吉弘

【いつか来る春のために】❺ 第三章 仮設からのリライブ編  黒田 勇吾

               第三章

 翌日の三月十日は土曜日だった。仕事をされている人も多くは休みをとって、どこかの会場の一周忌に参加するために朝から動いているようだった。美知恵が仮設の集会所と自宅を往復しているときに何人もの喪服を着た住人とすれ違った。九時をまわったころには康夫おじさんも集会所に喪服姿でやってきた。美知恵はおじさんと少し打ち合わせをしながら集会所の設営準備を一緒に進めた。九時半過ぎにはすべての準備を終えて美知恵は一度自宅に戻った。自宅では加奈子も喪服に着替え、光太郎をあやしていた。
 本当は美知恵は葬祭場で一周忌をしたかった。しかし隆行の葬儀が終わった十二月の時点で一周忌の会場を予約しようとしたが、どこに電話しても翌年の三月十一日前後はすべて予約で満杯だったのだ。困り果てて自治会長に相談したら、市の担当者に事情を話して頂いて、集会所を使わせていただけるようになった。ただしお線香と蝋燭は使用しないという条件付きだった。康夫おじさんとも協議して、それでもありがたいということで集会所での合同回忌を決定したのだった。
「さあ加奈子さん、集会所へ行って皆さんをお迎えしましょう。忘れ物はないよね。光太郎のおむつ大丈夫?でも雪が降らなくてよかったわ。集会所は暖かくしているからそこで皆さんを待ちましょう」美知恵は先に玄関を出て集会所に向かった。ベビーカーを引いた加奈子が遅れて玄関を出た。
 集会所の周りで子供たちが鬼ごっこをしていた。笑いながら走り回っている。美知恵はその姿に安堵した。子供たちもようやく普通に外で遊ぶようになった。心の傷が少しは癒えてきたのであろうか。あぁ、あの子はお母さんを亡くされた吉弘君だ。笑えるようになったんだなと少し安らかな気持ちになった。がんばっぺなぁ、吉弘君、と心の中で呼びかけた。
 集会所の入り口の横に鈴ちゃんが立っていた。煙草を吸いながら空を見上げている。喪服姿でバンダナはしていなかった。
「鈴ちゃん、おはようございます。今日はお忙しいところありがとうございます。雪にならなくてよかったですね」鈴ちゃんは美知恵を見てにこっと笑い、少し寒いですがもうすぐ春の気配のする空ですね、と言った。
「鈴ちゃん、春はもうじきだ。先ず中に入って暖まってください」と手招きしながら美知恵が先に入った。加奈子は入り口横にベビーカーを置いて光太郎を抱っこして続いた。鈴ちゃんも、灰皿に煙草を捨てて中に入った。
 集会所の広間の正面には簡易な祭壇が飾られていて、そこに5人の遺影が飾られている。その前に献花台が置かれ、そして20人ほどが坐れるようにパイプ椅子が並べられている。正面中央にマイクスタンドがあって、自治会長さんが音の調整をしていた。最前列の椅子に康夫おじさんが一人ぽつんと坐っていた。写真を見ながら何かを考えているようだった。十時を過ぎると、一人二人と集まってきて椅子にこしかけ始めた。美知恵と加奈子はそれぞれに挨拶とお礼の言葉を言いながらひとりひとりに声をかけた。康夫おじさんは相変わらず椅子に座ったまま動かなかった。

