神谷光信

日本文学。博士(学術)。詳細な経歴はこちら。https://researchmap.jp/okapi/

神谷光信

日本文学。博士(学術)。詳細な経歴はこちら。https://researchmap.jp/okapi/

マガジン

  • 放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から

    放送大学大学医博士後期課程は、2014年10月に1期生が入学しました.募集定員10人、受験者260人、合格者12人。3年後の学位取得者4人。私はそのなかの1人でした。放送大学博士後期課程とは、どのような世界なのでしょうか。体験者として詳しく記事にしました。社会人で博士号取得に関心がおありのある方はぜひお読みください。

  • 岸惠子論:国際政治の世界から

    映画女優岸惠子は、1932年、神奈川県庁職員の一人娘として横浜に生まれました。若くしてスターとなり、イヴ・シャンプ監督と結婚してパリで暮らし始めます。この評論は、パリを中心に、1968年のチェコ動乱、イラク革命など、国際政治の視点から、彼女の人生を追跡するものです。

最近の記事

保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第7回) 4人の企画立案者

組織であれ事業であれ、最初は誰かのアイデアから生まれる。そしてそれが何人かに共有されてプロジェクトになっていく。日本文化会議も同じだった。63人の発起人の前に、数人の企画立案者がいた。 石原萠記、福田恆存、村松剛、鈴木重信の4人である。このなかで世間でもっとも知られている人物は、福田恆存であろう。英文学者・劇作家・評論家として名高い。村松剛はフランス文学者で文芸評論家、遠藤周作や三島由紀夫、開高健などと親しかった人物である。中東問題にも明るい親イスラエルの評論家としてもメデ

    • 保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第6回) 革新側の警戒

      日本労働組合総評議会。1950年に設立された、日本社会党を支持する全国的労働組合の中央組織である。略称は「総評」。1989年に解散して日本労働組合総連合会、略称「連合」に合流した。この組織の機関紙『総評』1968年7月19日号に「強まる自民党のPR攻勢」という記事が掲載された。日本文化会議設立に関する論評である。この記事は、日本文化会議を革新勢力に対する「文化領域における支配勢力の攻撃」と捉えている。名称からして国民文化会議に対抗するような組織だと述べている。国民文化会議とは

      • 保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第5回) 設立趣意書の草稿

        前々回、日本文化会議の設立趣意書を紹介したが、当時立教大学助教授だった村松剛(1929-94)が書いた草稿は以下の文面だった。読んだことがある人はほとんどいないと思われる。村松が事務局長になる可能性もあった。石原萠記(1924-2017)は草稿を「当時の文化状況を簡明に語っている」と評しているが、若泉敬(1930-96)から急遽役目を引き継ぎ、短期間で執筆したのか、文字通りの叩き台で推敲がほとんどされていないように思われる。その分、村松がどのように時代を見ていたのかがよくうか

        • 保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第4回) 任意団体から財団法人へ

          前回、設立趣意書と発起人を紹介した。この人選は、石原萠記が150人のリストを作成し、福田恆存、村松剛、鈴木重信らと協議して最終的に選定したものだった(石原『戦後日本知識人の発言軌跡』)。前回紹介したリストは五十音順だったので、改めて大まかな分野別に並べ替えてみたい。肩書は当時の資料のままである。西義之は所属しか書かれていないが、ドイツ文学者である。 文学 阿川弘之(作家)、池田弥三郎(慶応大学・国文学)、伊藤整(作家)、犬養道子(評論家)、井上靖(作家)、遠藤周作(作家)、

        • 保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第7回) 4人の企画立案者

        • 保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第6回) 革新側の警戒

        • 保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第5回) 設立趣意書の草稿

        • 保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第4回) 任意団体から財団法人へ

        マガジン

        • 放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から
          18本
        • 岸惠子論:国際政治の世界から
          16本

