牧石

【いつか来る春のために】㉕ 第二部加奈子の想い出編❺  黒田 勇吾

 しかしその神社は今はない。津波によってすべて流され、削られ、その場所は今小さな湿地帯のようになっている。だから今は下りていくことができない。加奈子はその変わり果てた思い出の場所の前に立ってあの日の光景を思い浮かべた。
 隆ちゃんと私は花火が始まった7時半には社についていた。周りには花火見物をする家族連れや恋人たちがたくさんいた。あちこちで歓声が上がっていた。しばらく座って花火を見ていた隆ちゃんが急に立ち上がった。
「加奈子、中洲って南流川に浮かぶ大きな船のようだべ。この俺たちがいる場所はその船の甲板と同じだと想像してみて」隆ちゃんの言葉に確かに言われてみれば中洲は南流川の上流に突き進む客船のような形をした島だと思った。
「加奈子、立って目をつむってけろ。俺たち二人は映画のようにタイタニック号の先端に今立ってる。どう、イメージできっか?だから目をつむってみてよ。俺はレオナルド・デカプリオ、加奈子はお相手の女優。名前なんて言ったっかなぁ、まあいいや。それで二人はここから新たな旅立ちをするんだ」
「うん、イメージはできたけど、映画では二人きりでしょう」
「そりゃそうだけど、今は周りの人は無視してけろ、そのまま目をつぶっててね」そう言うと隆ちゃんは私の後ろから両手を回してそっと抱き寄せた。そして耳元で言った。それは花火の音でかき消されないで加奈子の心に届いた。
「空に咲いた花火は美しいよね。でも地上のなかで一番美しいのは加奈子だ。今日から二人は新しい人生に船出する。一生離さないから俺と結婚してくれ」そして私の手に何かを持たせた。私は少し涙目になりながら目を開けてみると、金色のリボンがついた小さな箱だった。涙でリボンが虹色に霞んだ。開けるとダイヤのリングが花火の明かりで見えた。私はわっと泣いてしゃがみ込み、隆ちゃん、ありがとうと言った。隆ちゃんは結婚してくれるよね、とあらためて確かめた。私は振り向いてその眼を見ると頷いた。声がかすれて返事ができなかった。そのとき立て続けに花火が空に輝いて周りから歓声が上がった。

 加奈子は川の流れに目をやった。あの時隆ちゃんは、私を一生離さないと言ったんだよなぁ、とぼんやり思った。社があったあたりに上流から流れてきた水が渦になって小さなしぶきを上げた。少し風が出始めたのだろうか。ふとベビーカーの光太郎を見るといつの間にか目を覚まして私を見ていた。光ちゃん、起きたのね、と声をかけておむつを確かめてみるとちょっと濡れていた。そうだ、漫画館でトイレを借りようと思い道を渡って中に入った。工事中だったが、守衛らしき人にお願いしてしばらくそこで休憩させてもらった。そしてタンブラーに入れて持ってきたミルクを光太郎に飲ませた。中洲で津波に流されなかった建物はここだけだったんだよなぁと周りを見渡した。十五分ほどで光太郎が180mlのミルクを全部飲んで笑った。お腹いっぱいになりましたか、よかったですね光ちゃん。あと一か所で終わりですからねぇ、と声をかけてまた立ち上がった。

            ~~㉖へつづく~~