十時三十分の開式の時には椅子が満席になっていた。司会を引き受けてくれた自治会長さんが開式の辞を述べた。寒い中ご列席をいただいた御礼を述べ、本日は5人の一周忌法要を執り行うことを話した後、まず全員で黙とうした。そのあと、こうあいさつした。
「本日の一周忌法要は、ご遺族の意向により無宗教の式とさせていただきます。家族・友人のご参列の下、亡くなったお二人のご回向とまだ見つかっておりません三人の一刻も早い家族のもとへのご帰還をお祈りする場といたします。明日の三月十一日で、震災より一年となります。この一年、私たちにとっては苦しみと悲しみの日々が続きましたが、ご遺族は本日をもちまして、新たなる希望の人生を五人の方とともに出発いたしたいとのことでございます。どうぞご参列いただきました皆様におかれましては、今後ともご遺族に寄り添い続けて頂き、励ましのお言葉とお心をいただきますようよろしくお願い申し上げます。それでは初めにご遺族、続きましてご親族、そしてご友人の順番で献花をお願い致します」
 自治会長の司会の言葉に続き、はじめに康夫おじさんが立ち上がって左のテーブルに置かれている百合の花を二輪持って中央の献花台にゆっくりと献じた。そして手を合わせて静かにお祈りをした。そしてじっと動かぬまま1分ほどが流れた。やがて康夫おじさんの肩が震えて、嗚咽が漏れ始めた。そしてすっと何かを吹っ切るように回れ右をして、参列者に一礼して椅子に戻った。
続いて美知恵が立ち上がり参列者に一礼してから花を持って献花台にそっと献じた。手を合わせて静かにお祈りを捧げた。そのあと加奈子が光太郎を抱っこしたまま献花してお祈りをし、親族、友人と続いた。いつの間にか参列者が増えていて後ろにたくさんの方が立っていた。やがてすべての参列者が献花を済ますと、あらためて美知恵と加奈子が立ち上がって参列者に向かって立った。美知恵がマイクの前に立ち静かに語りかけた。
「皆様、息子の隆行は実はとても向日葵の花が好きでした。隆行の妻の加奈子と二人で二十五本の向日葵の造花を作りましたので、本日ここに合わせて献花させていただきます。息子はあの日二十五歳でした。その人生に謹んで感謝の思いを込めて献花させていただきます」そう挨拶して右のテーブルに別においていた向日葵の造花が溢れている籠を、美知恵と加奈子と抱っこされた光太郎がの三人でそっと献花台に捧げた。何人かの方のすすり泣きがしんと静まった集会所にこぼれた。
 続いて司会からご遺族の代表の挨拶を促され、はじめに康夫おじさんが前に立った。おじさんの目は真っ赤に腫れてうっすらと涙がにじんでいた。

「ご参列の皆さん、今日は弟2人のために集まっていただきありがとうございます。私は話するの苦手でございます。だもって、簡単に話させていただきます。私の弟2人は今もって行方不明でございます。悲しいこってございます。私も含めておらだぢ3人はみな独身でございました。ですから私たちの代で安部家の血縁は途絶えてしまうでしょう。それは、いだし方ないことでございます。父も母もとうに亡くなり、この度は弟2人も失うということになりますた。私も一時は死ぬことばっかり考えておりますた。んだども、ここにいる山内美知恵と嫁さんにこの1年間いろいろ励まして頂き、今日まで来たわけでございます。本当にありがたいこってす。私の故郷、夢川も本当に変わり果てた姿になりました。しかし今は負けてはなんないという気持ちになってきました。私も70歳を過ぎて何も希望と言えるものはなかったのですが、故郷の友達や若い衆ど、この1年いろいろ付き合ってひとつ希望が持てるようになりました」ここでおじさんは一息ついた。参列している皆さんの顔をひとりずつ見渡してから、やがてまた話し続けた。
「私は今まで自分の為だけを考えて生きてきました。んだども今は実家の浜の若い衆のために残りの人生は捧げるつもりです。それが生きがいであり希望であります。今日も参列してもらってる浜の皆さんのためにこれから頑張ります。だもってどうか皆さん、これからもよろしぐお願いいたしたいです。本日は来ていただいで本当にありがとうございます。明日は浜に行って、若い衆どともに、3.11を迎えいまいちど出発していぐ所存です。ありがとうございますた」康夫おじさんはそう締めくくって深々と礼をして席に戻った。
「それではご遺族の代表して、もう一方、山内美知恵より挨拶があります」司会の言葉で美知恵が立ち上がった。と同時に加奈子も光太郎を抱いて隣に立った。2人で参列者に深々と一礼すると、美知恵が話し始めた。

