保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第3回) 設立趣意書と発起人
前回、日本文化会議が解散したときに書かれた井尻千男(1938-2015)の記事を紹介した。そしてその文章が専務理事鈴木重信(1913-2004)が『文化会議』最終号に書いた文章に則った記述であることを指摘した。鈴木は創立から解散まで一貫して専務理事だった人物なので、信頼のおける証言者であることは確かだが、他の関係者の証言と突き合わせると、鵜呑みにはできないところもある。そのあたりは追々検討していくが、井尻の記事は、日本文化会議が歴史的存在として後世にどのように語られたかったのかを示している。
設立が1968年で解散が1994年なので、26年間の活動期間だった計算になる。元号で申せば昭和43年から平成6年までである。1968年は川端康成(1899-1972)が日本人として初めてノーベル文学賞を受賞した年だが、1967年に『万延元年のフットボール』を刊行して評判になっていた大江健三郎(1935-2023)が2度目のノーベル文学賞を受賞をしたのが1994年である。
1994年、前年に自由民主党が下野して成立した非自民の細川護熙連立内閣は、細川の辞職に伴い羽田孜(はた・つとむ 1935-2017)内閣となるが、これも短命に終わり、自由民主党、日本社会党、新党さきがけの連立政権で村山富市(1924-)内閣が発足する。日本社会党の村山首相は臨時国会で自衛隊合憲の所信表明を行い、従来の同党の公式見解を転換した。1995年は戦後50年に当たる記念すべき年だったが、1月に阪神・淡路大震災が発生、そして3月には、麻原彰晃(1955-2018)が創始したオウム真理教による地下鉄サリン事件が起きて、日本国内のみならず世界を震撼させた。
それでは、日本文化会議が設立された1968年に時間を巻き戻そう。まずは設立趣意書をご覧にいれたい。日本文化会議設立の立役者である自由社社長石原萠記(いしはら・ほうき 1924-2017)に拠れば、この趣意書は当初若泉敬(わかいずみ・けい 1930-96)に執筆を依頼した。石原は事務局長を若泉に委嘱するつもりだった。若泉は内閣総理大臣佐藤栄作(1901-75)の密使として米国との沖縄返還交渉に深く関与した人物である。佐藤栄作は非核三原則制定が評価され1974年ノーベル平和賞を受賞したが、若泉は1994年に大部の著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』で米国との極秘交渉の内容を公表、1996年、同書英訳版原稿を完成後、日本政府が核持込の密約を米国と結んだ結果責任をとり自邸で自裁した。66歳だった。
話を戻すが、若泉は多忙のためか、いつまで経っても趣意書ができてこない。おそらく沖縄返還交渉に携わっている時期だったと思われるが、石原は財界から財政的支援を得るためにも趣旨を記した文書が必要だった。そこで、若泉ではなく村松剛(1929-94)が草稿を書いた。この草稿は次回に全文を紹介するが、「あまりに長文すぎるということと、目的に少しく相違する点があった」ため、石原萠記が手を入れ、それをさらに福田恆存(1913-94)が添削し、設立総会で修正の上、決定されたものである(石原『戦後日本知識人の発言軌跡』『続・戦後日本知識人の発言軌跡』)。
設立趣意書(昭和四三年六月一〇日任意団体設立)
思想、道徳、文化、政治、その他において、戦中、戦後に亘る混乱は今日漸く落付きを見せつつあるように思われますが、それはあくまで表面上の事であって、一応安定せる生活条件の下にありながら、拠るべき価値観の喪失のため、国民一般は今なお心の底にある種の空虚感を抱き続けております。このままでは些細な政治経済上の蹉跌が、いつまた左右両翼の過激な狂信状態に人々を追いやるか、その危険は全く無いとは申せません。
