岸惠子(8)スカタン大将 小田実

岸惠子がその存在を強く意識した日本人に小田実がいる。岸と同年生まれで、やはり一九四五年の大阪大空襲を生き延びた人である。

東京大学で西洋古典学を専攻して呉茂一からギリシア語を教わり、ロンギノス「崇高について」を研究した。未完となったが、晩年にはホメーロス「イーリアス」の翻訳をしている。フルブライト留学生としてハーバード大学に留学したが、アメリカ合衆国を拠点にして、南米、欧州、中東など世界各地を旅行して帰国し、その体験を本に書いて注目を浴びた。一九六一年のことである。大学教授にならず、大学受験予備校の講師として高校生などに英語を教えた。アカデミズムの権威主義を嫌ったのと、在野で自由に発言する生き方を求めたからであろう。

小田は多くの小説を書いたが、ヴェトナム戦争に反対する団体の指導者などとして注目されることが多かったので、彼の作品が文藝評論家から盛んに論じられたり、日本文学研究者によって多くの論文に書かれたりはされてこなかった。小田実という名前はあまりにも政治的な色が付きすぎており、小説家として正当に評価されていないとわたしは思う。岸惠子が女優として数々の神話に彩られているように、小田実もまた、活動家としてのさまざまな伝説に覆われて、実像が隠されている。

岸が小田に関心を持ったきっかけは、小田の長編小説『現代史』上下(一九六八年)を読んだことだったようだ。この小説についてこの場で詳しく触れることはできないが、一九六六年から一九六八年にかけて書かれたこの作品は、谷崎潤一郎の『細雪』を強く意識している。ただし、東京オリンピックとヴェトナム戦争の時代の中流階層の日常生活を丹念に描きつつも、『細雪』の模倣ではなく転覆を企てた作品であると野間宏が指摘していることは紹介しておきたい(『小田実全仕事』4 解説)。

「『小田実全仕事』、ありがとう。ほんとうに――。〔原文改行〕小田実というひとには、逢ってみたいと思います。今度日本に帰ったら必ず実行します」と、秦早穂子に宛てた岸の手紙にはある(一九七一年一〇月一日)。この言葉は実行に移されていて、一九七一年から翌年にかけて小田が徳島の病院に入院したときに岸が見舞ったことを、小田からの直話として鶴見俊輔と瀬戸内寂聴が証言している(『同時代を生きて』)。その際に、自己紹介せずに話し続ける女性が有名な女優と知らず、最後にあなたはどなたですかと訊ねて小田は岸を驚かせたという。岸惠子は自分を知らない日本人がいるとは思っていなかったというわけである。

しかし、岸の人間性を傷つけるようなこの話は、小田の作り事である。秦との四国旅行を計画し、その中に小田訪問も組み込んでいた岸は、入院中の小田との電話でのやりとりを、秦への手紙のなかに詳細に書いているからである。「『現代史』を書いた、私たちと同年代のこのたくましい日本人が、実際にはどんな人なのか、どんなことをはなす人なのか、自分の眼で見てみたい、とは思いませんか?」(一〇月二八日)と記した岸は、次のように続けている。

《この人ひどい大阪ベンで、しかも凄い早口で、なにがなんだかよくはなしが通じないの。やっとのことで分かったのは、私が小田実に逢ってみたいと言ったのをもれ聞いた、あるテレヴィ番組の担当者が、テレヴィで岸惠子と対談しないかと言って来たとのこと、それをたった今、断ったばかりだとのこと。》(『パリ・東京井戸端会議』以下同)


「そやけど、どうせ退屈してますからね。お気が向いたら遊びに来て下さい」と小田は言った。それから、高校が同じだった有馬稲子の結婚式で一度岸とは会ったことがあるとも言ったという。こうして岸と秦は入院中の小田を訪ねたのだった。有名な女優から関心を持たれたということの照れくささを隠そうとして、小田は鶴見や瀬戸内に、さきほど紹介したような作り話をしたのかもしれない。

四国旅行の後、秦は手紙で「ひさしぶりに本物の人たちにあえたということが、今の私にとって、どれほど大切だったか、あなたにわかっていただけるかしら。あなたの積極性のおかげです」(一一月二三日)と岸に感謝している。小田に面会した以外にも、鶴見俊輔や柴田翔、そして小田らが出席する同人誌(おそらく『人間として』、神谷註)の座談会に、四国で二人は参加したようだ。

事前の電話のなかで、小田は「ボクの理想はスカタン大将や」といった。それはどんなのと岸が訊ねると、「スカタンばかりやってる男さ」。「ドでかくて、のろのろしてて、猫背で、風采があがらなくて、うす汚い男だ。けど、いったんことがあると、どこからともなくふらりとやってきて、的確にことを処理する。実にてきぱきとすみやかにやってのける。ことが終わると、このルンペンじじい、うすのろい顔をあげて言うんだ。『ほたら、用すんだよって、いなしてもらいまっさ』、ええやろ」。

実際に会ったあと、大まかで、しかし繊細で、笑いを絶やすことがなかった小田は、「どこかに絶対的な孤独さが影をひそめていたような気もする」と岸は記している。

岸は、「ほたら、用すんだよって、いなしてもらいまっさ」という小田の言葉と、父親が慣れ親しんだ自邸から病院に行くときに呟いた「じゃあ、さよなら。家よ、さようなら」という告別の言葉とを重ね合わせている。

《スカタン大将の方は、「用すんだよって、いなしてもらいまっさ」といなせな捨てぜりふを残して、ひょうひょうと去ってゆく。けれど、生から立ちのくのではなくて、どうしようもなくゴタついてヤヤコシイ世界から一時ひきあげて、彼ひとりだけの、誰も知らないネグラに帰ってゆくのでしょう。〔中略〕小田さんのいうスカタン大将とは、そんな風な人物だろうと私は思います。》


小田実は、特定の政党に属することもなく、「市民」として政治参加活動を継続的に行うことの可能性に人生を捧げたという点で徹底しており、いわば筋金が入っていた。彼が組織した団体は、ヴェトナム戦争の最中、アメリカ軍の脱走兵を非合法に日本国外へと出国させる活動も行った。チェコ事件の際に、亡命する青年二人の世話をしたイヴ・シャンピと小田は、似ていなくもない。おそらく、岸惠子にとって、夫であるシャンピ以外で、一個の人格として心から尊敬できる同世代の日本人男性だったのではないだろうか。

彼は体格のいい人で、組織の指導者としての資質があったが、政治家にはならなかった。彼は多分、若いときから、世界のどこに行っても、「ヒソヒソ、コソコソ、被害者っぽい、かわいそうっぽい姿で背中を丸め、膝を曲げ、オドオド街を歩」くような人ではなかった。

《三十年たち、四十年たちしたら、この、たくましい力と静かな闘志に燃えるスカタン大将も、やさしい眼差しで生をふりかえり、晴れやかに笑って言うのではないかしら。
 「ほなら、もう、そろそろ出掛けようや」
 と、そして、そのときはじめて彼は、ネグラではない方向へ、道の方向へ脚をはこぶのではないかしら。》


この文章を書いたとき、岸も小田も三九歳だった。小田実が亡くなったのは二〇〇七年のことである。七五歳だった。訃報に接したとき、彼女は「ほたら、いなしてもらいまっさ」という三六年前の電話の声が胸にこだまするのを聞いていたのかもしれない。(続く)

*次回は「殉教者墓地にて イラン」

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