【いつか来る春のために】㉚ 加奈子の想い出編➓ 黒田 勇吾
三月十一日は金曜日でしたね。あぁ、何で土曜日じゃなかったんだろう。しかも14時46分という時間の地震。悔しくてしょうがないわ。
あなたは学校にいた。私は体調不良のため実家で休んでいて両親といた。あなたのお母さんはお仕事で内陸の古川に行ってたわ。そしてあなたの実家の北岬町にはおじいさんとおばあさん。とにかくみんなが別々の場所に居た時の地震。あの大きくて長い揺れの後、私はすぐにあなたの携帯に連絡した。すぐにあなたが出て、今学校の校庭に生徒たちを避難誘導中、落ち着いたら電話する、両親と一緒に安全な場所に避難しろ、身体は大丈夫か、今移動中だから後でまたね、と言って切れた。それがあなたとの最後の電話、あまりにも短い最後の一方的な会話。私は両親と一緒に急いで内陸の蛇川地区に車で向かった。その途中、隆ちゃんのお母さんから電話が来て、今から北岬町の実家に戻る、そちらは大丈夫なの、隆行は大丈夫ね、私が電話をしても出ないの。そんな連絡があった。それからお母さんとは、三日間連絡が取れなかったのよ、隆ちゃん。蛇川に着くころに雪が降り始めて、何か嫌な予感がして、隆ちゃんに何度も電話したけど、もうつながらなかった。私はそのあと気分が悪くなって、結局両親と一緒に牧野石病院に行って、三日間入院してた。病院に行った時のあわただしく駆け回る看護師さんたちとは裏腹に、妙に人が少ない病院の一階の静けさを今でも思い出すの。
これからはその後一週間ほどの間に学校の先生や生徒その他の方の話を伺って分かったことを正確に書きますね。あの日、南風小学校では地震の後すぐに全生徒を校庭に集めて、一年生から順次裏山の日和ヶ山に上がった。全員の生徒を山に避難するのに三十分ほどで終了し、雪が降り始めたので大きなブルーシートを被って出来るだけ子供たちが濡れないようにしたそうだわ。その後今度は、津波がやってきてすぐに火災が小学校付近で発生して、牧野石市女高の校舎に全員を移動させ避難させたという。
そして後から聞いて愕然とした。小学校の先生方のうち、津波が来る前に数人が卒業証書や大切な書類を取りに、山を駆け下りて校舎に戻った。その中の一人が隆ちゃん。やがて津波が押し寄せてからくも逃げて他の先生方は助かった。その先生の一人の証言によれば、隆ちゃんが受け持っていた一年生のクラスの一人が、風邪で午前中に早退したためすぐ近くだからその子の家に行って連れて戻る、と言い残して車で行ったのがあなたの最後の目撃証言。なぜその子のところに行ったかはあとで聞きました。なぜならその子は一人っ子の母子家庭で、お母さんがまだ帰宅していないことが分かっていたらしいから。普通は父母が学校に迎えに来れない場合は保健室で保護し、親に連絡が取れたら必要な措置を取るという取り決め。その子は熱がたいして無くて、連絡がついたお母さんの指示に従い帰宅させたという。隆ちゃんはその子の家に行って避難させるために、車で学校を出たのを一人の先生の証言で判った。そのあともう一度先生方が山に登る途中で津波が押し寄せてきたということだった。一人の生徒の為にあなたは危険を冒してその子の家に向かったんだよね。隆ちゃんらしい決断、、、。
隆ちゃん、その子はちゃんと助かったわ。安心してね。その子のお母さんが急いで自宅に戻り、すぐに車で日和ヶ山に避難して無事だったの。あなたの、教え子を助けたいという一念がお母さんに通じていたのよ。
隆ちゃん、私はその話をあとで聞いたとき、複雑な思いだった。あなたは行かなくてもいい危険を冒してあえて行ってしまったんだもの。たぶん助けようとした生徒さんは自宅にもういなかったんでしょう。そしてあなたはそのあとどうしたのだろう。確かに津波が来たときにはあの付近の道路は大渋滞だったらしいから、自由に動けなかったのかな。渋滞していた多くの車とともにあなたの車も津波にのまれてしまったのでしょうね。あの地域は多くの悲劇が生まれてしまった場所。悲しみの思いが詰まった場所になったわ。
津波の後の火災で次の日まであたり一帯が燃えて、何もかもが燃え尽きてしまった。家も車も、そしてたくさんの尊いいのちが悲しみの涙を流した場所になってしまった、、、。
~~㉛へつづく~~