        記事

          保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第3回) 設立趣意書と発起人

          前回、日本文化会議が解散したときに書かれた井尻千男(1938-2015)の記事を紹介した。そしてその文章が専務理事鈴木重信(1913-2004)が『文化会議』最終号に書いた文章に則った記述であることを指摘した。鈴木は創立から解散まで一貫して専務理事だった人物なので、信頼のおける証言者であることは確かだが、他の関係者の証言と突き合わせると、鵜呑みにはできないところもある。そのあたりは追々検討していくが、井尻の記事は、日本文化会議が歴史的存在として後世にどのように語られたかったの

          保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第3回) 設立趣意書と発起人

          保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第2回) 1994年の解散

          『中央公論』1994年6月号の表紙には、誌名の下に「細川政権とは何だったのか」という記事のタイトルが、執筆者佐々木毅の名前とともに印刷されている。1993年の衆議院選挙で自由民主党が惨敗し、自由民主党(保守)と日本社会党(革新)が対立する、いわゆる55年体制が崩壊、細川護熙(ほそかわ・もりひろ 1938-)連立政権が発足した。1993年8月に発足したこの内閣は、しかし翌年4月に総辞職して短命に終わった。「細川政権とは何だったのか」というのは時期を得た記事といえる。 同じ号に

          保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第2回) 1994年の解散

          保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第1回) 忘れられた保守派知識人集団

          令和7年(2025年)は昭和100年に当たる。今年(2024年)5月7日、超党派の「国による昭和100年記念式典の実現を目指す議員連盟」(麻生太郎会長)が政府主催の記念式典と記念事業の開催を岸田文雄内閣総理に要望した。政府は内閣官房に推進室を設置したと7月5日に各紙が報じたが、それから続報がない。進捗状況はどうなのだろうか。 『産経新聞』は2024年4月29日の社説「昭和100年式典 日本を挙げて開催したい」で、次のように記した。 《昭和天皇の遺徳をしのび、激動の日々に思

          保守派の1968 日本文化会議とその周辺(第1回) 忘れられた保守派知識人集団

          世界美化とファシズム 現代詩を中心に

          哲学者今道友信(1922-2012)は、晩年に「万人が美の実践者になりうる」という実践美学(カロノロギア プラクティカ)を提唱し、「偉大な芸術家もわれわれ一人ひとりも、ビルの窓ガラスを拭いている者も、みな美の実践者である」と主張した(今道『美について考えるために』)。筆者は拙稿「世界美化の実践 資生堂「現代詩花椿賞」の周辺」(note24年10月23日)で現代詩の分野にこの思想を引き付けて簡単に触れたが、本稿では、三好達治、永瀬清子、茨木のり子、新川和江の詩を取り上げてもう少

          世界美化とファシズム 現代詩を中心に

          世界美化の実践 資生堂「現代詩花椿賞」の周辺

          株式会社資生堂は、創業142年、国内シェア1位、世界シェア5位の化粧品製造販売会社である。「美の力でよりよい世界を」を使命とする同社は、資本主義世界において商品販売を介して美を創造する企業であり、後述する今道友信が提唱した実践美学に照らせば、戦争と殺戮に塗れた地獄のごとき時代にあって、世界美化に献身する企業といってよい。   同社には37年創刊の月刊広報誌『花椿』がある。戦時色が強まる40年に休刊するが、敗戦後、連合国軍占領下の50年に復刊した。66年から11年まで仲條正義が

          世界美化の実践 資生堂「現代詩花椿賞」の周辺

          NHKのど自慢と現代詩 都築響一『夜露死苦現代詩』の周辺

          喜入冬子が最後の編集長となったマガジンハウスの詩誌『鳩よ!』の休刊から3年、文芸誌『新潮』05年1月号、創刊1200号記念特別号に、新連載コラム「都築響一の夜露死苦現代詩」(以下「夜露死苦現代詩」)第1回が掲載された。連載は翌年4月号まで続き、06年8月に新潮社から単行本として刊行された。 都築は56年東京生まれ。76年に創刊された平凡出版(マガジンハウス)の『ポパイ』編集部に学生アルバイトとして入り、やがて同誌のライターになった。80年に石川次郎、寺崎央、松山猛と新雑誌創

