去年の夏の僕、夢について

[以下、1年前に書いた、『カフカ短編集』読書感想文の全文]

夢日記をつけたことはあるだろうか。筆者はつけたことがある。この作品を読んでいて、はじめは翻訳がおかしいと思った。しかし、それはもはや表現の問題ではなかった。筋書きがくるっているのだ・・・そしてふと、気がついたのである。これは夢日記だ、と。
夢の世界はいつも狂っていて、しかし現実的なものだ。往診に行かなくてはならないのに、村のだれも馬を貸してくれなくて困っていると、家の庭の壊れた豚小屋に馬と馬丁がいて、ひどく安心するも、後にその馬丁が女中を犯す心配で頭がいっぱいになったりする。夢とは基本的にそういうものである。

一度ゆめにっきをつけようと決心すれば、すぐにカフカになれるわけはない。はじめはうまく思い出せないこともあろう。しかし心配は無用だ。毎日続けることで、少しずつ覚えていられるようになる。思い出そうという努力が大切だ。ゆめにっきをつけると夢と現実の区別がつかなくなるなどとぬかし不安を煽る者が多いが、夢の内容を覚醒時に考えるため、その記憶が夢の内容か、現実の内容か忘れてしまうだ
けで、大した問題ではない。さて、ゆめにっきを書き続けていると、見る夢が記憶に定着するようになってくる。ここで初めてカフカの世界に足を踏み入れることができる。夢は、根底に常に自分の感情がある。すべての事象に自分の反応がある。この点は覚醒時に近いが、どこが違うかというと、その事象自体が自分の感情に内包されている点である。つまり、「不安」という感情から「女中が犯される」が現れる。
「幸せ」という感情から「梨花と沙都子とのしあわせエピソード」が現れる。つまり、その感情は絶対的なもので、実際その事象を体験したときに抱く感情とは無関係である。つまり、筆者は夢の中で現実では抱いたことのない「幸せ」をも感じることが可能なのである。これに関しては実に夢のある話だ。ぜひとも筆者が書いた日記をここに貼り付けたいところだが、もっと書くことがあるので割愛する。

多くの夢はただのカオスのようだが、ごくまれに、メッセージ性を感じるようで、神の存在を感じるか、または人間の脳についての興味がそそられるような夢を見ることがある。また、メッセージ性はないにしろ、劇場版アニメを見た後のような気分になる、不気味なほど整った夢を見ることもある。後者のタイプの夢を見た日の筆者によれば、「2020/05/16 小説書けるレベルの夢だった。ただ、どんどん記憶が
薄れるのでここに書いてある内容は小説とは程遠く、筋もぐちゃぐちゃ。(中略)すごいリアルで重くてつらい話だった。映画を見ているみたいに筋が立ってて不思議な夢だった。忘れてしまったのは非常に残念である。」とのこと。よって、カフカ短編集の中に、到底夢の話とは思えない比較的筋の通った話が存在しているのも筆者は納得している。

カフカは、死ぬ前、友人に、自分のメモや原稿をすべて焼き捨てるように頼んだらしい。もしその原稿が自分の夢の内容だったら、そう頼むのもわからなくもないような気がする。その友人は、カフカの頼みを無視し、原稿を世に出したらしい。カフカの作品が有名になり、「名作」と言われるようになったのは、そのあとのことだという。世に出すためでもなく、見栄も張らず、そのまま浮かんだ言葉を綴った原稿
が、かえって面白くてうけたのかもしれない。実際筆者も読んでいてすごく面白いと感じた。

追記   つい調子に乗ってこの作品はゆめにっきである!と断定してしまったが、この作品はゆめにっきのようであると同時に(最近の歌詞意味わからない系の)歌の歌詞のようでもあると思ったのだった。いくらなんでも時代を先取りすぎだぞ、カフカ。

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