岸惠子(5)ユダヤ人ってなに?
パリでわたしはインドシナ人だったと、加藤周一は書いている。インドシナ戦争が終結したのは一九五四年のことで、加藤の帰国はその翌年である。
結婚した年の夏、岸は高級靴店に二人の友人と入った。同じ年のテレーズと、夫の友人の妻ニコールである。靴のサイズが小さいので注文しようと思ったのである。服装は所属する階級を示す記号であり、当時のフランス人は、足許から視線をあげてその人物を値踏みする。店の女主人は、店に入ったときから「嫌悪と軽蔑の入り混じった」棘のある眼差しで岸を見ていたが、「足を小さくするという伝統は今でも続いているわけですか!」。「木型を作るといっても恰好物ですからね。フン、可哀相に。パリ中捜してもそんな小っちゃな足にあう靴はありませんよ。子供専門店にでも行くか、それより、いっそ植民地にでも帰った方が早いんじゃないの」と言った。インドシナ戦争終結は三年前だった。
驚いて全身を固くした岸の腕をとり、テレーズが出口まで行き店主に言った、「二度とこんな店には来ないわ」。そして「ケル・サル・ジュイーヴ!(なによ、汚いユダヤ人!)」と続けた。三人は通りを歩き出したが、ニコールが立ち止まって言った、「ちなみに……私もイスラエル人なの」と。「私の祖父も汚いユダヤ人、と言って罵倒されたわ。フランス中の人から……」とニコールは言った。彼女の祖父はアルフレッド・ドレフュスその人であったのだ。
もっとも、岸がその事実を知ったのは数年後のことだった。「のどかな初夏の午後に起こった束の間の椿事に、私はただ圧倒され、打ちのめされ、本能的に、陽炎のなかで揺れているニコールのシルエットに寄り添っていった」と岸は記している。ホロコーストから、まだ一二年しか経っていなかった時代の話である。そして、ヴィシー政権時代のフランスは、ナチスに協力してユダヤ人を迫害したのだった。
岸惠子がヨーロッパ社会におけるユダヤ人差別、また有色人差別に直面したのは、この靴屋事件がきっかけだった。この出来事は、シャンピ家のサロン(岸はアンチ・サロンといっている)に集まる人々の恰好の話題となったが、岸自身は混乱し、どのようにこの体験を受け止めたらいいのかわからないでいた。
サロンが開いたあとの夕食時に、岸は思い切って訊ねた、「いったい、ユダヤ人て、なあに?」と。食卓を囲む全員が一斉に黙った。そして「世界は広い。ユダヤ人を知らない人間がいるなんて!それがぼくの妻だなんて!」とシャンピが言った。義母が「塩のぜんぜん入っていないスープは不味いでしょう? けれど塩を入れすぎたスープはもっと不味いわね。ユダヤ人とはスープの中の塩のようなものですよ」といい、自分の鼻を指さしながら、アストリュク家の生まれなのと言った。「アストリュク」はユダヤ系の名前、そして「生まれ」と「鼻」というフランス語の音を掛けたユーモアである。彼女は父方がユダヤ系イタリア貴族だったのである。
パリの生活は、若い岸惠子に、さまざまな問いを投げかけた。その一つが、ヨーロッパにおけるユダヤ人という存在だった。彼女はその問いを手放さなかった。やがて彼女は自分のなかに潜むある種の「イスラム嫌悪」にも向き合うことになるのである。
靴屋事件から一六年後、ユダヤ人は、名前と顔を持つ一人の具体的な人物として、岸の人生に介入してきた。一九六〇年代半ば、夫婦はパリから南に一二〇キロ行った村に古い屋敷を別宅として購入していた。一九七三年のある日、この村で、友人から驚くべきことを岸は告げられる。クロードという「いやらしいユダヤ女」がシャンピ夫人気取りで、村中がそれを知っており、知らないのは岸だけだというのである。