          NHKのど自慢と現代詩 都築響一『夜露死苦現代詩』の周辺

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(最終回)真理への愛と世界美化の実践

          放送大学大学院で一から学び直そうと考えたきっかけが、2011年3月11日の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の過酷事故であったことは、前に記しました。根源的な思想的動揺を覚え、それまでの自分が破産したと思ったということも書きました。要するに、真実が何も見えていなかった。 修士課程と博士後期課程の5年間。私がどのように自己を変貌させたのかといえば、一言でいえば、真理への愛と世界美化の実践に生きる姿勢を確乎たるものにしたということになります。認識と行為にかかわる在り方の

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(最終回)真理への愛と世界美化の実践

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(17)組み込まれた体制の周縁部を生きる

          中心と周縁という分析概念は、文化人類学者の山口昌男さんが広めたものです。排除されるものとしてそれまで否定的に捉えられてきた周縁部に山口さんは注目し、中心を活性化させるものとして、そこに積極的な意味を見出そうとしたのでした。そして、自分の人生をふりかえるとき、私は常に自分が中心ではなく周縁に生きて来た気がするのです。 あるとき、信頼する知り合いの大学教授から、私の研究が「境界的」であると指摘されたことがありました。いわれて初めて気がついたことでした。「制服を着た文章」(これは

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(17)組み込まれた体制の周縁部を生きる

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(16)時間管理の方法など

          社会人が大学院博士課程で学ぶことは、短からぬ人生の旅路に組み込まれた数年間なので、我々の人生そのものが再現不可能であるように、私の大学院体験が、いわゆるノウハウとして万人の役に立つことはないでしょう。 そもそも、目的が明確であれば、何事であれ、適切な手段は自ずと見えてくるものです。東京から大阪に行く際に、航空機、新幹線、在来線、高速バスなどの手段があり、その時々の用事によって方法を使い分けるように。 外国語を身につけるに際しても、世の中にはそれぞれに素晴らしい方法が公開さ

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(16)時間管理の方法など

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(15)修士論文の公刊

          前回は、博士論文を、関西学院大学出版会から公刊したことについて書きました。今回は、修士論文を公刊したときのことについて記します。 博士論文の口頭試問の際、遠藤周作とフランツ・ファノンとの思想的関係に関する疑問が投げかけられました。両者を結び付ける主張は、日本では私が初めて修士論文で行い(2014年)、そのほかでは、アメリカ合衆国のミシガン大学准教授が主張しているだけだったので(2014年)、ほとんど知られていない見解だったからです。(現在でもその状況は大きく変わってはおりま

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(15)修士論文の公刊

          放送大学博士後期課程:1期生の立場から(14)口頭試問と博士論文の公刊

          私の博士学位請求論文「ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究:村松剛、辻邦生との比較において明らかにされた、異文化受容と対決の諸相」は、400字詰原稿用紙に換算すると約2200枚、ごく一般的な単行本5,6冊の原稿量になりました。400枚程度を書けば分量的には充分なのですが、私はそれまでの自分の研究を集大成するつもりで、自分の命のすべてを注ぎ込んだのでした。 口頭試問は、すり鉢状の階段教室で行われました。他のプログラムの3名は1時間でしたが、4番目の私だけは、何故か

          放送大学博士後期課程:1期生の立場から(14)口頭試問と博士論文の公刊

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(13)メンターについて

          今回は、社会に出てからの私のメンター、わかりやすくいえば、理想の兄のような存在だった方々について書きたいと思います。 神奈川県の教員採用試験(正式には、神奈川県公立学校教員採用候補者選考試験)に合格すると、採用候補者名簿に登載されます。そして現職者に異動内示が出るころに、着任する学校から連絡が来て、校長面接を行います。  連絡があった工業高校を訪ねたのは雪の日でした。春の雪で、グラウンドが真白でした。初めて会う校長(故人)は、開口一番「君、酒は飲めるかね」といって私を驚かせ

          放送大学大学院博士後期課程:1期生の立場から(13)メンターについて