「本日は私ども山内家の家族並びに安部家の一周忌法要に、ご多忙の折、このように大勢の方にご参列いただき心より御礼を申し上げます。本日の一周忌は本来でしたならば明日に行うべきですが、牧野石市の合同慰霊の儀式等もあり本日執り行わせていただきました。我が家では、私の両親が震災の津波の犠牲となり、ひとり息子である隆行は今なお行方不明の状況でございます。安部家においても弟様お二人の行方が不明のまま、このように周忌を執り行わなくてならないのは断腸の思いでございます。両家では宗旨が異なりますので本日は無宗教の形で執り行わさせていただいたわけでございます。私の両親は私を大切に育ててくれました。また孫である隆行も本当に慈しみ育んでいただき、本当に優しいおじいちゃんおばあちゃんでした。隆行が高校に進学の折、学校通学の為私と隆行が市内中心部に住み離れて暮らしておりましたが、最後まで孫思いの両親に感謝は尽きません。
 息子の隆行はその後大学に進学して教職課程を取り、卒業後は小学校の教諭として牧野石の小学校に赴任いたしました。本日は学校関係者の代表、並びに隆行のご友人に参列を賜りました。謹んで御礼を申し上げます。隆行は25年の短い人生でございましたが、悔いの無い意義深き人生を生きたといまは私は思っております。とりわけ大学を卒業して小学校に赴任してからの日々は充実した歓びの毎日であったと思います。愛する加奈子とも出会い生徒さんたちとも最高の学校生活を送らせていただき、また自身の後継者を残しての旅立ちでした。そして最後まで担任としての責務に生きた人生を本人も悔いなき思いでいると確信するものでございます。
 息子を失うということは確かに哀しみの出来事かもしれません。まして加奈子は息子と一週間の新婚生活しか過ごしておりません。加奈子の思いを考えるとき、確かに無念の思いに駆られます。しかしながら皆様、私と加奈子そして光太郎という三人の絆を結んでくれた隆行に、いまは感謝の思いでいっぱいなんです。この一年間で隆行からは、幸せを感じるのは環境ではなく、自身の心の強さにあることを教えて頂きました。それはここにいる加奈子も同じ思いであると感じております。
 どうか本日ご参列いただきました皆様におかれましては、未熟者である私達家族にお力を頂戴し、今後とも温かく見守っていただきますことをこの場をお借りしてお願い申しあげます。本日はご多忙の折にもかかわらずご参列をいただき本当にありがとうございました」
 美知恵と加奈子はゆっくりと一礼し、席に着いた。その後再度黙とうして一周忌は終了した。簡潔な儀式ではあったが皆が復興の思いを共有する集まりともなった。やがて美知恵たちの周りに人が集まり、懇談の輪ができた。涙を流していた人もやがて笑顔になって談笑がしばらく集会所で続いた。

美知恵は集会所の後片付けを皆で終えて、自治会長に挨拶したあと、康夫おじさんに声をかけた。加奈子は友人の真理ちゃんたちと入口で立ち話をして笑っていた。
「おじさん、お疲れ様でした。先ずはひと段落でしたね。これからまだまだ大変だけど、一緒に頑張っていきましょう、体気を付けてね」
「みっちゃん、ごくろうさんだった。先ず。一区切り踏ん切りがついたってとこだなぁ。今日はこれがら夢川の浜さ行って泊まる予定だ。明日は浜のみんなど復興に再出発だな。夢川はまだ何も始まってねえがら長い道のりになっぺ。んだども希望は自分たちでつぐっていぐしかねぇ。希望はあたえられるもんでねぇと思う。みっちゃんこれがらもよろしくなっす」微笑みながら康夫おじさんは手で顔を撫でた。綺麗に剃った髭のない顔が少し赤くなっていた。小さなふたつの目はまだ濡れていたが、笑顔になって、また来週なぁ、と言って康夫おじさんは集会所の玄関を出ていった。美知恵はおじさんに頭を下げてそれから加奈子に声をかけた。
「加奈子さん、先に帰ってるからね。おひるごはん用意してっから、よかったら真理ちゃんだちもよるように言ってね」加奈子は微笑んで頷いた。美知恵は集会所の入口を出て歩き出した。そして今のおじさんの言葉を思い浮かべた。(希望は自分たちで創っていくしかない)おじさん、その通りですね。なんて素敵な言葉だろう。おじさんも変わったなぁ。美知恵は感動して微笑んだ。おじさんを変えたものはなんだったんだろう、と考えてみたがよくわからなかった。集会所の周りはお昼の時間になったからなのか、子供たちはすでにいなくなっていた。

 美知恵がぜんざいを温めていると、加奈子が帰ってきた。真理ちゃんたちは帰ったということだった。美知恵は三人分のぜんざいを盆に載せて隣の部屋に行った。加奈子も光太郎を抱いて一緒に座った。美知恵は三人の写真の前にぜんざいをお供えすると静かに写真に語りかけた。
「お父さん、お母さん、隆行、先ほど一周忌を済ませました。長い一年だったように思います。みんなでよく食べたぜんざいをお召し上がりください。隆行は特に好きだったよね。いっぱい食べてね。これから新たな人生に出発します。どうか私たちを見守っていてください」美知恵は写真に手を合わせて祈った。加奈子も合掌して目をつむった。光太郎が膝の上でおとなしくして写真を見ていた。
「はい、じゃあ加奈子さん、私たちもいただきましょう」美知恵は気持ちを切り替えるようにすっと立ち上がって居間に戻った。

