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【初愛】~君に捧ぐいのちの物語~⑧

震災からしばらくは、この父の想い出の詰まった歌を聴かないでいたのだが
やがて父のことを追慕したい衝動にかられて抑えきれず、また聴くようになった。
 一曲目の「ミセス・ロビンソン」の軽快な前奏が部屋に流れる。音は隣近所に迷惑にならないように小さめだ。アコーステックギターのカッティングが心地よい。やがてポール・サイモンとアート・ガーファンクルのユニゾンの歌が始まる。この瞬間が公春は好きだ。何か新しいことが始まる予感を感じさせる声の響きだった。
 公春はベットで横になって天井を見ながら歌に心をゆだねていた。こうやって何も考えずに歌を聴いているときが、公春にとっていちばん心休まる時間なのだった。
 しばらくは何も考えずに歌に心を委ねていたのだが、スカボロ・フェアの曲が始まると、忘れようとしていた万里江の面影が天井に映し出されてくるのだった。万里江はS&Gの曲の中でこの歌が一番好きだったんだよなぁと思う。そんな万里江の想い出が様々に蘇ってきた。震災前の万里江との想い出は、全部幻ではなく現実にあった出来事なんだよなぁ、とぼんやりと考える。

そうするうちに、一昨日のマスターとの会話が思い出されてきた。

公春は一昨日の菜月たちの歓迎会が終わって、「街合わせ」に新人二人を送り届けると、いったん自分の車に戻って小休止した。小一時間ほど休んだ後で、公春はもう一度マスターの店に戻ったのだ。それはマスターも承知していて、公春が来ると一階の奥テーブルで待つようにマスターは言った。

 午後の11時を過ぎて客がいなくなると、マスターは表の暖簾を外して店を閉めた。そして包丁人の大垣とアシストの純ちゃんをあがらせて、カウンターの電気だけ消すとマスターが公春の座っているテーブルに来た。手にはおちょこふたつと徳利を持ってきた。
「また呼び戻して悪かったな。少し酒に付き合わないか?」と言って公春の向かいに座った。公春は徳利をもらってマスターのおちょこに酒を注いだ。公春も自分でおちょこに酒を注いで、マスターに目礼しながらゆっくりと口にした。
「春べぇも酒強くなったなぁ」とマスターが感慨深げに話し始めた。
「そうだなぁ、お前はお父ちゃんと一緒に寿司を食べに来て、お父ちゃんの酒をよく啜ってたっけな。あれは中学の頃だったかな」
「そうです。親父も日本酒が好きでした。というかマスターのだし巻き卵を目当てに親父はお店に通ってきてたようでした。僕も卵が大好きで、卵ばっかり注文してたっけ」公春は思い出し笑いをした。マスターは頷きながら、実は話というのは、お前の将来のことなんだ、と出し抜けに話を切り出した。

         ~~⑨に続く~~