岸惠子(7)イヴ・シャンピの死
イヴ・シャンピが心不全で急逝したのは、一九八二年のことである。一九七五年に離婚してからも、彼は岸の良き友人だった。日曜日には夕食をともにしたという。
パリの娘から国際電話がかかってきたのは、映画『細雪』を撮影するために日本にいた時期だった。シャンピの新しい映画「傷痕」の製作が決定し、スタッフともども大歓びしている。この映画で、ママに女医役をやってもらいたいとパパがいっている。「断らないでね、ぜったいに引き受けてね」と娘は弾んだ声で言った。
翌日、ふたたび娘から国際電話がかかった。「ママン、ママン! パパは、今朝、死にました」。受話器の向こう側で娘がいうのを、岸は茫然と聞いていた。
「シャンピの死で、私は精神的に孤児となった。離婚がもたらした混乱などと比較するべくもなく、私は打ちのめされた」と岸は記している。「風吹きすさぶ曠野に一人とり残されたような心もとなさが長いこと続いた」とも。「人生が消えてしまったと思った」という言葉もある。葬儀は空母クレマンソーで行われ、ブルターニュ沖の海に葬られたという。軍艦には女性は乗れないので、娘のデルフィーヌも乗船できなかった。
岸がシャンピと離婚したきっかけについては、先に触れたとおりである。岸は一一歳の一人娘を連れて家を出た。母親から贈られた漆塗りの姫鏡台も持ってきた。「一方的に決断してしまった離婚」を、岸はその後深く後悔することになる。「浅はかだった」。「一時の激情で一生の大事を壊してしまった」。「どうしてあのとき、もう一日、せめて半日でもいい、じっくりと考えなかったんだろう」と彼女は二〇一四年になっても悔やんでいる。
一九七一年、友人秦早穂子に宛てた手紙の中で、岸は「私は、未だに、イヴを夫とか、伴侶とかいう具合には感じていないの。非常に好ましき男性であり、他人である、という絶大の自由さと、勝手気ままさとが、そこには存在し得て、今では、こんなふうな夫婦関係が男と女、それも、わりと個性の強い異質なものを持ち合った男と女の、まがりなりにも共存し得る唯一のケースなのではないかしら、などと私なりの考えになりつつあります」と書いている。岸の父がパリの病院で死んだあと、母親が一年八ヶ月ぶりに日本に帰国したあとに、日本にいる秦に宛てた手紙である。しかし、父の治療に援助を惜しまなかったシャンピ自身は、岸のようには考えていなかったのだ。
五〇歳になっていた岸は、シャンピの死後、映画の世界から現実の世界へ、フィクションの世界からノンフィクションの世界へと、自分のなかの「国境線が動く」のを自覚した。映像として見られる人から、現実を見る人へと自己変革していくのである。(続く)
*次回は「スカタン大将 小田実」
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