【先輩の苦悩と闘い】黒田 勇吾
奥田さん、ご無沙汰しております。
今日、2023年年3月11日であの日から12年の歳月が経ちました。
お元気でお暮しでしょうか。
お嫁さんは、頑張りましたね。お孫さんはお元気でしょうか?
2011年7月にお生まれになって、もう12年です。
今は、小学6年生になったのでしょうね。
今年は、中学生。
速いものです。月日の進み具合は、容赦なく私たちの悲しみなどを
置いてきぼりにして足早に過ぎていくのでしょう。
2011年3月1日付で、入社した会社に、初出社した折、私は仙台支店におりました。ですから、奥田先輩に石巻営業所で初対面したのは、3月2日の水曜日だったかもしれません。
9時からの朝礼で、マネージャー(所長)の話の前に、貴女は何かのエピソードを通して、仕事に対する取り組みを分かりやすく社員の前で、お話ししていたその堂々とした姿が忘れられません。
いわばマネージャーの片腕となって営業所の運営をサポート統括しているお立場でした。
20年以上にわたるキャリアで、シンママとして、お子様お二人を育てていた
毅然とした威風堂々のお姿を時折思いだします。
私が、会社を退職する2011年10月末まで、たくさんお世話いただきました。
ありがとうございます。
大変な状況の中で、5月にご家族の葬儀が石巻市内の斎場で行われました。
会場内には、たくさんの想い出の写真や遺品などが置かれていました。
とりわけ、私は今も心を離れないのは、津波でお亡くなりになられた息子様と残された奥様の披露宴での
記念写真です。
1分くらい見ていた記憶があります。
やがて告別式が行われて、ご焼香のために前列に行った折、
お嫁さんの喪服は黒いドレスでした。
もうお腹が目立っておりました。
下を向きながら、椅子に座ってご挨拶をされた姿、忘れません。
その5月中旬に仙台市内で行われた、キックオフミーティング。
石巻市内から仙台の会場まで中型バスで向かった車内では、
一番後ろに同僚の女性社員と静かに座っていましたね。
キックオフミーティングは、宮城県内のたくさんの営業所の
方々が、営業所ごとに地域の現状と、お仕事の再出発の
決意をそれぞれの工夫を凝らして披露していました。
ラストに石巻営業所が再出発の決意を皆さんに伝えました。
マネージャーから、代表で黒田君が決意発表してください、と
前日に言われて、結構戸惑った。
話すことはまとめていたけど、全部嘘のように思えた。
しかし、原稿にまとめた通り話した。
演台に立っている私たちと、聴いているほかの営業所の方々と
明らかに空気感が違うことを感じながら。
そして、奥田さんのお話し。具体的にはあまり詳しく話さず、亡くなってしまった家族を失った心を伝えた。
最後にマネージャーの営業所の決意発表と支社長のお話しで、ミーティングは終わった。
その時流れ始めた、ファンキーモンキーベイビーズ の歌。
ファンモンは好きだったが、私にはただの雑音にしか、その時は聴こえなかった。その心の無力感と、内陸部の同期の友達との乖離する思いが、
ジワリと心を締め付けて我慢していた涙が溢れ出て来た。
歌の力の無力感。もうすでに被災地でも始まっていた空気の濃度の違いが心を締め付けて、後片付けをしながら、泣けてしまった。
気丈に支社の方々に挨拶している奥田さんとマネージャー。
私は心乱れたまま、バスで帰路に就いたが、どうやって帰ったのか記憶にない。
仙台の桜はすでに散って葉桜の季節。
青葉通りの欅並木は、すでにたくさんの若葉に覆われていたことだけは、流れゆく風景の中で、心に残っていた。
@過去投稿を一部編集して再投稿いたします。
全世界の災害、戦乱でお亡くなりになられた
すべての方々のご冥福をお祈りいたします。
2023年3月11日