岸惠子(3)パリ、1950年代

若くしてメロドラマの主役としての世間名を持ってしまったことの怖ろしさ、スターという「怪物稼業」の怖ろしさを、岸惠子は大人気の最中に身に沁みて感じていた。移動はアームストロング・シドレー・サファイアという黒塗りの英国製高級車である。自分の顔と名前を、日本中の人々が知っている。それもメロドラマ女優として。あるいは「アプレ・ガール」として。押し潰されてしまいそうな圧力を彼女は感じていた。

川端康成原作の映画『雪国』の駒子を演じたあと、一九五七年四月、彼女は日本に両親を残し、ひとりで、羽田空港からプロペラのエール・フランス機に乗り、パリに飛び立った。日本を棄てることになるかもしれないと考えていた。一九五一年から五〇本の映画に出演し、日仏合作映画「忘れ得ぬ慕情(原題・長崎の台風)」(一九五六年)をきっかけに知り合った映画監督イヴ・シャンピと結婚するためである。

フランス語はできなかった。夫とは英語で話していた。岸はカトリック信徒ではなかったので、教会ではなく、パリ郊外にあるヴァルモンドワという村の役場で式を挙げた。デュアメルと川端康成が結婚式の立会人だった。日本のメディアは「毛唐の嫁になるような女」と岸を批判した。国際結婚に対する日本人の偏見は強かった。岸の心の琴線に触れたのは、どうしてフランスなんかへ行っちゃうの、という池部良のさりげない一言だった。

パリは初めてではなかった。前年に映画の打ち合わせのため、東和映画社長と英国に行く途中、パリに立ち寄ったことがあったからである。レマルク『凱旋門』を邦訳で読んでいた岸は、ぜひパリに行ってみたかった。少女時代から読書好きだった。三日三晩の結婚式のあと、岸は夫に連れられて、ドイツ、イタリア、スペイン、ギリシアなどヨーロッパ各地を旅行した。

イヴ・シャンピは一九二一年生まれだから、一九三二年生まれの岸より一回り年上だった。岸はジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーと同世代である。シャンピはそもそもは医師であり、戦時中は軍医として、またナチス占領下のレジスタンス運動に関わった人である。カトリック信徒だが、教会にはあまり行かない人だったようだ。

シャンピ家には、長年にわたり執事兼料理人を務める夫婦がいた。ブルターニュ出身の家政婦もいた。彼女は、岸が花瓶に花を生けても、それを抜き取って生け直してしまう。「私が生けた花に触るな」と、優しく、しかし威厳を持ってフランス語で言うことすら、岸には簡単なことではなかった。

シャンピ家には、多くの知識人が訪れた。マルロー、サルトル、ボーヴォワール、レイモン・クノー、イヴ・モンタン、シモーヌ・シニョレ。しかし、岸はフランス語がわからないので、何かすごい会話が飛び交っていることは理解できたが、当代最高の知的選良たちが交わす議論を理解することはできなかった。「猫に小判である」と岸自身が語っている。そして次第に言葉が理解できるようになると、「あ、これはかなわない」と思ったという。

もっとも岸は、「驚嘆し、幻惑され、めまいを感じたりもしたけれど、それは、なんとなく気分を高揚されただけで、私が自分の内的変革を自覚することはまったくなかった、と、思う」と記している。

フランス語はそれぞれが所属する階級に対応している。岸は当初それがわからず、勉強熱心なあまり、出入りの業者と家政婦とのやりとりからも学ぼうとしたので、夫婦で招かれた首相官邸の晩餐会で、出席者が驚くような階級的言い回しの挨拶をして、夫と参加者たちを凍り付かせたこともあった。

猛勉強をして半年でフランス語を理解できるようになり、パリ大学にも履修登録をしたが、映画関係で忙しく続かなかった。パリを堂々と歩くことができるまでには一〇年かかったという。友人宛の書簡を読むと、一九七二年になると、朝吹登美子の招待でユネスコに行き、森有正、サルトル、ボーヴォワールと勅使河原宏の映画を見ており、サルトルの批評を書き記している。

このような挿話は岸自身が語っていることなので、若い人以外には何ら目新しい話ではないだろう。わたしが興味深く思うのは、当時のパリにいた日本人に対する岸の厳しい眼差しである。


《私がパリに来たとき出逢った日本人は、みんなヒソヒソ、コソコソ、被害者っぽい、かわいそうっぽい姿で背中を丸め、膝を曲げ、オドオド街を歩いていた。旅行は自由ではなかったし、その頃、海外に出た日本人は奨学金を得た学生か、一期の覚悟を決っして国出した芸術家か、国や会社から派遣されたエリート中のエリート、インテリ中のインテリで、その人たちは街なかですれ違うと、自分の恥部でもみせられたように、顔をしかめてソッポを向き合った。》(『パリの空はあかね雲』)