「お母さん、光太郎にも少し食べさせてみるわ。ぜんざいのお汁くらいはもう食べれると思いますから」加奈子は炬燵に座って抱っこした光太郎に前掛けをした。美知恵はその姿に微笑みながら三人分をお椀に盛りテーブルに置いてから座って、いただきますと言った。お椀から美味しそうな湯気がのぼった。加奈子はスプーンでぜんざいの汁を掬うと、息を吹きかけて冷ましてから光太郎の口に運んだ。光太郎はいやいやをして食べようとしなかった。美知恵はそれを見て言った。
「じきに食べれるようになるでしょうよ。おかゆも離乳食もずいぶん食べれるようになったもの。しかし光ちゃんは元気に育ってて安心ね、風邪もひかないし。お母さんのおっぱいの栄養が豊富なのね」
「私そんなに食べてはいないんだけど、母乳はまだいっぱい出ます。少しずつ離乳食に換えていってますが、まだおっぱいとミルクが好きなんですよね」加奈子は笑いながらスプーンの汁を自分が飲んだあと、二時からの復興イベントはお母さん、どうしますか、と問いかけた。
「これを食べたら少し休憩しますね。二時過ぎぐらいに顔を出しましょう、鈴ちゃんが歌うの聴かないと。というか是非聴きたいねぇ、どんな歌なのか楽しみ」美知恵はそう応じて、ぜんざいをゆっくりと味わい始めた。

「お母さん、先に行ってますよ」という加奈子の声で美知恵は昼寝から目を覚ました。ちょっと休むつもりが時計を見ると一時間ほど寝てしまったらしい。一周忌の法要が無事終わって緊張がほぐれたからなのか、起きたときは二時半を回っていた。加奈子は美知恵が疲れていることを知っていたのでそっと寝かせていたのだ。美知恵は急いで準備をしたが、もうすぐ二時四十六分になることを思って、いったん隣の部屋に行って写真の前に座った。いよいよ明日が3・11だなと思った。46分を待って静かに黙とうをした。いろいろな思いが駆け巡ったが、そうだ鈴ちゃんのコンサートが始まるんだと思いだして急いで化粧を直してから集会所に向かった。集会所の裏の駐車場には大型バスが二台停まっていた。見ると茨城県OO大学と書かれたステッカーがバスの右正面に貼られていた。
 去年の秋にも確か来ていた大学だと美知恵は思った。集会所の周りは人がいっぱいだった。急いで入口を入ると、歌声が中から聴こえてきた。鈴ちゃんの声だった。静かに中に入り、右隅に光太郎を抱いている加奈子を見つけると、その隣に座った。加奈子は涙ぐんだ眼をして美知恵を見た。集会所の正面に椅子に座ってギターを弾きながら鈴ちゃんは歌っていた。赤いバンダナをして、ラフな白の厚手のセーターを着た鈴ちゃんの歌は、三拍子の少し哀切な調べだった。鈴ちゃんの透き通った高音の歌声が響いている。美知恵はいい声だなぁと思いながら鈴ちゃんを見つめた。
 加奈子は目頭をハンカチで押さえていた。美知恵は遅れてきたことを後悔しながらひたすら鈴ちゃんの歌に聴き入った。やがてギターが終奏し、歌が終わった。ぎっしりと埋まった観客から大きな拍手が上がった。鈴ちゃんがゆっくりと立ち上がって一礼した。
 え、終わりなんだべか、と美知恵が半ばがっくりしそうになったら、鈴ちゃんがまた椅子に座り直して話はじめた。
「皆さん、それでは最後の曲を歌わせていただきます。この歌は、去年の暮れから今年のはじめの二か月ほどかけて創った歌です。先ほどもちょっとお話ししましたが、私は家族をこの震災で亡くしました。その悲しみと苦しみはそうやすやすと癒えるものではありません。今日ご参加されている皆さんのなかにも同じ境遇の中でこの一年を闘ってこられた方が随分といらっしゃるでしょう。私は震災翌日に、亡くなった妻と娘に対面できました。それは確かに悲しいものでしたが、それよりももっとつらい思いをされてる方も実はいらっしゃいます。それはご家族がまだ行方不明の方です。その状況がこの一年ずっと続いていることを思うとどんな声をかけていいのか正直言って分かりません。そうした方々の心を思い、創らせていただいた歌です。
 私はこの一年間、命というものについていろいろと考え続けてまいりました。いったい命とはなんなのか、という少々小難しいことを考えたりもしたのですね。本も沢山読みました。ある本では、死後は天国に行くんだよと説いている。いや、死んだらすべてはおしまいという方もいらっしゃる。人それぞれ宗教観も違うし、命のとらえ方も違います。私はそうしたことをいま議論するつもりはありません。ただ私はある宇宙学者の言葉に心惹かれました。それは、命は死で終わるのではなく、死は生の始まりであり、生命は永遠に続いていく、という言葉でした。その言葉は苦しんでいた私の心にドンと入ってきました。そしてそんな思いの中で創らせていただいたのがこの曲です。
 それでは聴いてください。追悼の歌、水平線を越えて、という歌です」鈴ちゃんは前説をそう話してから静かにギターを弾き始めた。シンと静まった集会所に、アコースティックギターの前奏がゆったりと流れ始めた。


