあまりしっくりこない構造になっている。
対照的に、『古典部シリーズ』ではキャラクターとプロットのダブリン性が巧みに組み込まれています。原作『氷菓』(二〇〇一年)、『愚者のエンドロール』(二〇〇二年)、『クドリャフカの順番』(二〇〇五年)、『遠まわりする雛』(二〇〇七年)はいずれもこの要素を最大限に活かしており、そのためアニメ『氷菓』も名作となりました。
折木奉太郎と千反田えるは、対照的な性格であるがそれゆえに千反田に引っ張られる形で事件が解決する。ここにおける支え合いともいうべき関係性は「省エネ主義」対「好奇心」という構図に転換されるため、違和感なく読むことができるし、福部里志と伊原摩耶花の関係性にしても「社交性」対「情熱性」のキャラクターの掛け合いという視点で読み解くことができる。どのキャラクターにおいてもキャラクターダブリンとしては非常に有効的に作用しており、「小市民」という当てのない空虚な存在を目指す非現実的なニュアンスを用いていない。省エネ主義、好奇心、データベース、情熱と言い換えが可能であることからも分かるように各のキャラクターが持っている側面が読者側からしても伝わりやすいのも特出すべきポイントだ。こと、折木奉太郎と福部里志はシャーロック・ホームズとワトソンを高校生的な視点で置き換えたキャラクターとしても見立てることができるがゆえに、より推理小説のキャラクターとして機能している。それでありながら、プロットダブリン性として折木奉太郎が謎を解くことでそれぞれの屈託が発露するという構造も美しい。一番わかりやすいのは福部里志であり、自身で「データベースは結論を出せない」と呼称するように二番手であることや、折木のような推理力を自分は持ち合わせていないことに対する劣等感というものが屈託として描かれている。また、伊原摩耶花にしても完璧主義者としての側面があるからこそ、精一杯努力をするものの、それが報われないということに対して屈託を抱えているというのも、高校生たちの物語としては非常に秀逸である。
それでいて、主人公である折木奉太郎自身も例外ではないことが大味としてあるのは『愚者のエンドロール』を読めば分かることである。以上のように、『古典部シリーズ』ではキャラクターとプロットのダブリン性が自然に、そして効果的に描かれています。一方、『小市民シリーズ』にはこの要素が欠けており、そのため物語の深みが不足しています。この違いを生む要因として、「他者性」が重要なキーワードとなります。
「他者性」とは、他者との関係性を通した上で自分とはどういう人間なのか?ということを認識するという意味である。この文脈における「他者性」とは、他者との関係性を通して自分とはどういう人間なのかを認識することを指します。そのため、厳密な学術用語ではないことを事前に留意願います。
『春期限定いちごタルト事件』と『夏期限定トロピカルパフェ事件』の二作に限ってはそう言ったものは微塵もない。ただひたすらに個人的な話が続き、自己完結をしている。
小鳩常悟朗は「小市民」になりたいと思いながらも結局推理をするが、それを通して思うことは自己矛盾でしかない。他者と関わることで「それでも」という視点が底抜けしているのだ。それは小佐内ゆきも同様で、「受けた仕打ちを徹底的にやりかえす」という甘さを求める裏腹さというものは十分に描写されているものの、それだけに終わってしまっている。これも結局自己満足の類で、それによって周りどうのように折り合いを図るかという側面はないから、「ただ自分が不快なことをされたから復讐しました。」という単一的な視点でしか描かれていない。だからこそ原作を忠実に再現したとしても、キャラクターにかかる単一的な行動というものはどうしても目に余るものが発生してしまうのだ。
そしてそれは原作者も分かった上で『春期限定いちごタルト事件』『夏期限定トロピカルパフェ事件』の二作を書いているということが『秋期限定栗きんとん事件 上下』を読むとより明確に見えてくる。この作品では、小鳩常悟朗と小佐内ゆきが「小市民同盟」の関係を断った後の物語が描かれます。
ある火災事件の謎を解くという行動を瓜野高彦という新聞部に所属する学生が「調査」させるところからはじまり、途中で小佐内ゆきと付き合い、そしてある行動をとってしまったが故に終局では徹底的に小佐内ゆきに言いくるめられるというのが本作の大体の筋であるが、本作の書き方は「瓜野の章」-「小鳩の章」の繰り返しで構築されていることにある。では肝心の小鳩は何をしているのかと言えば仲丸十季子という新キャラ女子と付き合い、そして別れるという青春を謳歌した上で終局では本筋の火災事件の真相を言い当てるというポジションになっている。
瓜野高彦と小佐内ゆき/仲丸十季子と小鳩常悟朗
このカップリングでそれぞれが取る行動にはで『春期』『夏期』では当然のようにとっていた行動に対して自重がしばし見受けられる。特に小鳩常悟朗にそれが大きく見受けられる。小佐内ゆきではない別の女性キャラクターと付き合う時に心の中では「非小市民」的思想を残しながらも「でも、こういうのは思っても言ってはいけない」と悟り、会話の位相を合わせている会話がある。全てを書くと蛇足になるので、どのようなくだりであるかはそれぞれ読んでください。
ここで「正解」を述べるのは間違った行為だ。高校に入って丸二年、小市民としての生活でまなんだことがある。小市民は会話において、「適切」な相槌を打ったりはしない。誰も教えてくれなかったけれど、相手の話の先を読むことは、禁忌だ。
だからぼくは、また嘘をつかなければならない。つまり、