もっとも、一九二〇年と一九三〇年にフランスにいた金子光晴も、岸との対談で、「昔のパリの日本人は、日本人を見ると横を向くてえようなのが多かったけど……。向こうの人とくらべると、日本人てえのはたいていがガニ股で変な恰好してましたからね。昔はそれが嫌だったんですよ。自分だって、ガニ股のくせに、おれは日本人じゃあねぇてえような顔をする」(「寛かなれ、巴里の空」『面白半分』一九七四年一〇月号)と述べているので、岸の視線がことさらに辛辣なわけではないのかもしれない。

一九五〇年代、日本人男女が、毎年フランスに留学している。思いつくまま挙げるだけでも、遠藤周作、井上洋治、森有正、田中希代子、加藤周一、黛敏郎、田淵安一、三保元、白井浩司、野見山暁治、須賀敦子、小川国夫、なだ・いなだ、鈴木道彦、高階秀爾、平川祐弘、二宮フサ、芳賀徹、渡邊守章、高山鉄男といった人々がいる。

彼らの中には、岸とほぼ同世代の者もいた。確かにその数は多いとはいえず、また彼らの多くはフランス政府の給費を受けて慎ましい生活を送る学生だった。岸はプロペラ機の南回りで五〇時間かけてパリに行ったと書いているが、ほとんどの留学生は、横浜港から一ヶ月かけて、客船や貨物船でフランスに辿り着いたのだった。

フランス郵船の旅客船の中はフランス階級社会の縮図で、甲板下の四等船客として行った者は、最低の待遇を受けるという洗礼を受けた。パリに着くと、彼らは日本大使館を通じた緩やかなネットワークで繋がることになるが、そこにあるのは日本社会の縮図だった。湯浅年子はそこには「モンストル(怪物)」がいると感じていた。遠藤周作の「異郷の友」(一九五九年)や「爾も、また」(一九六四年)には、日本人留学生同士の対抗意識や、パリの日本人社会の暗い一面が描かれている。

名前を挙げた留学生たちは、岸がフランスに行った時期にはすでに帰国していた人々ばかりだが、辻邦生、辻佐保子、加賀乙彦、平岡篤頼は、岸と同じ一九五七年からパリに留学している。阿部良雄はその翌年である。一九五〇年代のパリには、今道友信のようにパリ大学で教鞭を執る人もいたし、フランス国立中央科学研究所で働く湯浅年子のような女性もいた。片岡美智、高田博厚、長谷川潔、藤田嗣治などもいた。

岸惠子を知らないパリ在住日本人はほとんどいなかったと思われる。だがそれはあくまで「君の名は」の真知子、若いメロドラマ女優としてであったのではなかろうか。真知子を演じた岸自身は、「こんなに耐え忍ぶぐずぐずした女性は嫌だ」と思っていたのだったが、周囲は知るよしもない。


パリ駐在日本大使は、岸には残酷なまでに冷たかった。シャンピと二人で大使公邸に挨拶に行ったところ、エレガントな雰囲気の古垣鉄郎大使は、フランス語から日本語に切り替えると岸に言った。


《「大使館というのは、日本を代表する国家機関ですよ。その日本大使が芸能人が結婚するといっていちいち立ち会っていたらどうなります……。あなたは『君の名は』とかいうメロドラマで人気がある人だそうですがね、だからといって大使館を利用するようなことは売名行為としか……。私はそんな暇もないし、義務もない……」》(『ベラルーシの林檎』以下同)


私事ではあることは確かだが「フランスあげての文化行事の様相」を呈しているようにも思えたので、大使に相談も報告もしないのもかえって非礼ではないかと思い悩んだ末に相談に行ったのだ。しかし、このような冷たい対応をされたのでは、日本大使館が主催する催事にわざわざ足を運ぼうとも思わないだろう。


《「芸能人」そして「『君の名は』とかいうメロドラマ」と発音したときの大使のイントネーションに塗り込められた侮蔑の響きは、日本という国にとって、フランスでは栄ある国家の文化産業である映画が、文化でも、芸術でもないのだと思い知る標となった。》


古垣は一九六二年カンヌ国際映画祭審査委員長を務めることになるが、大使という当時の立場が目を曇らせたのだろうか。明治生まれで貴族院勅選議員の経歴を持つ彼は、一九五八年の新年を祝う会が日本大使館であったときに、天皇陛下万歳と唱えて、その場にいた辻邦生を辟易させている(『海そして変容 パリの手記Ⅰ』)。

「夫の人となりや、彼の社会的立場などをお知りになったのか、時の大使ご夫妻からは、その後いつも手厚いおもてなしをいただき、フランスを去られるまで親しい交際をさせていただいた」と岸は付け加えているが、含みのある書き方である。どうやら権威主義的な人物だったようである。