 ♪ この青く静かな海に 
  あなたは眠っているだろう
  
  安らいだ思いを胸に抱いて
  楽しい夢を見ながら
    
  吹雪はもう降らないから
  春はもう来てるから
  野山に咲いた桜並木が
  風に揺れているよ
  
  あたらしい命に生まれ変わって
  美しい心のままで そのままで
  水平線を越えて 戻っておいでよ
  仮の家にいるけれど
  あなたの部屋もあるから   ♪

静かにゆっくりしたテンポで鈴ちゃんは歌っていた。美知恵は何とも言えない気持ちで歌に心をゆだねながら、ああ、自分の思いを歌にしてくれていると思った。あの日の吹雪のつらい思い出が心をよぎった。必死になって隆行を捜しつづけた幾週間もの哀しみが心に湧いてきて、涙があふれ出た。

 ♪ この青く静かな海に あなたは眠っているでしょう
  あたたかい笑顔を心に広げて
  ひとときまどろむように
  白い雲が流れているよ
  夏はもう来てるから
  街角に咲いたひまわりたちが
  太陽に照らされているよ

  新しい命に生まれ変わって
  やさしい心のままで  そのままで
  水平線を越えて  帰っておいでよ
  仮の家にいるけれど
  あなたの部屋もあるから

  幸せをひとたびは  奪われた気がした
  昔には戻れないと  泣いた夜もあった
  だけど悲しみを  乗り越えて
  いのちは とわに消えない

  水平線を越えて  帰ってきてください
  涙の夜の向こうには  希望の朝が来るから
  水平線を越えて  あたらしい太陽(ひ)が昇るよ
  悲しみばかりでは ないさ
  あなたの愛があるから
  みんなの愛があるから

  この果てしない宇宙の海に
  あなたは眠っているでしょう
  あたらしい命に 生まれ変わって
  使命に目覚める そのときまで  ♪

 やさしいギターの伴奏にのって歌われた鈴ちゃんの歌声が強くなったり、弱くなったりしながら、やがてゴスペルの囁きのように静かに歌が終わった。少し間が空いてから皆が一斉に大きな拍手をした。かたまって聴いていた茨城の学生たちも大きな拍手をしながら立ち上がった。鈴ちゃんはありがとうございました、と一礼するとギターを持ってそのままあとは何も言わずに出口に向かって行った。
 美知恵と加奈子は一緒に泣いていた。うつむきながら、そして時にお互いを見て頷きながら泣いていた。やがて美知恵は加奈子の肩を叩いて、鈴ちゃんのところへ行きましょう、と囁いて立ち上がり出口に向かった。集会所では次の演目の準備のために茨城の学生たちが動き始めていた。