顧りみれば、それは単に戦後二十年の動向に留らず、明治以来、わが国の近代化にとって宿命的なものだったと言えましょう。われわれの過去百年は、排外的な文明開化思想とそれに抵抗する国粋主義との二つの潮流の交替の歴史であり、その激化が戦前のマルクス主義的革命運動と超国家主義的革命運動との対立となり、戦争と敗戦の破局を通じて両者は攻守処を変えはしたものの、この二つの潮流との対立と交替は、今後もわれわれの歴史を支配しかねない状態にあります。伝統との断絶による今日の文化的混乱は、戦後急速に推し進められた大衆社会現象によってますます助長され、無責任きわまる浮薄な言動が人々を支配し、国民一般はその帰趨に迷っているかに思われます。
そういう状況においては、真の意味における精神の自由と個人の自律性とを養い得る基盤はまことに弱く、国民は左右両翼の思想的対立に挟まれ、ある者はその谷間の狭い道を歩む孤独感に陥り、またある者はその圧迫を逃れて放縦と無責任に身を委ねるという有様であります。民主主義を標榜する議会政治の混乱はもとより、さらに根本的には思想、道徳、学問、教育、芸術の頽廃、あるいは不振についても、その観点から改めて反省しなければなりますまい。
今日最も必要な事は、この事実を十分に自覚し、国際関係の複雑化と緊張に対処しながら、正しい世論の形成につとめ、更に東西の思想的懸橋として世界史の上に演ずべき日本の役割を果す事であって、そのためには責任ある自由の立場に立てる同志の結集と合意の急務なる事を痛感し、ここに「日本文化会議」を設立したいと思います。前途を想う同憂の方々の御賛同を願います。
昭和四十三年六月
日本文化会議発起人
発起人
阿川弘之(作家)、安部民雄(早稲田大学・哲学)、会田雄次(京都大学・西洋史)、青山秀夫(京都大学・経済学)、池田弥三郎(慶応大学・国文学)、石川忠雄(慶応大学・政治学)、石田英一郎(多摩美大学・文化人類学)、泉靖一(東京大学・文化人類学)、伊藤整(作家)、犬養道子(評論家)、井上靖(作家)、猪木正道(京都大学・政治学)、今泉篤男(近代美術館長)、遠藤周作(作家)、大島康正(東京教育大学・倫理学)、神沢惣一郎(早稲田大学・倫理・哲学)、河上徹太郎(文芸評論家)、川北倫明(美術評論家)、川端康成(作家)、気賀健三(慶応大学・経済学)、木村健康(東京大学・経済学)、高坂正堯(京都大学・国際政治)、小林秀雄(文芸評論家)、今日出海(作家)、酒枝義旗(元早稲田大学・経済学)、坂西志保(評論家)、坂本二郎(一橋大学・経済学)、獅子文六(作家)、白井浩司(慶応大学・仏文学)、杉森久英(作家)、鈴木成高(早稲田大学・西洋史)、鈴木重信(神奈川県教育センター顧問)、関嘉彦(都立大学・法学)、曽野綾子(作家)、竹山道雄(評論家)、田中美知太郎(京都大学・哲学)、谷口吉郎(東京工業大学・建築)、手塚富雄(立教大学・独文学)、時実利彦(東京大学・生理学)、中根千枝(東京大学・文化人類学)、中村菊男(慶応大学・政治学)、中村光夫(文芸評論家)、西谷啓治(大谷大学・哲学)、西義之(東京大学)、浜口博(東京教育大学・放射化学)、林健太郎(東京大学・西洋史)、林武(画家)、平林たい子(作家)、福田恆存(評論家)、福田信之(東京教育大学・物理学)、福田麟太郎(東京教育大学・英文学)、増田四郎(一橋大学・経済学)、三浦朱門(作家)、三島由紀夫(作家)、武藤光朗(中央大学・経済学)、村松剛(立教大学・仏文学)、山室静(文芸評論家)、山本健吉(文芸評論家)、吉川逸治(東京大学・西洋絵画史)、吉田健一(文芸評論家)、吉田富三(癌研究所所長)、蠟山政道(国際基督教大学・行政学)、若泉敬(京都産業大学・国際政治)
(六十三氏)
*このシリーズの掲載は不定期です。
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