第九

窓      黒田 勇吾

 彼は朝目覚めると、ありきたりのコーヒーとパンで心と体を温める

そして雨であろうと晴れていようが 静かに窓をあけるのだ

下界の天候をよそにして窓を覗くとそこは常に自在な季節が巡っている

どんなに寒い朝でも南国のゆるやかな海のさざ波がやさしく囁いている

どんなに暑い季節でも 避暑地の涼やかな風は吹いていて清々しい

彼はその窓の中の風景を見ながらこの世界につながっている自分を感じる

世界は自在の窓だ そして時に残酷な窓でもあるのだが

哀しみや苦しみとともに 歓びもあり 楽しみの平穏もある

内戦に右往左往して 生に逃げる悲しき人々の瞳

自堕落で放蕩な海に身を任せ 欲望のままに搾取するブルジョア

延々と続く型はまりの毎日に疲れてもなお抜け出そうとせぬ自縛の心

野心のみの戦場にいて屍累々の泥地で利養に執着してなお懲りない姑息

彼はそうした窓の諸風景に時に疲れ 時に安寧して 夢見つつ暮らしていた


ある朝 いつもながらに窓を開けると

ひとりの妖精の切なくも心に響く物語に出会った

清純と混乱と焦燥のはざまの中で なおも妖精はみずからの聖地を旅して

生きんとする ただひたすら物語を紡いで生きんとしている

かれは彼女の哀切と真摯の言葉に驚き 妖精の天上の調べに暫し心を委ねた

いまだ彼の経験せぬその歌の調べは 彼を戸惑わせ 時に心を釘づけた

そうか 世界は広いのだ この窓から広がる異国の妖精の調べに

彼は思いを巡らし そしてそのまだ見ぬ未踏の聖地に思いを馳せて

ペンを持って立ち上がった すでに何度目かの敗戦の痛手に懲りず

彼はまたふたたびペンを持って立ち上がった!

窓の向こうの妖精の心惑わせるしらべに踊らされているのか

はたまた暁鐘の真実を知らせる妖精の無垢の巡礼の旅に連なるのか

彼は心なしか精気を溌剌とさせる自分を感じながら旅支度を整える

これはもしかして儚いインポッシブルドリームかもしれぬ

しかしかれは昔誓った願いを今再び燃え立たせて

窓の向こうの妖精の調べのほうへ あえて歩みはじめる

愛が真実なのか 誠が正しいのか 彼はまだわからないまま

窓の向こうの世界に あえて闊歩し始めた

見果てぬ夢を この世界の果てまでも追い続けると

あらためて誓いながら、無窮の青空に向かって飛び立った。

             了