鈴ちゃんは出口横の控室にいた。四畳半ほどの畳の部屋は暖房が効いてあったかだった。美知恵たちが顔を出すと、やあ、と鈴ちゃんは握手を求めてきた。美知恵は鈴ちゃんの手を両手で包み込むように握って礼を言った。
「鈴ちゃん、素晴らしかったよ。胸にジーンときて涙が止まらなかったよ」美知恵は握手している手を一層力を込めて二三度振った。
「鈴さん、感動いたしました。三曲ともみな心に響きました。私の思いを代わりに歌ってくれたようで、うれしくて涙出ました」加奈子も握手を求めた。鈴ちゃんはにこにこして嬉しそうだった。
「みっちゃん達にそう言ってもらえると、歌を創った甲斐がありましたよ。僕は歌うのそんなに上手くないから結構緊張したんですよ。今日は集会所にいっぱいの人だったからなおさらでした」
「鈴ちゃん、私、遅れて参加したのでちゃんと聴いたの最後の曲だけだったけど心に沁みる素敵な歌でした。よぐこんな歌創ったねぇ、たまげましたよ」
「みっちゃん、そんなに褒めないで下さいよ。素人の荒削りの歌です。でも何とか皆の思いを歌にしたいと素人なりに必死に創った曲です。たった一人の心にでも届いたらそれで創った甲斐があったというものですよ」鈴ちゃんはそう言ってギターケースを閉じようとした。
「あのぅ最後の歌の、なんて言ったっけ、歌詞カードは余分にないですか。よかったら欲しいんですけど」
「みっちゃん、ありますよ。加奈子さんの分も差し上げましょう」鈴ちゃんはケースの中からファイルを出して歌詞の書いたプリントを二枚くれた。美知恵たちは丁重にお礼を言って出ようとした。それを引き留めるように鈴ちゃんは言った。
「みっちゃん、加奈子さん、確かに隆行君との別れは悲しいことだったと思います。でもね、必ず彼は二人のもとに帰ってくるから心配しなくていいですよ。それは時間が経った時に必ずそう感じる時が来るから。僕も今は妻も娘も僕の近くに帰ってきていると信じています。というか感じています。だから僕はもう寂しくないですよ。妻の、そして優衣のぬくもりを感じています。そう思える日が必ず来るから二人とも一歩ずつ前に進んでいってください」鈴ちゃんは二人を交互に見つめたあと一礼した。美知恵と加奈子はあらためて坐り直して涙ぐみながら鈴ちゃんに頭を下げた。そうして、皆で一緒に外に出た。集会所の中から元気な歌声が聴こえてきた。鈴ちゃんは、明日からもよろしく、と言って一人で自分の住んでいる棟に向かって歩いていった。
 美知恵はその鈴ちゃんの遠ざかっていく背中を見て、不意に叫んだ。
「鈴ちゃん、隆行は、たかゆきは本当に帰ってくるだべか。鈴ちゃん、本当に戻ってくるだべか」鈴ちゃんはその声に振り返り、また戻って美知恵と加奈子の前に立った。
「みっちゃん、加奈子さん、そして光太郎君、私は必ず戻ってくると思っているし、そうであることを願ってます。この震災でどれほどの人が亡くなり、どれだけ多くの人が行方不明になったことか。その方々はおそらくみな素晴らしい母であり、父であり、可愛らしい息子、娘だったはずです。みな優しくて素敵で、笑顔が可愛くて、美しい心を持った人だったでしょう。そうした方々が亡くなったら、もうそれで終わりになるわけがないと僕は思っているんです。私はいのちが永遠に続いていくことを今は信じるようになりました。秋が来て冬になり、木々はいったんすべての葉を落として枝だけになりますが、春が来ればまた新しい芽を出して、やがて若葉が広がり、素敵な花を咲かせるじゃないですか。四季の中でそれを毎年繰り返しているじゃないですか。自然はそうして生々流転を繰り返しています。人間のいのちも同じだと思う。この世界、というか宇宙に存在するものすべては、生と死を繰り返して永遠に続いていくだろうと思います。僕はそれを感じています。うまく言えないけど僕は妻も娘もまた新しい命の衣を着て僕のもとに戻ってきていると思います。みっちゃん、加奈子さん、それを信じるかどうかはお任せするとしか言えません。でも僕はそう思った時に初めて生きていく希望を見出しました。そうとしかいまは言えないんだけど、そう思って生きていくことを僕は選びました」鈴ちゃんはそう言うと、美知恵と加奈子の肩に軽く手をかけてにっこりと微笑んだ。美知恵は少し考えてからこっくりと頷いて
「鈴ちゃん、今はよくわかんないけど、隆行が私の心に息づいているのは感じています。でも隆行が本当に私の心に戻ってきてくれることを、これからも祈りたいと思ってます。今日は素敵な歌をありがとうね、鈴ちゃん。今度はうちに来て、コンサートしてください」そう言って涙を拭いた。鈴ちゃんは、うん、約束しますよ、と笑ってから、空を見上げて一息つくと、ギターケースを持ち、小さくうなずいて帰っていった。

  終章に続く
  https://note.com/relive/n/nd2499d371923/edit