岸はクロードを知っていた。彼女を「天涯孤独で可哀相な人」と感じていたことと、友人の差別的な言葉に許しがたいものを感じてクロードを擁護すると、友人は自分が「ユダヤ人嫌いでも、人種偏見者でもない」と断った上で「あのしたたかさはユダヤ人独特のものよ」と言った。
《一日も早く、あなたを追い出してシアンピ夫人におさまろうと、慎重に、着実に根廻しをしているわ。〔……〕この間なんか、お宅の寄生虫のような、あのすれっからしの流れ者、雑貨屋のサヴァレスの家で、大勢、人寄せをして、キャヴィアーヤフォア・グラで、シャンペンを抜いて祝ったのよ。イヴとクロードとの前途に幸いあれって。》(『パリの空はあかね雲』)
「サヴァレス?」と岸が驚くと、「そう、あなたの家の芝を刈り、ビーフシチューを作って管理人よろしく、シアンピ家におさまっているあの夫婦者、ジャップよりはユダヤ女の方に分があると思ったんじゃないの」と友人は言った。最後に友人がつきつけたのは、映画「ゾルゲ氏よ、あなたは誰?」試写会のお知らせだった。なぜあなたが日本に帰ったあとに試写会をやるのかというのだ。岸は自分の身体が震え出すのがわかった。
岸が日本映画に出演するために長くパリを留守にすることに、シャンピは淋しさを覚えていたのだ。彼は岸が「とりかえしのつかないこと」をしないよう懇願したが、岸は迷うことなく離婚を決めた。
この挿話からわかるのは、岸から夫を奪い取った人がたまたまユダヤ人であったことと、周囲のフランス人の、ふだんは隠されているユダヤ人に対する差別的な視線が、この一件を通して目に見える形ではっきりと示されたことである。「夫と私を離婚に追い込むためい相手の女性が弄したあの手この手は、決してうつくしいとは言えないものだったが、それは私側の理屈である」と記した後、岸は次のように述懐する。
《幾世紀にもわたった迫害にもめげず、常に生きのび、さらに大きくはばたいて来た不死鳥のようなユダヤの人が、「一目みたときから、この人こそ私が生涯を共にすべき人だと思ったの」とはばかりなく言い、妻子ある相手に万難を排して近づき、思いを実らせた行為こそ、もしかしたら美であり善であったのかもしれない。》(『ベラルーシの林檎』)
文意が必ずしも明瞭ではないが、相手の女性の背後に、岸が民族的背景を見ようとしていることはわかる。それは自分自身のなかに日本を強く感じていることと表裏一体である。「日本人の血のいのちを、しっかりと掻き抱いて生きる私に、このユダヤの女性を芯から理解することはできなかったが、夫のことは、離婚してからの方がよく分かった」と岸はいう。
「ぼくは、君の日本に、とうてい勝てないと思った……」というシャンピの言葉は、彼が感じていた孤独感をよく表していた。自分が日本人であるという強い意識が岸惠子にはある。フランス人の夫がいるが、妻である岸の国籍は日本である。離婚した娘を岸は日本に連れて帰りたかったが、日本国籍を取得することができなかったことも、パリ住まいを続けた理由だったようだ。
岸の人生を横切っていったユダヤ人のなかには、自分はユダヤ人だがシオニストではない、「あんなこと」がまたおきたらさっさと逃げるという映画プロデューサーもいた。彼はユダヤ人が持つ「マサダ魂」を説き、日本人が武士の魂とか神風特攻隊とかいうのを聞くと、日本人よりもはるかに長い歴史を持つユダヤ人の自分には可笑しいと岸に語った。
「あんなことって? まさかまたナチスが擡頭したり、ホロコーストが復活したりはしないでしょう」と岸が問うと、彼は「君には分からない……。ユダヤ人になったことがない君には……」と言った。三〇代半ばの魅力的なこの男性に、岸は友情を感じていたのだが、彼はある日自宅で猟銃自殺してしまったのだった。(続く)
*次回は「1968、パリとプラハ」
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