大使とのやりとりをしたときから、自分が属する芸能界は「ゲットー」なのだと岸は思うようになったという。ゲットーとは、そもそもはユダヤ人強制隔離居住地区を意味する言葉である。一般市民からは蔑まれる世界にいる人間ということなのだ。

フランス人映画監督の妻であり、俳優であった彼女は、多くがエリートだったパリ在住の日本人たちとは別世界に属する人だったのかもしれない。パリでも日仏合作映画「忘れ得ぬ慕情」が評判となったので、街を歩くとフランス人から辟易とするくらい「あら、ノリコ! あなたあの映画のノリコね」と声をかけられた。パリの日本人たちのなかで、新参の岸惠子は、登場の仕方からして特別な存在だったことは確かなことと思われる。

『私のパリ 私のフランス』(二〇〇五年)を読むと、最高級住宅地であるサン・ルイ島に住む岸惠子のパリが、階級的な刻印を押されたパリであることがわかる。モンマルトルもサンマルタン運河も、そこには登場しない。
 パリ八区にあったシャンピの家は、五階と六階を吹き抜けにしていて、床から天井まで六、七メートルあった。コクトーの舞台美術を担当した人の内装だった。玄関から入ると曲がりくねった廊下があり、しばらく行くと、十人以上が囲める食卓のある厨房だった。家の窓からは凱旋門が見えた。

とてつもなく分厚いヨーロッパ文化の蓄積の人格化が自分の夫であり、その存在自体が圧倒的なものであったことは、岸が書き記した文章から充分にうかがわれる。義父母は音楽家だった。義父はパリ国立高等音楽学校教授だった。その館には、ベルギーのエリザベート女王が義母の弾くヴァイオリンを聴きにきたことがあったという。


《あまりにもフランス的な、洗練されぬいた会話と、連夜のように続くパーティーや、プレミアショーや、晩餐会の中で、片言の英語とフランス語で右往左往していた私は、「ただ、珍しく、面白く、月日の経つのも夢のうち……」とはゆめいかず、夫に言わせれば突然身をひるがえして自室に籠もり、奈良の大仏さまのようにとりつく島のない、ミステリアスな顔で一日中宙空を睨んでいたこともあるのだそうである。》


「よくぞ自己崩壊しなかった」と岸は回想しているが、もっともなことだと思う。朝から晩まで、脚本のない芝居をしているような毎日ではなかったのだろうか。しかしそれは現実だった。本当の自分は一体何処にあるのか? 鉢植えではなく「切り花」のようにして裕福なフランスの一族に嫁いだ神奈川県庁勤めの家庭の一人娘が、夫を含めて日本語を話さない人々のなかで、どれほどの困難を抱えて日々を暮らしていたことであろうか。

ウィリアム・ホールデンやアラン・ドロン、ローレン・バコールなど、心の触れあいがあった俳優について、岸は魅惑的な寸評をしている。しかし、シャンピ邸を訪れた知識人たちについてはそうした文章を書いていない。夫になった人についても、彼女は断片的にしか書いたことがない。「彼のことを私はまだ書いていない。」「これからも書けないだろうと思っている」と述べている。

一回り年上のこの夫は、岸惠子に大きな人格的影響を与える教育者であったように思える。彼は植民地支配から独立したばかりの西アフリカはリベリア共和国のドキュメンタリー映画を撮影したり、一九六八年にはチェコ事件を取材するなど、世界史的視野から政治的問題に取材してカメラを回す人であった。

結婚後、岸惠子がゾルゲ事件に強い興味を抱いて夫に企画を勧め、日仏合作映画「ゾルゲ氏よ、あなたは誰?」(日本版タイトル「スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜」一九六一年)を撮らせて自らも出演したことは、岸自身に国際政治への強い関心が生まれたことを物語っている。彼女は一九五六年にハンガリー事件があったとき、夫からのフランス語の手紙でそれを知っても、いったいそれが何なのかまったく理解できなかったのである。

町の古本屋でたまたま手にしたゾルゲの獄中日記に引き込まれ、岸は石井花子や河合貞吉、尾崎秀実の未亡人にまで取材した。「ゾルゲ氏よ、あなたは誰?」の日本公開版は再編集されていて、シャンピの回想によれば、岸は当時、「魂をすりかえられたといって泣きさけぶほど怒っていた」という。このフィルムがソヴィエト連邦で評判になり、フルシチョフ書記長に招待されて夫婦でモスクワに行っていることは注目に値する。

しかし、国際政治に対する岸の関心は、シャンピとのパリの暮らしのなかで、徐々に育まれていったのだった。ハンガリー事件が理解できなかった岸は、一九六八年にチェコ事件が起きたときにも、何が起きているのか理解できなかった。彼女がこの事件の意味を理解するのは、シャンピと離婚し、さらに彼が死んだあとになってからのことである。(続く)

*次回は「ある友情 秦早穂子」


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