小佐内ゆき、小鳩常悟朗という二人の関係性しか描かれなかったからこそ、他の客観的な視点が欠いていた点が新しいキャラと付き合わせることで小鳩常悟朗自身が仲丸十季子に対してどのような行動を取ればいいのか、という点で会話の流れで「正解」ではなく「弾む」方向へとシフトすべきであるということ心の中で独白する。そして相手に合わせることで結果的自分が「ベスト」ではなく「ベター」な回答をすることによって、のちの会話文章も難なく進んでいく。これはまさしく「他者性」の発露である。小鳩常悟朗は本作では基本的には外側に位置しており全体像までには関知せず、別の女性との付き合いと通して「正しい人間関係の構築」に徹しているからこそ、それまでの小市民/非小市民の思想的な使い分けがより明確に使い分けをすることができている。最も仲丸十季子はそんな小鳩常悟朗の非人間的な使い分けの側面を以下のように指摘し、別れることにはなるのだが。
「気にしなかったよね、小鳩ちゃん。あたしが二股かけてても。本命が別にいても。どうでもよかったから、平気な顔をしていたんだ」
暑い。仲丸さんはどうして窓を閉めたんだろう
(中略)
「違う、小鳩ちゃんが変わらなかったのは、あたしを信じていたからでも、器が大きいからでも、優しいからでもない。(中略) 小鳩ちゃんは、最初から何も変わってない。去年、学校でこうやって、つきあっちゃおうって言ってから、なんにも。あんなにデートしたのに。いろんなとこに行ったのに。最初の日から、そのにこにこ顔が変わってない!ほら、いまも!」
指をつきつけられた。
・・・・・仲丸さん、むやみに人を指すのは良くないよ。そんなことされたら許さない人もいると思うよ。
僕は許すけど。
他者性こそ意識したものの、『春期』から通底する「痛いやつ」であることには変わりなく、引用文章からも分かるように、相手が情動的に話しているのに対して進行形で冷徹で、まるで興味関心のなさが表れている。『秋期』の段階では、こうした小鳩常悟朗の主人公としての痛さが混じったモノローグも混ざった台詞も登場するため、他者性を意識しつつ、でも自分の性格そのものに対しては全て正直に独白してしまう。これにより、前二作以上に、主人公の型の造形が非常に丁寧に描写されている。他者性をもってしても全ては変えられないという現実的な側面も描かれているため、バランスが取れている。
小佐内ゆきについては、彼女の他者性は描かれていない。読んでいる側の方が瓜野高彦に対して「ある行為」をしてしまった以後も含め「可哀想」としか思えないほど、小鳩常悟朗の代理として成り立つか否かを図っているため、彼女自身の内面が他者と関わることで成長しているというよりも「相変わらず」という側面が高い。ただし、小鳩常悟朗に対する認識は瓜野高彦という人物を通した上で彼女の認識が少しだけ変わったことは以下の引用からもわかります。
「わたし、小鳩くんがベストだとは思わない。きっとこの先、もっと賢くて、それでいて優しい人と、巡り合うチャンスがある。わたし、その日を信じてる。
でもね小鳩くん。この街にいる限り、船戸高校にいる限り。白馬の王子様がわたしの前に現れてくれるまでは。・・・・・わたしにとってはあなたが、次善の選択肢だと思うの。だから」
結局、小鳩常悟朗は少しだけ変化し、小佐内ゆきは変わらないままです。二人の関係性はあくまで期限付きの「次善」の存在でしかないことが強調されています。この空気感は、他の作品とは異なる独特なものであり、米澤穂信だからこそ描くことができるものです。
『冬期限定ボンボンショコラ事件』の終章では作者を通して小鳩常悟朗は以下のように振り返ります。
ぼくたちは高校に入るにあたって、互恵関係を結び、小市民を目指すと約束した。でもその約束は時と共に色あせて、より平穏で妥当なものへと変わっていった気がする。もしかしたらそれは、僕たちが自分自身を少しずつ受け入れていった経緯かもしれない。
(中略)
ぼくは結局のところ、自分があまり好きではない。賢しらに振り回した知恵の刃が誰かの胸をえぐっても、その返り血で自分の手が汚れたことばかりを嘆いている。そんな僕をどうして好きになれるだろう。けれど、それでも・・・・・自分を恥じていても、自分を受け入れていくしかない。これからはもう一人なのだから。
『小市民シリーズ』のオチは小鳩常悟朗と小佐内ゆきという二人が「互恵」関係を結びそれが「次善」になるという点については、小市民なんてものを目指していたけれど、それは少しずつずれていった。現実と自分たちを受け入れることによって「小市民」から別の何かに変わってしまったけれどそれはそれで肯定するしかないし、どれだけ自分が冷徹な視線でしかものを見れなくても「でも」受け入れていくしかない。という現実的な帰結で終わります。
結論として、小市民でいることは他者性の獲得と同義ですが、小鳩常悟朗はその全てを遂行することができません。彼の他者性は意識されていますが、完全に達成されることはなく、その過程で自己矛盾や葛藤が浮き彫りになります。これが彼のキャラクターの魅力であり、『小市民シリーズ』という異形のシリーズにおける唯一の着地ポイントなのかもしれません。そして『秋期限定栗きんとん事件』『冬期限定ボンボンショコラ事件』の二作では、それこそが物語の深みを増す要素となっています。
以上が、アニメ『小市民』と原作『小市民』を照らし合わせた時に感じた歪みの違和感についての全てです。「キャラクターダブリン」「プロットダブリン」「他者性」という造語まで創り出して書くほどに、自分もこの作品に対して多くの思いを抱いていました。この文章が、誰かが『小市民』シリーズを考察する際の一助となれば幸いです。それでは。